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夢魔ルルウォの伝説  作者: 雪ノ下セツノ
14/19

変態

「うっ、ひぐうっ……っ!」


 絶望。


 どうしてこうなったのだろう。


 ルルは泣きながら考えていた。

 押さえつけられて何がなんだか分からないままもがき、考えていた。


 人生で一番輝かしい日となるはずだった今日。

 数時間前まで、素晴らしいものとして終わると疑いもしていなかったこの日。

 どうしてこんなことに。

 せっかくの誕生日だったのに。


 ああ、だからか。


 ルルは恐怖のどん底で思い至る。


 誕生日だから、こうなったのだったと。



 *




 村の外れ。森の中。

 ヒョスロヌートの住む洞窟と川を挟んで反対側、徒歩15分ほどの距離にルルの家はあった。

 木々の間から煙突がちょこんと覗き、真っ白な煙が細く立ち上っている。

 日は少し前に落ち、高く澄み渡った空には星々が光り始め、遠くから吹く涼しい風が煙をさらっていく。


 収穫祭当日であった。


 ご機嫌そうなルルは自分の部屋で誕生日パーティーへ出かける準備をしている。

 服はバルギンに作ってもらったばかりの真っ白なワンピース。胸元の細いリボンはルルの瞳と同じ濃い青。


 バルギンはよく、ルルの瞳は深い海のように綺麗だと褒めた。この森で育ったルルは海などはもちろんこの村の外の景色を全く見たことがなかったのだが、ルルはそう言われるのが好きだった。父がそう褒めると時は必ず、その壮大な海についてどれほど美しいのかを語ってくれたからだ。


 晴れ渡った空を写したような真っ青な水。どれほど掬ってもなくならず、人を浮かべ、色とりどりの生き物が住み、押し寄せたり引いたり絶えず動き続ける不思議な水。海。どこまでもどこまでも青が続き、太陽の光はピカピカと強く、真っ白な鳥が飛んでいる海。


 バルギンはよく自分がかつて訪れた村や街の話をしたが、ルルはこの海の話が一番のお気に入りだった。

 遥か遠くにそんなに奇妙で美しいものがあるのかと。それが自分の瞳と同じ色をしているなんて。

 バルギンの話から想像することしかできなかったが、ルルの頭の中で海はいつもキラキラと輝き人を笑顔にさせるような美しさを持っていた。

 海に憧れた。

 だから色んなものに青を使った。髪をまとめるリボンや洋服につけるボタン、靴紐や髪飾りなんかにも。

 両親や娼婦らに甘やかされて育ったルルはそれはもうたくさんの装飾品を持っており、おしゃれには大変気を使う少女だったのだ。


 今日は真っ白な布の上にたった一つある青を目立たせるため、あえて髪飾りは前から見えないようにしようと決めたルルは部屋の扉を勢いよく開けるとパタパタと階段を降りていく。


「母、母よ!妾の髪を結い上げてたも」


 海辺の町で作られたという薄い青が透ける髪飾りをリリスに向かって差し出す。

 スープの様子を見ていたリリスが振り返った。


「あらなぁに、おめかしして。先生のとこじゃないの?」


 ルルが持っている髪飾りは元々リリスがバルギンにもらったものだった。薄く透ける花の形をしたそれが海に住む『貝』から作られたものだと知った娘が随分と羨ましそうな顔をしていたものだから、リリスは譲ったのだ。

 大事にすると喜んでいたルルに「ここぞという時につけなさい」と囁くと、真剣そうな顔で頷いていたのをリリスはしっかり覚えている。

 ついでに最近先生に女性、もといルルをおとす技を伝授したのもリリスだ。

 先生は『好き』という気持ちがわからないなどと言って渋っていたが、ついに何かが動き出すのだろうか。

 リリスはウキウキした表情でルルから髪飾りを受け取りルルを座らせる。

 ルルもウキウキした表情で胸元のリボンを整えながら答えた。


「うむ、実はの、ヒョスロヌートの家に誕生日パーティーに行ってくるのじゃ!」


 楽しみでしょうがないといったルルの言葉にリリスは首を傾げる。

 てっきり、収穫祭で賑わっている街を先生と一緒に歩くのかと思っていた。

 吸血鬼である先生は普段の賑わった村を体験できないから。夜のしんと静まった村しか知らない先生にとって人が通りいっぱいを埋め尽くすように歩いている様は滅多に見れないものだろう。

 ルルはいつも、「先生がしたことがないこと」を先生にさせるために色々やって楽しんでいるようだったし、今日もそれに出かけると思った。


 この子は予想を上回ってくるわね、とリリスはますますウキウキしながら尋ねる。


「また異世界の言葉ね?それは一体なぁに?」


「うむ。ヒョスロヌートが旅人から聞いたらしいのじゃがな、大人になるのを祝うとっても楽しいことらしい!」


「大人に?楽しい?あらあらそれって…」


 まだ見ぬ甘いものにうっとりと目を閉じ頬を紅潮させるルルに、リリスはテキパキ動かしていた手を思わず止めた。

 先生ったらあんな事言っといて、あらあらあら……と言ってしまいそうになる口を押さえる。


 先日娼館に来た先生は、詰め寄るリリスや娼婦たちに対して困ったように笑いながら、『聞けば聞くほど私はその好き、という感情を持っていないようなんですが……いえ、そんな激しい感情の揺れを感じたことは……独り占め……はあ、特に。……胸が、痛く?はは、そんなのは病気じゃないですか』なんて言っていたのに。


 ちゃっかり手を回していたのね!とリリスは内心興奮する。

 早くルルを行かせなくては、と止めていた手を動かし始め、手早く編み込みを進めていく。

 するとそれに連動するように、固まっていたバルギンも動き出した。


 そう、バルギンも部屋にいたのだ。自分が作ったワンピースを身につけているルルをデレデレと眺めていたバルギンが。

 愛する妻にプレゼントした髪飾りを可愛い娘がつけようとしているのを椅子に座って眺めながら。

 最近ますます見た目が似てきた二人が並んでいるのを見るだけでもなんだか幸せな気持ちでいっぱいになるのに、自分が買ってきた髪飾りのおかげでこの光景があるのだと思えば嬉しさも一入。

 そんなところに落とされた爆弾発言。


 石のように硬直していたバルギンは口をパクパクさせる。


「ちょちょ、ちょっっっっと待っ……っ????」


 まだまだ可愛い子供だと思っていたのに突然、男と『大人になる』だなんて。到底受け入れられない。受け入れられるわけがない。

 しかも相手はあの先生だ。女心が欠片も分かっていないと噂の、人間として、いや吸血鬼だが、社会に生きるものとして欠陥だらけのあの先生と!

 バルギンは頭の中を駆け巡る様々な不安をルルにぶつける。


「る、ルル?よく考えた?あの先生のどこが好きなの?確かにすごい発明してるし偉そうにしないし顔も悪くないけど……じゃ、なくて!えーっと、ひょろひょろしてるし、髪ボサボサだし……そうだ!研究してたら他のこと何にも気にしなくなる先生だよ?一生を共にできる?愛してる?体だけとかそんな……許さないからね!?ちゃんと責任とってもらわないと!」


 娘を思うばかり、とてもインキュバスとは思えぬ純情な発言をするバルギン。

 女を弄ぶと一部では悪名高いインキュバス。バルギン自身もリリスに会うまでは『100人斬りの処女厨』として各地で色んな女を手玉にとってきた。今だって村の男たちには『あのチャラチャラした、イケすかない色男』などと呼ばれているのがその名残だ。


 そんなバルギンが、目をグルグルさせ、ただの子煩悩のパパに成り下がっている。

 ルルはそんな父を、頭を動かさないように気を付けながら不審そうな目で見た。


「好き……?一生、愛……何を勘違いしておるのじゃ父は。妾はヒョスロヌートに恋などしておらんぞ?一生を共にするのは父と母のように衝撃的な出会いをして、燃え上がるような恋をした者と家を飛び出して……あれじゃろ、胸がキュンキュンするとか……妾はキュンキュンなどしたことがないからの。それはこれから探すのじゃ」


「そ、そっか…」


 思ったより固定観念に縛られている娘が心配になるやら安堵するやら複雑な表情のバルギン。


「私は良いと思うけどね、先生」


 リリスが最後の編み込み部分をくるっと捻り上げながら会話に混ざった。


「なっだめに決まってるだろ!?」


「あなたは誰でもダメなんでしょ?まったく、娘離れが出来てないんだから」


 リリスは仕上げに髪飾りをスッとさすと、ルルの肩をポンっと叩く。


「さ、ルル行ってきなさい」


「いってきますなのじゃ!」


 ルルは弾かれたように立ち上がると、そのままタタタッと扉へ走っていく。


「あっ、ルル!男はみんな狼だからね!?先生に嫌なことされたら逃げてくるんだよ!オレが滅多刺しにーー」


「了解なのじゃー!」


 父の言葉の途中で返事をすると、ルルは元気に飛び出しヒョスロヌートの家へ駆けて行った。

 リリスはその遠ざかる背中に笑顔で暫く手を振っていたが、その姿が木々の中に消えるとふう、と息を吐く。

 バルギンの方に体を向けると、その後ろで開けっぱなしだったドアが風でバタンと勢いよく閉まった。

 ギクリとするバルギンにリリスは目を細める。


「あなたって人は……ルルのことになるとどうしてそうなの。相手はあの先生よ?狼はあなたでしょ。出会ったときのセリフ忘れたの?」


「あれは悪かったって……怒ってる?」


「怒ってないわ。お世話になってる人のこと悪く言っちゃダメよって言ってるの」


 くびれた腰に手を当て、わざと険しい顔をして見せるリリス。険しい顔と言っても目に力を入れようと眉をギュッと寄せているだけであまり怖くない。愛する美人の妻が口を少し尖らせメッと言う姿は、娘を奪われるバルギンのグツグツ煮えたぎる敵意を少し和らげた。

 心を落ち着けなければ、とバルギンは息を吸い自分に言い聞かせる。

 先生は敵じゃない。先生は敵じゃない。先生を悪く言っちゃダメだ。お世話になってる。


「……もう悪く言いません」


 まだ不本意そうなバルギンに間髪入れずリリスが返す。


「威嚇もしちゃダメよ?」


 ギュッと目を瞑るバルギン。さらに口もギュッと引き結び眉もギュッと寄せ、顔の筋肉にギュギュギュッと力を入れる。


「…………分かってる」


 全く分かっていなそうな調子のバルギンにリリスはため息を吐く。腰に当てていた手から力を抜き、バルギンの隣の椅子を引いて座ると顔を覗き込んだ。


「そんなに心配?」


 バルギンは顔の中央に寄せていたパーツをパッと開放して叫ぶ。


「そりゃそうさ!心配に決まってる!リリスは違うの?ルルが、オレたちの可愛い可愛い娘が、まだ14歳なのに急に大人の階段のぼのぼとか言い出してさあ……」


「もうすぐ15になるわ」


 リリスは娘の成長の速さを感慨深く思いながら続ける。


「まあ、そうね。心配は私もしてるわ。夢魔同士の子なんて前例ないし……すごく性欲が強くて誰彼構わず襲っちゃったら困るわね。変態したら、あんまり誘惑しないように教えないと」


「昔のリリスみたいに誘淫質出しまくっちゃうかしれないしね?……ああ、今思い出してもあれはすごかった。同族のオレには効かなかったのホント残念だなあ」


 バルギンが当時のリリスを思い出してニヤニヤする。


 誘淫質。夢魔が標的の性欲を高めるために分泌する物質。ほんのり甘い香りとともに空気中を漂い、それを吸った相手の性欲、ひいては魔力を活性化させる。効果は相手と近ければ近いほど高い。

 リリスはかつてそれを街で撒き散らしたことがあった。

 バルギンはそのことを言っているのだ。


 リリスも苦り切った顔で自分の失態を思い出す。

 彼女がまだ変態したばかり、自分が夢魔だと知ったばかりの頃。誘淫質の制御ができずにいたリリスは、うかつに街に出て人混みの中でそれを自分が発してしまったことに暫く気づかなかった。やけにチラチラ見られるな、とだけ思っていた。


 リリスはそれまで自分が人間だと信じ込んでいた気持ちが強すぎて、無意識に夢魔としての能力が押さえつけられていた面もあるが、一般的な夢魔も自身の誘淫質の匂いというのは感じない。同族が発する匂いは辛うじて分かるが、それが効くことは全くない。だからリリスが気づかなかったのもしょうがないと言えるが、それでも一般的な夢魔なら無差別に誘淫質を撒き散らしたりしない。


 それは自身の能力の一部であり、効率的に魔力を得るための手段でもあるからだ。

 人間で言えば、食べ物を調理するときに手が勝手に動いて隣の人間を引っ叩いたりしない。そうだろう?ニンジンを切ろうとしたらニンジンを掴むことができるし、塩を振りかける量は細かく調整できるし、煮立ったスープを安全によそうことだってできる。自由自在だ。だから夢魔だって、標的を選んで興奮させることができるし、その度合いは調整できるし、大勢の中でふりまいて自分の手に負えない状態に陥ることなんて絶対にありえない。

 まあ、それが目的でない限りは。

 自ら快楽を求めてそんなことをするんじゃなくて、どうしてそんな危険なことができる?


 しかし残念ながら、リリスは未熟な夢魔だった。人間だという思い込みの強さが祟った。能力を完全に掌握することができていなかった。

 リリスが歩いた後をふんわり漂う誘淫質の甘い匂い。男の体の奥底をビリビリと刺激する匂い。

 男たちはリリスに引き寄せられた。本能のままフラフラとリリスの後を追いかけた。リリスが異変に気づく頃には、その後ろにそれはもう色んな男がいて彼女に鼻息荒く迫った。

 既にその頃バルギンと出会っていたリリスは、人生初めてのビュッフェ状態によだれを垂らしそうになりながらも断った。よだれを飲み込んで断った。断った程度でどうにかなるほど冷静な男たちではなかったが、まあ色々あって断れた。


 あの騒動を持ち出されてはリリスは弱い。バツが悪そうにバルギンから目を逸らす。


「あれは……変態したばっかりで種族特性うまく扱えなかったんだから、しょうがないじゃない。大体、あなたに効かなくて良かったわ。もし効いてたらあなたもあの男どもの群れに加わってみたってわけ?」


「……そういうのも昔は好きだったけど。リリスを他の男がって思うと、うん、効かなくてよかったか」


 バルギンがうんうんと頷く。頷きながらキラッと笑うと、目を逸らしているリリスの頬に手を添え、その顔を自分の方に向けさせた。


「っていうか、出してるよね?さっきから」


 リリスは頬を挟まれながら訝しげな顔をする。


「何をよ」


「ん?また無意識?」


 バルギンがリリスの顎をスリッと撫でて笑う。

 リリスはそのからかうような目から逃れようとバルギンに挟まれた顔をプイっと横に向けた。


 バルギンはいつまでも自分のことを変態したばかりの幼い夢魔のように扱うから困る。


 リリスはそう思いながらバルギンを横目で軽く睨み、聞いた。


「……誘淫質を、私が出してるっていうの?」


「そう、効かないけど……誘ってる?」


 バルギンは嬉しそうに身を乗り出すと、リリスの頬にキスを落とした。至近距離で目を覗き込めば揺れるリリスの瞳がそこにある。バルギンはリリスの腰にソッと手を回して引き寄せると、もう一度キスしようと顔を寄せる。甘い空間が生まれ、ベッドインまで秒読み……と思いきや。リリスがバルギンを押し戻した。少し考える風で、頭の中を整理するように言葉を紡いでいく。


「ちょっと、待って……私はあなたが出してるんだと思ったわ。確かにちょっと甘い匂いがしたもの。絶対に私のはずがないのよ、気付けるようならあんなことにならなかったし……それに、普通夢魔は自分の誘淫質の匂いは感じないのよね?でもあなたも甘い匂いを感じたのよね?」


 バルギンはキョトンとしながら乗り出していた体を戻し、椅子に深く座り直す。


「え?うん、そうだね。匂いしたよ。リリスも感じたんだ、そっか。……どう言うこと?」


 軽く頷きながら、違和感に首をひねるバルギン。

 それを見たリリスが、簡単なことだったわ、と言うように笑う。


「つまり、私たちじゃないんじゃない?」


「え?」


 バルギンは初め、リリスの言葉をよく理解できなかった。


 私たちじゃない、とはどういうことだろう。

 確かに夢魔は自分の誘淫質の匂いを感じない。だから匂いを感じたならそれは自分ではない夢魔の出している匂いということで、この場にいる夢魔はリリスとバルギンで。自分たちでしかあり得ないのではないか?

 いや、確かにこの場にはもう一人いた。ルルが。ルルだってもちろん夢魔だ。しかしルルはまだ変態を迎えていない訳だからノーカンのはずでーー。


「――え?」


 自分の中の論理展開に穴があったことに気づいたバルギンの動きがピシッと固まった。

 それは、つまり。

 信じたくないような顔のバルギンにリリスは頷いて見せる。


「ルルが誘淫質出してたんだと思うわ」


「う、嘘だろ……まだ……まだ、早いんじゃ」


「少しね。まあそういうこともあるわ」


 あまりのショックに唇を震わすバルギンの頭の中でルルの成長記録が走馬灯のように流れていく。


 ルルが生まれた瞬間。夢魔同士では子供は生まれないだろうと言われていたのに奇跡的に生まれた娘。可愛くて可愛くてしょうがなかった。

 好奇心旺盛で、歩けるようになれば色々なところに顔をつっこみすぐいなくなるおてんば娘。新しいものに目ざとく面白そうなことには何にでも手を出す。危なっかしくてハラハラさせられることも多かったが、そんな心配をよそに大きな怪我もなくスクスクと育った。

 どんな人ともすぐに仲良くなり、何か楽しいことをしようと毎日をイキイキと過ごしているルル。

 リリスに似てきたルル。スラリと伸びた背、メリハリのあるスタイルと背中にこぼれる美しい金髪、真っ白な肌に透き通った青い瞳。いつも楽しそうな笑顔を浮かべ、誰もが振り返るような美女に成長していくルル。

 いつか誰かと恋に落ち、結婚をするのだと心踊らせていたルル。

 貝殻で作られた青い髪飾りをつけてドアから飛び出していったルル。


 ヒョスロヌートの隣に立ち、その細い腕で赤ん坊を抱いて『父よ、いや、じいじかの』と笑うルーー。


「ルルー!?」


 ガタンと立ち上がったバルギン。完全に錯乱し、頭をかきむしりながら妄想の中のルルに向かって叫ぶ。


「こ、子供はまだ早いだろ!?夢魔が子供産むのにどんだけ回数要ると……!誘淫質で淫らな夜を先生と!?ダメだ、ダメだよまだこんな……誘淫質効きすぎたら赤ちゃんできちゃ……あっもうできて……うああルルの子だからすっごい可愛い……」


 顔を真っ青にしたり赤くしたり、絶望したように椅子に崩れ落ちたりデレデレしたり忙しない。

 自分の世界に入ってしまったバルギンに呆れてため息をついたリリスが声をかけた。


「バルギン」


「……リリス」


 バルギンが顔を上げる。かきむしったせいでボサボサになった前髪の奥には不安そうな瞳が覗いていた。大事に腕の中で温めていた何かを取り落としてしまったかのような、大切なものをなくしてしまったかのような、そんな喪失感に揺れる瞳。

 リリスはそれを見て、おかしそうに笑った。


「ふふふ」

「……何で笑うのさ」

「だって、大袈裟なんだもの」

「でも、でもさ」

「夢魔なんだからいいじゃない、淫らな夜」

「だってまだ14……」

「そろそろ成人よ」

「だからってもう」

「娘離れしなさい」

「うう、オレのルル……」


 でもでもだってとウネウネするバルギンに、リリスは特大のため息をついてみせた。


 まるで、とリリスは思う。

 バルギンはまるで、ルルがまだほんの小さい子供だとでも思っているみたいだ。

 15歳になれば、結婚して家を出るのが普通だというのに。

 バルギンだって15の時にはもう街を放浪していたし、リリスはまだ14の時からバルギンに口説かれていた。


 もう15になる娘と素性の知れた立派な先生。何をそんなに憂うことがあろうか。

 ひとりぼっちになるわけでもないのに。


 長い息を吐き切ったリリスはひたとバルギンを見つめる。

 たじろぐバルギンに両手を伸ばし、さっきのお返しとばかりに頬をギュッと挟んだ。


「りりしゅ?」


 口をモニュモニュと動かす夫に顔を近づけ、額をコツンと合わせる。

 まつ毛が触れ合いそうなほどの距離から目を覗くと、バルギンの瞳いっぱいに自分が映っているのが見えた。

 今この瞬間、バルギンは自分だけを見ている。

 それを確認したリリスはそっと目を閉じて言った。


「『あなたの』は、ルルだけじゃないのよ?」


 結婚したばかりの頃は私のことしか見ていなかったのに、今はすっかりルルのことに夢中になって、それは自分たちの子のことなんだから悪くないし構わないしむしろ嬉しいけど、だけど、でも、隣にまだいる私がいるのにそんな世界が終わるみたいに動揺しちゃって。

 もやもやする。娘に嫉妬なんかしてない。

 してないけど、私は何なの?

 私も。

 私も、あなたのリリスでしょう?


 そういうもどかしい思いを込めて、リリスは合わせた額をさらに強く押し付ける。

 口は開かず。

 何かを訴えるように。


 バルギンは、無言でグリグリしてくる妻を見つめながら、自分の中に湧き上がってくる気持ちを見極めようとした。

 さっきまでは不安でグラグラしていた気持ちが少しずつ鎮まっていくのがわかる。


 確かに予期していなかったルルの変態に驚いた。もう少し先だと思っていたから焦った。

 でも、わかっていたことのはずだ。

 いつかは変態がくるし、夢魔である以上親元で縛り続けることはできない。

 自分だって15で家を出たのではなかったか?


 そうだ、寂しいからって邪魔をするのは違う。相手がおかしな男ならともかく、あの先生だ。

 先生……だからこそ不安な部分もあるが、それにしたって昔の自分よりよっぽどいい。

 手当たり次第女に手を出すことなんか絶対にないと、きっと、夢魔にはもったいないほどの誠実な男だと思える。


 ルルのことは旅立つその瞬間まで可愛がって可愛がって可愛がって、お腹いっぱいになるくらい可愛がってから送り出せばいい。

 何も今日いなくなるわけじゃない。


 隣に誰もいなくなるわけじゃない。


「リリス」


 バルギンは頬に添えられていた手を優しく剥がし、リリスの頭をギュッと抱きしめた。

 息を深く吸い込み、自分の中に湧き上がってきた気持ちをもう一度確認する。

 胸の奥から湧き上がり、不安を宥め、心をすっかり塗り替えていった気持ち。

 身体中をいっぱいに満たして今にも飛び出してしまいそうな、堪えるだけで胸が苦しくなるようなこの気持ち。

 リリスに伝えなければ。

 伝えたい言葉が頭の中を好き勝手に飛び回り、ごちゃごちゃになって訳が分からなくて呻く。


「うあー……」


 考えもまとまらないまま口をついて出たのは本心。


 リリスへの感謝と。

 改めて、愛の言葉を。


「……オレのリリス。ほんっとーに愛してる」


 リリスはその耳元で囁かれた言葉に満足そうに笑って抱きしめ返した。


「私もよ、バルギン」


 

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