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夢魔ルルウォの伝説  作者: 雪ノ下セツノ
11/19

邂逅

 先生は夜道を一人で歩いていた。村はずれの森にある我が家に向かって。


 この村の人口は500人ほど。森を切り開いて作られた村のため、酒場から森までの距離も大したことはない。だが、当時としては実に大きな部類の村だった。


 当時、つまりのちに絶倫暦12年とされるこの頃。種族ごとに暮らすのが基本の時代。多少は近隣共同体とのやり取りもあったが、それ以上の交流はほとんどなく、百人程度が集まって暮らしのが一般的だった。


 そんな時代にこの村がそこそこの人口を誇っていた理由。それは先生――ヒョスロヌートにある。ヒョスロヌートは現代では吸血鬼とも呼ばれる精霊。吸血族という種族である。


 なぜこの吸血鬼がいることで村がこれだけの人数になったか。それを説明するには、吸血族というものについて知っておく必要があるだろう。


 吸血族は3〜400年ほどの寿命を持ち、日光に弱いことや強靭な再生力、眷属を生み出せることなどで知られる。肌は白く、目は赤。髪の色は紺や黒など、闇夜に紛れる色が多い。鋭い犬歯で血を吸い取るが、その先端から軽い麻痺毒が分泌され、対象はほとんど痛みを感じない。


 なに、知っている?吸血鬼は有名?


 確かにその伝説は遠く日本にも聞こえているのだろう。ふらっとこの世界に迷い込む地球人は、多くはないが確かにいる。それなら反対に、地球に迷い込んだ吸血族がいたとしても不思議はない。この世界から地球に迷い込んだ吸血鬼は、そちらでは唯一の存在として噂になったろう。広まった伝承は諸君らの耳にも届いたのに違いない。読者諸君が吸血族の生態に詳しいと勘違いしてしまうのも分かる。


 だがよく考えてみてほしい。こういう可能性もないだろうか?

 吸血鬼でもなんでもないこの世界の住人が迷い込み、吸血族の伝説を話してみたのが広まっただけという可能性。つまり私が言いたいのは、その伝承は正しく伝わっていないかもしれないということだ。だからもう少し詳しく説明して差し上げよう。


 まず特徴その1。日に弱い。

 吸血族というのは、日の光に当たるとまず肌が赤くなる。


 ああ、まさか日に当たれば一瞬で灰になってしまうなんて信じている読者がいるだろうか。そんなはずはない。吸血族というのはほとんど不死に近い、生存競争のトップを走る種族なのだ。その不死性については並ぶものがない。


 だからといって、肌が赤くなるだけで済むわけでもない。


 日に当たって赤くなった皮膚は、徐々に表面から崩壊し始める。ボロボロと剥がれ落ちていく。少しずつだ。少しずつ乾き、少しずつひび割れ、少しずつ灰色になり、端からさらさらと崩れていく。もし、そのまま長時間当たることになれば、その崩壊は体の奥深くまで達するだろう。最終的には身体中が灰になって消えてしまうという結果になる。


 そら見ろ、やっぱり灰になって死んでしまうじゃないか。

 そう仰せになる読者もいらっしゃるか。


 いやまさか。吸血族をみくびってもらっては困る。この弱点が弱点となることなど滅多に起こらないのだ。それは強靭な再生力に由来する。


 そもそも、気を付けていれば日光を浴びるような目には合わない。生存競争の先頭を走るには、そう頭が悪くてもいけないのだから。

 日中は大抵洞窟にこもり、(そう、頑丈な岩の洞窟は吸血鬼のオーソドックスな住処の一つである)、安全な場所で日にあたらぬ生活を送る。


 どうしても昼に外に出なければならない用事ができたとしたら?そんなものはそうそうない。読者諸君、人間だってそうだろう。どうしても夜中でなければならない用事がどれだけ思いつく?大抵のことは融通が効くものだ。


 まあいい。仮定の話。もしあったとしたらだ。


 もしどうしても昼間に出かけなければならない用事があったとしたら。

 その時はローブだ。真っ黒で光を通さないローブ。頭にすっぽり被せられる大きなフードと、指先、足先まで完璧に覆えるたっぷりの布。光にさえ当たらなければ良い吸血族は、ローブで全身を覆ってしまえば、短時間ならわりと気軽に出歩ける。

 ちょっと肌が敏感な種族なだけなのだ。日光に過敏な。反応が過剰な。


 その上だ。その上、強靭な再生力。

 ヒョスロヌートの例を見ればわかるだろう。灰になりかけるまで気付かなかったヒョスロヌート。それでも一晩、いや一昼。一昼の眠りでその傷痕は跡形もなく消えた。小さな怪我。軽い火傷。そんなものはただちに治ってしまう。治癒力というよりも『再生力』と呼ぶべきその能力のおかげで、日光は弱点たり得ない。


 お分かり頂けただろうか。吸血族は滅多に死なないことが。血を定期的に飲むことさえできれば、それもそう多くなくていい、ほんのコップ一杯分の血。それだけで半年は生き長らえる。最低限生きるだけなら血の摂取くらいしか気にすることがない、そんな種族。


 もちろん「滅多に死なない」ことだけがその特徴ではない。名だけは知られている『眷属化』だとか、コアなところでは『血の契約』だとか。他にも諸君らが知らないであろう種族特性は多々ある。

 だが後回しだ。

 なぜなら関係ないから。

 村が栄えていること。辺境にあるこの村に人が多く集まること。

 それがヒョスロヌートにどう結びつくのかを説明するには、吸血族の不死性だけ知っていれば充分だ。


 ヒョスロヌートがとにかく死ににくい種族であること。これが村の賑わいにどう結びつくか。


 導き出される結論。


 吸血族は『凝り性』である。だからこの村は賑わった。


 ああこれではまだ不親切だろうか。


 つまりこういうことだ。


 吸血族というのは生に飽きやすい。

 300年以上の長い生を、ほとんど何にも脅かされることなく送ることができるから。ただ生きるためだけなら『やらなければいけないこと』があまりに少ない。半年に一度コップ一杯分の血を飲むだけで生き続けることができる。平坦な生ならば。つまらない生ならば。故に彼らは『打ち込める何か』を求める。人生をかけてやるべき何かを。趣味というには重過ぎる執着を。


 そうして見つけたのは一体何だったろうか。


 ああ、名は体を表す。

 全ての吸血族が避けては通れない唯一のもの。たった一つの欲求。生に目的を求める吸血族が「血」に興味を持つのは自然なことだ。美味な血を見つけ出すことこそ、吸血族にとって最もポピュラーな熱中対象。ほとんどの吸血族は極上の血を探し歩いて生きている。


 しかし、ほとんど。何事にも例外はある。


 変わり者のヒョスロヌート。

 吸血は最低限の義務、むしろ煩わしいとさえ思い、身だしなみには頓着せず、どんなコレクションにも執着せず、モノにもカネにもオンナにも興味を示さない。


 それでも。そんな彼にも本能は残っている。吸血族としての本能。すなわち何かに打ち込む気質。

 血ではなく、服飾でもなく、一般的な執着から外れたもの。ただ一つ、彼の興味を惹くもの。魔力。魔法、魔術、魔物、精霊。未知に満ちた魔力探求の世界こそがヒョスロヌートの邁進する道である。


 そんな彼は、66年前からこの村はずれの森の中に住んでいた。住み始めた頃は一般的な百人ほどの村だった。


 30年ほど前に『魔法陣』を開発した。魔力はなんとなく存在するもの、という認識だったこの時代に。

 魔力を流し込むと火がついたり水が滴ったりする紙を開発したのだ。彼は天才だった。


 しかし、開発するだけでは村に人が集まったりはしない。もちろんそれを人々にばらまいた。実験のために。

 吸血族よりも魔力量が少ない人間にも使えるのか?使う人間によって効果が変わることはあるか?誤作動が起きはしないか?

 さまざまなパターンを知るために。

 単なる実験。魔力についてより深く知るための実験。ヒョスロヌートにとってはそれだけだった。


 だが受け取ったものたちにとっては違う。魔法陣の利便性たるや!

 これまで火をおこすのにどれだけ苦労していたことか。水がどれほど貴重だったか。

 魔法陣は彼らの生活を一変させるには充分だった。生きやすくする、その変化のためには。


 だから人が増えた。

 子供を育てる負担が減り、老人が長生きし、旅人が居ついた。

 30年かけて人口は5倍になった。


 この村の者なら誰だってヒョスロヌートに感謝している。

 この暮らし向きを与え、しかし決して偉ぶらないあの吸血鬼に。

 少量の血なんて、対価にすらならないと思っている。

 誰もが喜んで血を差し出し、たまに村に現れれば出来る限りのもてなしをし、先生と呼んで親しくする。


 温厚な先生を尊敬するこの村では、何もかもが平穏。

 平穏で暮らしやすい村に人は集まる。


 この村がそこそこ大きいのは、便利な魔法陣を生み出し、しかしそれを権力に結びつけなかったヒョスロヌートのおかげなのだ。


 少し説明が長くなってしまった。


 この少々大きな、彼のおかげで随分大きくなった、村の外れを歩いている彼に話を戻そう。



 ヒョスロヌートは、森に向かって歩いていた。すっかり暗くなった村はずれを。


 その数歩先。


 揺れる光があった。

 暗闇にポカンと浮かぶ、赤い光。

 常人の目には火の玉かなにかにしか見えないその灯の下。

 夜目がきくヒョスロヌートにははっきり見えた。

 少女だった。


 それは齢12のルルウォ・リスティージュ。

 まだ幼い彼女が、暗い夜道を不用心に歩いているのだった。

 ルルが一歩一歩進むのに合わせ、赤い光もヒョコヒョコ上下する。

 ぼんやり光る輪を頭の上に乗せているせいだ。

 よく目を凝らしてみると、それはコウルファで作られた花輪であった。


 コウルファ。昼間にだけ開く花。日光を貯める花。

 夜はその花弁を閉じ内側からほんのりと光が漏れ出る。

 さんさんと日が降った夜にはその輝きを強め、雨のやまない1日には空から顔を背ける。太陽が顔を出さなければ花開くこともなく、その光を体に宿すことのみを求める一途な花。一途な恋を示す花。


 のちに一途とは言えない恋をするルルが、それを乗せて歩いていた。


 てくてくてくてく。


 急ぎ足で。


 上機嫌でクルクル回りそうになる衝動を抑え、早く家に帰らなければとどんどん足を早めていく。


 あまり遅くなるなと言われていたのに。怒られてしまうかもしれない。そう心配して。


「…しょうがないのじゃ」


 ルルはポツリと呟く。

 今日は天気が良かったから。そう頭の中で言い訳しながら。


 そうだ、仕方がない。目も眩むような太陽が出ていたから。

 だから、日が落ちてからもしばらく見入ってしまったのだ。一面に広がるコウルファの光があまりに美しくて。

 閉じた花から漏れ出る幻想的な光。昼にいっぱい集めた光。暗くなるにつれて輝きを増す光。

 頭に手をやる。大丈夫、落としていない。まだ明るいうちに作った花輪がそこにあるのを確認する。


 その花輪はほんのり赤く光る釣鐘型のつぼみ、それもたっぷり日を吸い込んだものを2、30個繋げて作られていた。つぼみが発する淡い赤が、真っ暗な闇にルルの顔をうっすらと浮かべ、普段ならまだあどけなさが残る美貌を幻想的に盛り立てている。

 男なら誰でも、いやたとえ女だろうと見惚れずにはいられない、息を飲むような美しさを振りまくルル。


 だが夜に村の外を歩く者など存在しない。

 ゆえにこの美しさを目にする者もいない。

 この奇跡のような美の目撃者は残念ながらーーいや、一人いた。


 ヒョスロヌート。


 彼はルルの数メートル後ろを歩いていた。


 だがまさか。あのヒョスロヌートが美しさに息を飲むことなどあるのだろうか。

 もちろん否。

 いかに美しい少女であろうとも、心を動かされるようなヒョスロヌートではない。

 これまで少なくない数の女が寄ってきた。大恩ある吸血鬼に尽くそうと。優しくも抜けたところのあるこの吸血鬼を支えるのだと。


 しかしこの吸血鬼、未だ執着を探しているようなひよっこ吸血鬼ではない。伊達に60年も研究一筋で生きていないのだ。魔力以外の何も目に入らない、難攻不落の吸血鬼だった。

 寄ってきた女の中には、若い女も妙齢の女も熟年の女も、村一番の器量よしだっていた。それらをのらりくらりとかわしてきた。

「私は人生を捧げる対象がもうあります」の一言で。困り切った笑顔で。


 そんなヒョスロヌートだから、もちろん道の先にいる少女の美しさなど気にも留めない。


 気にも留めない、はずだった。


 反応したのは魔力。いや逆だ。魔力が反応しなかった。反応するはずの魔力がなかったことに反応した。


 ルルは魔力を持っていなかった。


 生物なら必ず持っていると言われる魔力を。


 魔力は目に見えるものでも感じられるものでもない。ただ存在する。濃い魔力は物体に意思を与え、奇跡を起こし、体内の魔力は怪我を治し、命を作る。その程度の理解。研究は初期段階。誰もその仕組みを理解していない。ヒョスロヌートがかろうじて「魔法陣」を作り出したのが最先端。だがそれはこの村でしか知られていない。


 誰もがただあるものとして扱い、その誰もが必ず持っている。当時はそう思われていた魔力。


 だが実際にはそんなこともない。魔力が宿らない場所、魔力を一時的に手放す術、ある年齢まで魔力を保持しない種族。研究が活発になるにつれ分かってくる例外。今後いくらでも出てくるのだ。この絶倫暦12年にはまだ知られていなかった事実が。ヒョスロヌートがまだ解き明かしていなかった事実が。


 だから彼は興奮した。魔力は何にでも宿ると思っていたこの時代の彼は。いつも持ち歩いている自作の魔力測定器に表示された結果に。


「魔力が…全くない…?まさかそんなことが…!」


 思わず立ち止まってしまった彼は顔を上げ、慌てて声をかける。


「あ、あの!そこのあなた!ちょっと待ってくれませんか!」


 ルルに追いつく。運動不足と少々の興奮によって乱れた息を整える。


「はーっ、はぁ…あ、あなた。あの、魔力がないようなんです。こんなことは初めてですよ。一体どうして…何か心当たりはありますか?体調不良などは出ていませんか?あ、魔力というのはご存知ですか?私がーー」


「しっておる」


 唐突に呼び止められ不思議そうな顔をしていたルル。ヒョスロヌートの興奮したような声を端的に止めた。


「知って…?魔力の存在をですか?それとも、ご自身に魔力がない理由を…?」


「そのどちらも」


 堂々と言う少女に首を傾げるヒョスロヌート。


「わらわは夢魔なのじゃ。」


 続けられた言葉にさらに首を傾げた。


「夢魔?夢魔、夢魔、夢魔…異性の精を搾り生きるあの種族ですか?確か、性交の際に相手の魔力を練り上げ取り込むことができるとか。多種族から魔力を受け取るその性質から、夢魔自身はあまり多くの魔力を保持しないというのは聞いたことがありますが…あなたは違います。少ないというレベルではありません。全く持っていないんです」


 魔力のことになると饒舌に話すヒョスロヌート。12歳の子供に向かって性交などと臆面なく言っている。種族特性ならルルも聴き慣れている単語かもしれないが、それにしたって無遠慮だ。ルルはわずかに一歩下がりながらも律儀に答えてやる。


「夢魔は15になるまで魔力をとりこめないのじゃ」


 知らなかった事実に、しかも自身の今の研究内容に役立ちそうな情報に気分が高揚していくヒョスロヌート。


「なるほど、なるほどなるほど…!夢魔は出産率が非常に低いですからね。その子供は珍しい上、15歳未満の夢魔はどこかへ預けられるのが一般的だとか。だから魔力を持たぬ状態の夢魔など滅多にお目にかかれないと…今まで私が魔力を持たぬ者に出会えなかったのも、世に知られていないのも道理ですね。ふむ、ふむふむ…これは、ツイていました。丁度今気になっていたことを、このお嬢さんが…」


 途中でポン、と手を合わせると、ぶつぶつ呟いていたのをやめて咳払いをする。


「…えー、ごほんごほん。お嬢さん。もし良ければ私のサンプ…んんっ。少し、私の研究の、お手伝いをして頂けませんか?」


 ニッコリ爽やかに手を差し出すヒョスロヌート。


「…ずいぶんうさん臭いやつじゃのう」


 眉根を寄せまた一歩下がるルル。

 ヒョスロヌートが焦った顔をする。今まで頼み事をして断れたことなどない。


「えー…、あっ、面白い魔法を見せてあげますよ!」


 これでどうだ!とばかりに笑顔を持ち直す。自分では最高の誘い文句を放ったつもりのヒョスロヌート。


「…知らんやつには付いていくなと父母に言われておるでな。さらばじゃ」


 ずっと不審そうな顔をしていたルルは、結局怪しいしよくわからんやつだと判断した。

 まだこの頃は、楽しければ良いと鼻を突っ込む癖はなかったようである。

 踵を返し、さっさと帰ろうとした。


「ちょ、ちょっと待ってください!じゃあ、知ってる人になりましょう?ね?」


 早足で歩き出したルルの背中を追いかける。


「ついてくるでない!」


 ルルは追いつかれないようどんどん足を早めていく。


「あなたのその体質、大変珍しいんですよ!他にはいないんです!」

「夢魔なら普通じゃ」

「今だけなんでしょう?今活用しないともったいないですよ!」

「わらわは早く大人になりたいのじゃ」

「でもちょっとだけ!ちょーっとだけで良いんですよ〜。大人になる前に一晩協力して頂くだけでも…」


 ピタッと足を止めるルル。

 いつまでもついてきそうなヒョスロヌートを追い払いたかった。

 くるっと振り返り、少し前に旅人から聞きかじった言葉を言い放つ。


「ろりこん!」


「ろ…ろりこん?」


 初めて聞く言葉に困惑する。


「異世界の言葉で『少女によこしまな思いをいだくもの』という意味だそうじゃ。ついてくるでないと言うておろ!」


 プンスカと地団駄を踏むルル。


「邪だなんてそんな…私は純粋に研究に打ち込んでるんです。おかしなことはしませんから…」


 なお言い募るヒョスロヌートに「しつこい!」と叫びダッと駆け出す。

 ああ私の研究対象が!と足を踏み出しかけたヒョスロヌート、ふと視線が下に引っ張られた。ぼんやりした赤い光が暗闇にポツンと落ちている。ルルの花輪だった。勢いよく走り出したものだから落としてしまったようだ。

 視界に入った光に気を取られた瞬間にルルは暗闇に消えていた。いや、正確には夜目がきくヒョスロヌートにはまだ走り去る背中が見えていたが、運動不足で追いつけそうもない。ふわりとしゃがみ花輪を摘み上げると、矯めつ眇めつ眺める。


「逃げられて、しまいました…」


 ポツリポツリと考えを口に出す。一人で研究に没頭するヒョスロヌートの癖だ。難解な問題が浮上したとき、解決策をはっきりさせるための癖。


「村の皆さんがよく言っていた『逃げられると燃え上がる』というのはこういう気持ちなのでしょうか。どうしたらいいのでしょう、困りましたね。今までに経験のない…しかし彼女がいれば一気に研究が…こういう時彼らは…ふむ、『手に入れたい女には花でも渡しておけ』でしたか。はは…彼らに聞いた助言が役に立つ日が来るとは…しかし今回は役に…なんせ相手は女性…きっと…」


 少し的外れな方向に考えがまとまっていくヒョスロヌート。酒場の男がいつか言った言葉が頭に残っていたらしい。

 先生と呼ばれながらも、どこか抜けたところのあるこの吸血鬼。

 ルルを研究対象としてしか見ていないこの男。


 はてさてどのようにルルと仲を深めていくのか。

 どうやって最初の夫となるのか。


 それはまだ先。

 3年後の話である。


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