4.乱気流(1/4)
入道雲が真っ青な空にもくもくと浮き上がり、我が物顔で居座っている。ほのかに草のにおいがして、光彦はなんとなく振り返った。日焼けした小学生低学年相当の少年たちが、わあわあ叫びながら走り去っていく。何を話しているんだろう、と耳をそばだてた。
「テルんちでさ、ゲームしねぇ? あいつすっげーカッコイイゲーム機もっててよ、四万くらいするやつ」
「え! それ、この前出た三京堂の新しいの?」
「それそれそれ! テルの兄貴が買ったらしんだけどさ、ほんっとすげー絵がキレーなんだぜ。それでめっちゃマップ広いゲームとかやるとさ、も、リアルすぎてビビる。モンスターがいきなり襲ってきたとき、怖くてヤバかった。マジで」
「え~っ! すっげやりたい。でもにーちゃんのなのに、テル貸してくれんの?」
「そうそう~」
「それがさ、兄貴はみんなでゲームやるんならいい、って言ってんだって」
「うわ、やさしーな。俺もそんな兄弟ほしかった」
「リョータのねーちゃん、ガチ怖いもんな」
「そーなんだよ。この前もパッドで殴られそうになったんだぜ。ねーちゃんがベースの練習してる時に入ったら……」
「あ、それは殴られるわ。仕方ねーよ」
「ぼくもそー思う。ノックはしようよ」
「達之どころか、健吾まで……二人とも冷てーっ!」
三人の真ん中にいた少年が、非難を浴びせた。それでもどこか楽しげに、南の方へ向かっていく。おそらく「テル」の家へ行くつもりなのだろう。
「なっつかしー。俺もあんな頃、あったなあ」
記憶の蓋を外し、小学生時代を思い返す。幸いにも友人は多い方で、男女問わず遊んでいたものだ。男友達で一番仲が良かったのは、貞方明という少年だった。彼は勉強ができる上に運動神経も良く、サッカー部のエースだった。光彦もたまに教えてもらい、一緒にプレーしたがまったく敵わなかった。それでも楽しかったと、今でも胸を張って言うことができる。
彼は、もういない。
中学生になったら、どんな部活に入るか……。そんな話題でよく盛り上がっていたが、中学校の制服に袖を通すことはなかった。その前に、亡くなってしまったから。
「あいつも東中に行くって言ってたよな……。一緒に通えてたら、なんて今更言っても仕方ないかな……はは」
過ぎたるは及ばざるが如し、という一節がある。中学時代に読んだ古典に記されていたその警句を、彼はよく覚えている。どうしても耐えきれないほど苦しい、トラウマに彩られた過去の事件に触れられるたび、何度でもそれは蘇った。
知切小学校襲撃事件。
景光の一件は、そのような呼称で通っている。
六年一組の生存者は、ただ二人。
香川光彦。
嵐山奈々。
担任であった嵐山春樹を含め、三十二人が殺害された。
大勢の児童が殺傷されたこと。しかし遺体は損傷したものすら見つかっていないこと。六年一組の教室以外には一つとして被害が及ばなかったこと。しかしそこは破壊されつくして窓も柱も折れ、凄絶な有様であったこと。生存者の一人である少女は、息があることがむしろ不思議なほど傷だらけだったこと。彼女の顔に刻まれた痛ましい爪痕。
マスコミも困惑するほど、あの事件には不可思議なことしかなかった。
しかしその中にあって、ひときわ奇異であった要素。
二人目の生存者である光彦は、まったくの無傷だったのである。
「(どんな偶然だよ……自分のことだけど、異常だろ)」
光彦は、奈々がどれだけ消耗していたかよく知っている。彼女は無事な箇所など一つもなく、身体中痛めつけられ弱り切っていた。
辺りが静かになり、吹き飛ばされた机の下からかろうじて這い出た時、真っ先に目に入ってきたのは――好きな女の子がぼろぼろになった姿だった。
顔の赤黒い傷も痛ましかったが、それ以上に忘れられないものがあった。
目元から頬へ、すっと流れていった、雫。
泣いていたのだ。教室の隅で、誰に救われることもなく、一人で。
その時にはとうに気絶していて、涙は倒れる前にこぼれたものだと、後で知った。それでも光彦は、大切な人を守れずに逃げてしまった自分を、今でも許すことはできない。決して。調子のいいことばかり並べていたのに、窮地に立たされた時は、恐怖に負けて何も出来なかった、無力な自分を。
「おし、部活行こ」
竹刀袋を肩にさげ、彼は高校の道場を目指す。
風が一陣、街を通り抜けていく。夏の朝は、まだ涼しい。
「ハッ、ハッ、ハアッ! ……次!」
鋭い声が、森中に響き渡る。
「おーし、次の相手はおいらだっ!」
丸々とした鬼の少年は、手に持った大槌を振りかぶり、勢いよく横へ薙ぐ。反動でくるりと回ったのを、稽古の相手は見逃さない。
「シッ!」
目にもとまらぬ早さで、鬼の首元に手刀を下ろす。
「うわわわっ!」
衝撃でバランスを崩した彼は、手足をばたつかせ、ぺたんとしりもちをついた。頭の中が、くわんくわんと鳴っている。
「ふげ~」
「悪い。大丈夫?」
「だだ、だいじょぶ~」
鬼はなんとか立ち上がり、めまいが治まったのを確認してから、ほっと息をついた。
「奈々、やっぱり強いね~。 おいらちーっとも敵わなかった」
鬼は目を潤ませ、泣き出しそうになる。
「やっぱし、力不足?」
しょぼくれる彼に、少女は笑いかける。
「そんなことないよ。いい訓練になった。ありがとう、昭太郎」
「ど、どもっ! これからも、なんだ、ヨロシクだよ」
「ショウタロ、照れてる~」
目元が切れ長で涼しげな、すらりとした少女が笑う。
「う、うっさい!」
「かーわいいの! 顔、いつにも増して赤いぞ~」
「バッ、バカ! んなことないっての! デタラメ禁止!」
「嘘じゃないもーん。ほんとのことですー」
ムキになって怒る鬼の少年は、完全に手玉にとられていた。
「京花のいじわる! ショーワルギツネ!」
「はーいはい、性悪でスミマセンー。奈々、待たせてごめんね。稽古やりましょ」
くるりと身をひるがえし、京花はぺこりと頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「ええ。よろしくお願いします、京花」
突如、白煙に紛れ京花の姿が消えた。奈々はまだ動かない。ぽん、と軽快な音がして木の葉が三枚、辺りに散らばる。
「単なる大振りじゃ通用しない、ならっ!」
狐の面を付けた少女が奈々の頭上に現れ、打突を放つ。わずかに遅れて、同じ姿をした二人の少女が奈々の右・左斜め後方にそれぞれ現れ、斬撃を飛ばした。
「逃げ道を封じればいい、だけよっ!」
上方、後方には動けない。前方へ行けば別の術を使われる、と判断した奈々は――。
身体を回転させ、すべての攻撃を打ち落とした。
「フッ!」
「んなっ!?」
京花は驚愕した。三方向、それも平行線上のみならず、垂直線上――縦へも対応することは、容易くできることなどではない。
「(反応の早さ、判断の的確さ、攻撃の威力――どれが欠けてもできる芸当じゃない……! 私の仲間にだって、これだけ戦えるのなんていない……!)」
「だからって……負けらんないっ!」
三人の京花はそれぞれ指を組み、術式を発動させる。
「風塵去来!」
辺りの草木がゆらめき、砂埃が舞い上がり――暴風が奈々を襲う。
「行けえっ!」
「(やるね、京花。……けれど!)」
弾丸のごとき早さで、奈々は前へと飛び出した。
眼前にあるのは、風の術式。
「な、なにやってんだ、奈々ー!」
昭太郎が叫び、彼女の身を案じる。
「(しょ、正気っ!?)」
動揺する術者。
しかし。
天狗の少女は至って冷静だった。
右手の人差し指と中指のみを突き出し、簡易的な陣を組む。
「逆巻け嵐!」
凄まじい勢いの風が、先刻のものとぶつかり合う。
「きゃっ!」
「だ、だいじょぶか京花っ!」
昭太郎が、慌てて京花を支える。
「な、なんとか……って、え?」
空の果てまで続いているかのような、白い柱があった。風塵去来の術のみでなく、辺りの空に浮かんでいた雲たちまで吸い込んだそれは、終わりなく続く塔のようでもある。
「きれいだなあー」
「すごい、おとぎ話の塔みたい」
「あ、あれか! えっらい烏天狗が葉っぱのうちわ持って、ってやつ!」
「そうそう!」
いつしか夢中で話し込んでいる昭太郎と京花を見て、奈々は苦笑する。
「(稽古……は、まあいいか)」
妖怪の住まう遠野の里には、何百年も前から伝えられている昔話が数え切れないほどある。人が聞けば嘘でしょうと一笑に付すようなものばかりだが、出所が妖怪なのだから妙な信憑性がある。
一本角の馬鹿に大きな赤鬼が痩せた未開の地に現れ、両拳を大地に打ち付けると轟音が鳴り響き、二山先の人里にまで届くほどであったという。鬼があぐらをかきくつろいでいると、彼のそばから草が木々が芽生えに芽生え、一刻ほど経つ頃には豊穣の地と化したという。
また、書生然とした活字を異常なほど愛し、いつでも何かを読んでいたい、これがなければ生きていても甲斐がないとまで吹かす天狗が妙な騒動を起こしたという話もある。人里で入手した薬の説明書きまでも隅々まで読み、ああ言葉は素晴らしいと耽溺していた彼女はとうとう、文字に取り憑かれそれを使役した。
空中に浮かぶ平面的な「文字」の数々が連綿と繋がり、書斎の外へとまろび出ていたと、大天狗の三宅大門が一方的に奈々へ語ってきたこともあった。
「(あれは事実だったのか、三宅様得意のほらだったのか……。何にせよ文字を操るなんて、夢のある話ね)」
奈々もかつては本を愛し物語を好み、読書を習慣にしていた時代があった。そう表せば大昔を懐古するかのようだが、実際には五年ほどしか経っていない。
それでも、彼女にとってはどこまでも遠く、はるか彼方へ去ってしまった日々のように思われた。
手を伸ばしたところで、過ぎ去ってしまった事象に届くはずもない。人間にも妖怪にも心というものと個人を形作ってきた過去と、それに伴う思索や感情というものがある。何一つ後悔せずに、それまでのあらゆる失態すら笑い飛ばし、あれもいい思い出だったと心底思っているモノなどはそうそういるものではない。
「(あれから五年。五年しか経っていないんだな。でも、ランドセルをさげてた小学生が、高校生になってアルバイトに勤しんでいたりする)」
奈々は、夜に一人でいる時など、そんな事を考えている。
幼さの強く残る子どもたちの背丈は伸び手足はすらりと長くなって、一丁前に社会や将来への不満を語るようになる。未成年にとっての五年は、成人の五年とは違っている。単純な経過時間は同じだが、認識下でははっきりと異なっている。個人差はあれど。
……大まかには、以上の通りだ。
彼女も「子ども」の範囲内に捉えられる年頃であると自覚した上で、ぼんやりと思案する。
わあわあと天空の塔を見てはしゃぐ、少年と少女。後者は変化の術が解け、狐の耳としっぽが出てしまっていた。この調子ではまだ人里で思うぞんぶん遊ぶ、という彼女の夢は叶いそうにない。子鬼の昭太郎相手に姉貴分として振る舞ったところで、彼女もまた子どもなのであった。外見年齢は人間と照らし合わせれば十数歳というところだった。
奈々は、今年で十七歳になった。
今では天狗として生き、勿怪退治などをして暮らしている。
景光の事件から、五年。
復讐を果たすべく鍛錬を始めてから、五年。
人間をやめて、五年。
感傷をごまかすかのように、頬をなぞる。顔の傷は三カ所も残ってしまった。
消える気配は、今のところない。
「んでさ、奈々」
「ん?」
いろりを囲みながら、奈々と京花は夕食をとっていた。ちろちろと火が揺れている。
「や、今日は稽古さぼっちゃって悪かったなって。変化の術見てもらうかわりに、手合わせするって約束なのにさー。私ったら昭太郎と遊んじゃって」
「いいよ。鍛錬は必要だし毎日やるけれど、二人が楽しそうにしてるのを邪魔するのはお門違いだ。子どもは遊ぶのも仕事」
「そお?奈々ってば大人みたいなこと言う~」
「え、変かな?」
「そりゃリクツはおかしくないけど、女の子が言うには真面目すぎ肩肘張りすぎ。奈々って今、いくつ?」
「今年で十七かな」
京花は、えーっ、と驚く。
「じゅう、なな?」
「うん」
「うそうそうそ、え、ほんとにほんと?」
京花は人間の子どものように、かなり砕けた口調でまくし立てた。とても信じられない様子である。
「も、もちろん」
「それじゃ私より若いじゃん! 私今年でたぶん三十三。奈々の二倍だよ」
「失礼ながら……年上だったんだな」
「や、そんなにかしこまらなくていいけど……奈々、あなたまだ若いのね! それもずいぶんと」
不思議そうに、狐の少女は首をかしげる。
「私の仲間だけじゃなくて、遠野の里全部を見渡したって! あなたよりオトナっぽい十七歳はいないと思う」
妖怪と人間では、時間の捉え方は大きく異なる。
ヒトであっても大人と子どもでは時間が流れる早さは違う、と奈々が考えているように。
「(――元々人間だったから、なのかな)」
彼女は昔、自分のことを人間だと信じて疑わなかった。もしかしたら別の生き物だったりして、と空想することはあったが、それは物語の中以外にはありえないと、悟ったつもりでいた。
他の生徒たちと談笑し、ああだこうだと言葉を交わす当時の自分に「あなたはほんとは人間じゃない。正真正銘化物なの」とささやいてみたところで、信じるはずもない。
その程度には奈々は大人びており、世間の法則を分かったつもりでいる子どもだった。
私は誰と、問いかけはすれど。
まさかその正体が妖怪だとは思わない。
その程度には奈々は常識的で、空想もその中に留めておける従順な女子生徒であった。
だからこそ、その世界が壊れてしまった時の衝撃は大きかった。
心の傷も顔の傷も、癒える気配すら見せない。
ずず、と山菜汁をすする。とろみがついているために冷めにくく、作ってからしばらく経つというのに温かかった。
昔もよく料理をしたな、と思い出す。
「昭太郎だって二十九歳になるんだよ。人間で三十手前って言ったら、もう立派な大人なんでしょ?」
「まあ、そうだね」
「なのに妖怪だとまだまだコドモ。さすがに赤ちゃんじゃないけど、みんなあたしたちのことをちびっこだって言うのよ」
「……それは、必ずしも悪いことじゃないよ。自分のことを見守っていて、かけがえのないものだって想ってくれる人がいるのは、幸せなことじゃないかな」
外でアオオオーン、と狼の咆哮が響いた。同時に、奈々の住む家に風が舞い込む。少しばかり窓を開けたままにして、塞ぐのを忘れていたのである。
それをきっかけにして、京花は言葉を紡ぐ。
「あのね、ずっと、気になってたんだけど……」
「どうしたの?」
優しくほほえむ奈々。京花はしっぽをぱたぱたと動かし、どうも落ち着きがない。
「奈々は、ここに来るまではどこに住んでたのかな、って……」
「――人里。知切って街があるんだけれど、そこでずっと暮らしてた」
「えっ!? 私、知ってる! ここからは遠いけど、大きい街だよね。人がいっぱい住んでるような、大都会! って感じの場所」
「そうそう。中心街はいつもにぎやかで、よく遊びに行ったよ」
「いいなあ~!」
憧れるようなまなざしを向ける京花。ぴこぴこと耳が動いて、彼女の興奮度合いを伝えてくる。
「懐かしいね。まだ、五年しか経ってないけれど」
再び、雄叫びが聞こえる。
京花はやや気まずそうになり、奈々は慌てて繕う。
「ご、ごめん。湿っぽくなっちゃって」
「奈々は悪くないよ! 私が聞いたんだもの。……悪いのは、私のほう!」
「そんなこと、ないよ」
「……ごめんね」
「謝らなくても……」
沈黙が訪れた。
聞こえてくるのは、虫の音ばかり。
遠吠えはない。
先に口を開いたのは、京花だった。
「……奈々はさ、誰と暮らしてたの?」
「――父とだよ。義理の」
「お父さん! もしかして、天狗の……」
「そうだよ。……嵐山兄弟の弟、嵐山春樹。優しい人でね、一緒に過ごしてると本当に幸せだった。夕飯を頑張って作ったりすると、よく褒めてくれた。学校の先生をやっていて、私の担任だった。そこでは「先生」って呼んでたよ。強制されたわけじゃないけれど、友だちの前前で「お父さん」なんて呼ぶのは、なんだか恥ずかしくてね」
奈々がくすりと笑うと、京花もほっとして軽口を叩いた。
「昭太郎なんてこの前、先生のことを『かーちゃん』なんて呼んでたよ。奈々と違って、ほんとのお母さんじゃないのに」
「それ、私の友だちもやってた。私のクラスの場合は『父さん』だったけど」
「ちょっと恥ずかし~」
「皆、同じことするんだね。妖怪も人も、そこは変わらないのかな」
「だよだよ! 私たちだって学校に行ってるし。妖怪が勉強してるなんて聞いたら、人間はびっくりするだろうね。えー、お前たちにも学校があるのかよー! って」
「小さい頃見たアニメだと、お化けには学校も試験もない、って言ってたけどね。ちょっとうらやましかった」
「でも、ほんとは授業もテストもあるんだよね。よりよい妖になりましょうって! いい妖怪ってなに? って思うけどね。そのフレーズみたいに、楽しくのんびり暮らせたらいいのに。詰め込み教育反対!」
「京花たちも大変だね」
「そうです、妖怪も楽じゃあありません。面倒でも学校へ行って、いろんなことを学ばなければならないのですよ、嵐山さん」
「先生みたい」
「そうです。私は偉いのですよ」
「分かりました。入江先生のおっしゃるとおり」
「ふふー」
思わず二人は、顔を見合わせる。いろりの火が形作る影が、小刻みに揺れた。
「ふふふ……」
「ふふふふふ……」
堪えきれず、二人は笑った。
遠野の里の入り口で昭太郎とかけっこをしている時、何者かの気配を感じ取り、京花は振り向いた。
そこには、少女が一人で立っていた。ひどく、暗い顔をして。
「(誰だろ?)」
不審に思いつつ、意を決して話しかけた。
正直に言えば、怖かった。
彼女はただならぬ気配を漂わせ、類を見ないほどの驚異的な妖力をまとっていたのだから。
「(敵襲かもしれない。正直、ちょっと……や、すっごく……ヤバい気がするけど……。でも、調べなきゃ。話しかけなきゃ。誰かがやらなきゃいけないんだから)」
よし、と拳を握って話しかけようとした、その時。
「きみ、誰~?」
間延びした、声。
昭太郎が先に、問いかけてしまった。
「ばば、ばっか!」
言ってから、慌てて口を塞いだ。
声に、出ている。
「あわっ、あわわわわわわわ……」
「どしたの、京花~?」
焦る京花の顔を、心配そうにのぞき込む昭太郎。
彼女の深謀遠慮など、まったく察してもくれない。
「(昭太郎~! こ、このお馬鹿!)」
まったく、泣きそうだった。どうして彼はこうにぶいのかと、心の中で少しばかり罵る。聡い狐の子は、その場から逃げ出したくて仕方なかった。
「……私……」
俯いていた少女が、静かに顔を上げ、つぶやいた。
「私……嵐山奈々」
「(あらし、やま?)」
聞き覚えのある名だった。遠野の里の北端に位置する、天狗の里。そこにいた有名な兄弟の苗字がそうではなかったかと思いつつ、確信は持てない。
そんな京花をよそに、昭太郎ははしゃぐ。
「なな? 奈々って言うの、きみ?」
「…………うん」
「奈々、嵐山奈々! いい名前だね~!」
「そう、かな」
「うんうん、いい名前いい名前! しかもちょっとかわいい」
「……?」
とりとめも、締まりもない会話だった。
「あなた、は?」
「おおいっと、自分のことまだしゃべってなかった。あぶないあぶない。おいら、今野昭太郎! 鬼なんよ。わかる?」
「……うん。ツノ、生えてるし」
「にしー、かっこいいだろー?」
「……かっこいい」
「だろー! きみ、ハナシ分かる! センスいい!」
「……そうかな」
「自信ないのか? すっごいセンスいいぞ! 奈々、きみはいいやつだ!」
「う、うん」
「ちょ、ちょーっといい? お二人さん」
先ほどまで警戒していた京花だったが、間の抜けた会話を聞いているうちに、いつしか気が緩んでしまっていた。考えていてもしょうがない、とも。
「どした?」
「わ、あたしを抜いて話進めないでよ。冷たいなー」
「だって、ずーっと悩んでるみたいだったし。ほれ、眉と眉の間。しわ寄ってるぞ」
「まま、まじで? って、乙女にそんなこと言うなっつの!」
「怒んなくても~! そのゲンコツ、ほどいて、ほら」
「言われなくても殴らないわよ! 変なことすると、その子に悪いし」
「……!」
奈々の顔に、汗がにじむ。
「…………」
「そ、そんなにかしこまらなくていいわよ。あたし、入江京花。先に言っとくと、狐ね。人間の言葉で言うと、ま、化けギツネ? 正直不服だけど。かわいくないし」
「きつね、さん」
「あ、その言い方かわいい」
「すっごい怒りんぼだけどな」
「余計なこと言うなっ!」
「ひい~っ!」
おびえる鬼の少年と、責め立てる狐の少女。
奈々にとって、それはいかにも不思議な光景だった。妖怪を目にしたのはこれで三度目。しかし今まで、自分と年の近く見えるモノには会ったことがなかった。現実味が湧かない。しかし。
数ヶ月の間に様々なことがありすぎて、感覚が麻痺しかけているのも事実だった。
厳然たる。
「あの、えっと……」
勇気を出して、口を開く。
「よ、よろしくね」
京花と昭太郎も、それに応じる。
「よろしく、奈々」
「どもども。んじゃ、さっそく遊ぼ!」
「長老のとこが先じゃない? いいのかな?」
「たぶん大丈夫だ、たぶん! ほら奈々、こっち来て!」
「う、うん……!」
三人で追いかけっこやらかくれんぼやらに興じるうちに打ち解けていった。奈々を長老へ案内する頃には、京花も彼女を疑わなくなっていた。
ただ。
少女の顔に刻みつけられた、痛々しい傷跡。
それだけが気がかりだった。なにか悲惨な出来事があったのではないか、と気になってしまった。
しかし、京花はあえて探りはしない。
彼女はオトナなのだ。
ドッ、ドッ。
家の戸を叩く音に気付いて、奈々は問う。
「はい! どなたでしょうか?」
「俺だ、俺」
「滝波様!」
扉を開けた先にいたのは、かなり背の高い男性だった。精悍な顔立ちに、引き締まった体躯。ピンと立った白い獣の耳と尾がなければ勘違いしそうなほど、人間然としている。
「悪いな。夕食時にいきなり訪ねて」
「た、滝波先生!」
「おう、京花か。申し訳ないがちょっと、奈々借りるぞ」
「ど、どうぞ?」
「――何か、ありましたか」
「ああ。緊急の用件があってな。お前にしか頼めんことだ」
「……私に?」
「今回ばかりは他の奴を頼れん。ちと、来てくれるか」
「――了解致しました」
承り席を立つ際に、奈々は食事の相手に詫びた。
「ごめんなさい。また後でご飯でも食べよう。よかったら、だけれど」
「も、もちろん! 行ってらっしゃい!」
「行ってきます」