少年時代
エピローグ
そこは、九州の太平洋岸に面した半島の先端に位置する、小さな島だ。
島の広さは、周囲約4km、面積0.86km2。
平地がほとんどないため、海岸に迫る急な斜面に3階建てのコンクリート造の建物がひしめくように建ち並んでおり、その風景は、まるで地中海の漁港を連想させる。
現在でも、信号機もなければゴミ収集運搬車等の車以外は、車も無い。
少年は、その島で生まれた。
名前は慶治。
マグロ漁船を生業とする家の、次男坊として生まれた。
慶治には、4歳離れた兄の健がいる。
建は生まれつき体が弱く、喘息や皮膚病等慢性的な病気を抱えており
母親は、健の看病に手を焼いていたため、慶治は母方の祖母の家で幼少期〜思春期までを過ごすこととなる。
母方の祖父は慶治が生まれる以前に他界しており、祖母には母を含め、6人の子供がいたが慶治が小学生になる以前に
みんな成人しており、慶治は祖母と二人暮らしという環境におかれた。
祖母は動物好きで、ペットとして犬を3匹と鳥等を飼っていた。
犬は、シェパードのダンと柴犬の小太郎、チワワの大五郎。
シェパードのダンは、慶治が物心つく前より祖母の家に飼われていて、慶治は赤ん坊の頃ダンの背中に乗って遊んだ。
次に柴犬の小太郎が、そしてチワワの大五郎をどこからか貰われてきた。
慶治は、身体は小さかったものの兄の建とは違い、健康そのもの。
夏は海で、冬も海で遊ぶ子供だった。
とにかく、海が大好きで大人の目を盗んでは海に入りシェパードのダンと海水浴を楽しんでいた。
慶治の実家の家系は複雑で、母が赤ん坊の頃に幼女に引き取られ、父も母と結婚をする際に養子として入籍したため
慶治には、3人の祖母と3人の祖父がいることになる。
うち、母方の祖父だけが他界していた。
実家には、祖父が健在で、祖父は一本釣りをしており、島の沿海でいろいろな魚を捕る漁師で
父は遠洋マグロ漁船「大進丸」の船首船頭をしている。
船首船頭とは、船の持ち主であり、船長のことである。
生粋の漁師の家に生まれた。
兄の建が病弱だったこともあり、祖父は「跡は慶治が継ぐ」と言うのが口癖だった。
とりわけ、慶治の海好きも手伝って、親戚一同それを否定する者はいなかったが
母だけは違った、母は「この子は、時代劇の切られ役でもいいから役者にする」と言ってはばからなかった。
慶治が6歳になるある日、父の大進丸が島の港に帰港してきた。
その時、船を接岸するために船員がロープを投げたが、うまく投げられずに海にロープが落ちた。
接岸する岸壁の高さは、約3メートル程あったが、慶治は海に落ちたロープを拾おうと躊躇なく岩壁から飛び込みロープを拾い祖父に渡した。
父はその慶治の姿をみて、漁師らしく豪快に笑った。「さすが俺の子だ!」
祖父も「よくやった!」と褒めてくれた。シェパードのダンだけが、自分が何の働きもできなかったことを理解しているのかふてくされていた。
その出来事以来、母は「役者にする」とはあまり言わなくなった。
代わりに「カエルの子は、カエル」と言うのが口癖となった。
幼少期
2月の寒い日、いつも夕食に並ぶ味噌汁に入れる魚を、祖母と自分の食べる量を釣りあげ
帰宅すると、母親が待っていた。何やら祖母と話した後だったらしい。
「おばあ、これ」と祖母に魚を渡した。「おばあ」とは、祖母の呼称で「おばあちゃん」の意味だ。慶治の住む島には、「君」や「さん」等をつける風習がない。
おばあちゃんはおばあだし、お父さんはおとうだ。
おばあが「いつも、ありがとうね」とほほ笑んで台所に消えて行った。
母親が改まって「お前も4月から小学生だ、字はかけるのか?」と聞いた。
慶治は「字?知らん」と答えた。書ける訳がない、字等は見たこともない。
慶治の住む島には、幼稚園が存在しない。
「今日から、ご飯を食べ終わった後、家(実家)に帰ってこい。字を覚えるから」と母親に言われ、「わかった」とだけ答えた。
久し振りに会う母親に、少し照れた様子だ。
母親は、スッと立ち上がり玄関に向かった。慶治は見送りもしないで、ダンと夕食までの間戯れていた。
食事の間、おばあは一言もしゃべらなかった。慶治は、サッと食事を済ませ祖母の家から3軒離れた実家に帰った。母親は動物が嫌いだったため、ダンは祖母の家でお留守番だ。
帰ってみると、コタツの上にノートと鉛筆が並んでいる。横には何やら、訳のわからない記号のようなものが書いてある表らしき紙がある。
「今日から、これを全部覚えるんだよ。」
表らしき紙に書いてある、記号のようなものを覚えろってことか・・・・。
慶治は、鉛筆を取りノートに記号を書いてみた。
「あれ?うまくいかない・・・。何かがおかしい・・・」うまく書けない。
それを見ていた母親は、「同じ文字を、10回書いて終わったら母ちゃんに見せるんだよ」
と言って、その場を離れた。
慶治は言われるままに、文字を書いた「あ・い・う・え・お」10回書いて、か行に進む。
途中で、何故だかとても淋しい気分になった。「なぜ、一人でいるんだろう?」いつもはおばあとダンが側にいて、僕の話しに耳を傾けてくれる。シーンとした実家の居間に、一人で訳のわからない記号を書けと言われ、それを一所懸命書いている・・・。
涙が出てきた、祖父に「男は泣くな」と教えられたが出てくるものは仕方がない。
しかし、書くことを止めることはできない。涙を流しながら、最後のんを10回書き終わり、母親を家中探したがいない。兄の部屋に兄もいなかった。どこか行ったのか?帰ろう。
コタツの上に、ノートと鉛筆をそのままにして帰ろうとした時に、自分の頬が乾いてる感じがした。洗面所に行き、鏡を見ようとしたが背が足りない。居間に戻り、兄が使っている食事用の椅子を台にして、鏡を覗き込んだ。頬が涙の形に乾いている。「へぇ、泣いた後って放っておくとこうなるんだ」と変な関心をして、「まずい!」と思った。おばあに泣いたのがバレる!祖母は、慶治が泣いて帰ってくると必ず「なぜ泣いているのか?」を徹底的に聞いた。
誰が悪くて泣いているのか?何のために泣いているのか?
近所のお兄ちゃんに苛められて泣いていると答えると、棒っきれを持たされ「もう一回行って、イジメ返してこい!」と叩き出された、それはお前が弱いからだ!と。
このときの涙の跡を、どう説明していいのか皆目見当もつかない。
あわてて顔を洗った。涙の跡が消えたのを確認して、祖母の待つ家に帰った。
ダンが飛びついてきた。ダンの背中にのり、祖母の家の居間に入ると祖母の友達のおばあちゃんが遊びに来ていた。脇に小さな箱がある。その箱の中を見ると、子犬が4匹眠っていた。
おばあが「慶治、一匹選べ」と言った。「子犬をもらえるんだ!!」子犬の顔は、どれも同じに見えたが、一匹だけ眉間の上に白いはっきりした斑点がある。「こいつだ!」その子犬を選んだ。慶ちゃん、名前は何にする?と友達のおばあちゃんが聞く。
「ん〜〜〜〜」悩んでいると、おばあが「小太郎だ」と言った。
小太郎に決まった。