これは、昔話
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プロローグ
絶倫暦296年
「で、伝令っ!ルルウォ・リスティージュ様がっ、お隠されなさいましたっ!」
息を切って部屋に駆け込んできた男。胸に手を当て直立不動になり、汗を流しながら顔を真っ青にして部屋の主人の反応を待つ。
明かりが全て消されて薄暗く、本来立派であるはずの内装が全く見えない部屋の真ん中に立っていたのは一人の男。闇に溶けるような紺色の髪はボサボサで、長い三つ編みとなって腰まで伸びている。
右手に掲げた小さな容器からは緑色の光が漏れ出し、その不健康そうな白い肌を闇に照らし出していた。突然入ってきた男に驚いたように目を瞬かせる。あるいは開け放たれたドアから差し込む光に目を慣らそうとしたのかもしれない。
どちらにせよ彼は伝令の言葉への反応が遅れた。
「おかくされ……?」
困惑したように繰り返す。
直後。その意味に気づいたのか手に持っていた容器をガシャンと落とす。緑に発光する液体が彼の足元にゆっくりと広がる。
「目撃が、あるのですか?」
男はやや呆然とした様子で、しかし丁寧な口調で尋ねた。
伝令は視線を斜め下に落として緑の光を瞬きもせずに見つめ、顔面蒼白で震えながら口を開く。
「目撃者、多数……!演習中だった警備兵50名余りがそこに居合わせました……っ!」
「隠された、となぜ言えますか?状況は?いつもの悪戯という可能性は?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、伝令は数分前の出来事をよく思い出そうと口を引き結び、頭の中でできるだけ簡潔にまとめる。
「演習の見学にいらしたルルウォ・リスティージュ様は、兵たちと打ち合っておられました。しかし、その途中で突然羽をお出しになって飛んだ先に、いつの間にか出現していた異界洞穴と、その前に幼い少女がいました。陛下は吸い込まれそうになる少女を引っ張り、その反動で……」
伝令はそこで口をつぐむ。拳を強く握りしめ、何かに耐えるように表情を歪めている。
状況を徐々に飲み込んできた男が慎重に尋ねる。
「そこまでが全て悪戯ということは?異界洞穴の目撃例はほとんどありませんし、いつものように幻惑を使ったのかもしれません。仮に本物だったとしても、彼女は転移が使えるはずです。私たちがあたふたするのをこっそり見ているのかも……」
希望的観測を口にする男に、伝令は鎮痛な面持ちで首を振り、苦しそうに言葉を絞り出す。
「それは、あり得ないのです」
「なぜですか?」
「救出された少女が、ずっと泣いているからです」
男はそれを聞き、観念したように上を向いた。自身の往生際の悪さを嘆くように首を振り、それから苦笑する。
「ルルさんが、泣いている子供を放って悪戯などするはずないですね……」
伝令はそれを聞いて泣き出しそうな顔をし、勢いよく頭を下げる。
「我々はその場にいたにもかかわらずっ!どう、どうお詫びすればーー」
「ルルさんはそんなこと望みません。……おそらく。まあ、わかりませんが。それより他の方達には伝えましたか?」
落ち着いた男の声に伝令は深く頭を下げたまま答える。
「はい。現在他の者たちがユースリーン様、ノーヴィス様、アルグノス王の元へ向かっています」
男はその言葉に軽く頷くと足を踏み出す。床にばらまかれた液体を気にも留めずビチャビチャと跳ね散らしてドアに向かう。
部屋を出る瞬間、頭を下げたままの伝令に向かってニコッと笑顔を浮かべた男は、なんでもないことのように言った。
「大丈夫ですよ。私はまだ異界渡りの研究はしていませんでしたが、ずっと気にはなっていました。研究を始めればきっとすぐに彼女を見つけられるでしょう」
男は羽織っていた真っ黒なローブのフードを深くかぶると、そのままフラフラと歩いていく。『それがふらぐというものじゃ!』と後で文句を言われることも知らずに。