霊
しばらく風を切っていると緩やかな降下が始まる。三半規管も落ち着いてきた。
地に足がつく。この感触が早くも懐かしい。
覚悟を決める。目の前に何が広がっていたとしても俺はそれを現実として受け止めなければならない。……よし。流れ込んでくる光に目を慣れさせながらゆっくりと瞼を上げる。
目の前には少女がいた。
暗い絶望の中に、浮かび輝く、その姿はまるで月。
下方で一つ結いした紫の準長髪に鈴をあしらった赤いリボンの髪飾り、活発そうながらも慈悲に溢れた琥珀色の瞳。
身に纏う純白の衣と桜色の帯が今にも消えてしまいそうな儚さを、赤い鼻緒の二枚下駄からのぞく華奢な足が触れてはならないような禁忌を、演出している。
耳を貫く静寂を破れない。声を発することもできない。
蛇に睨まれた蛙? いや、女神に微笑まれた人間か。
「大丈夫ですか? ケガとかありませんか?」
我に返る。眼先には見紛うことなく例の少女。彼女は確かにそこに存在するのだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。平気だな」
二度目の呼びかけにやっと返事ができた。ぎこちなく、不自然に。
「それならよかったです! 気を付けてくださいね、この辺は危ないですから」
「あ、ああ、気を付ける。それで君は?」
当然の疑問をぶつける。いや、この場面では不適当、失礼だったのは明白である。
「私はただの浮遊霊です」
返答は変化球、もしくは大暴投。どちらにせよ予想だにしない答えだった。
おかげで反応に困る。
「どうしました? あ! まさか霊なんかと一緒にいたくないとかですか? そうですよね、得体の知れない女が霊とか言ってたら怪しすぎますもんね。すみません、消えます」
「あ、ちょっと!」
自称霊の少女は背中から悲しみを漂わせながらトボトボと歩いて去っていった。その後ろ姿から受ける印象は先程感じた尊大なる畏怖とは全く異なるものだった。
「……何だったんだ?」
再び静寂が舞い戻る。ただし今度はじっとりと張り付くような嫌な雰囲気だ。
先程とは反対へと空気が一変する。肌に刺さるような外的無形刺激、張りつめた空気は俺が動くことを許さない。
しかし早くここから離れた方がよさそうだと本能だけでなく理性も告げる。
俺は「動ける」と自己暗示し、無理矢理幽霊少女の向かった方と反対方向へと一歩踏み出した。そのときだった。
「………………」
そいつは前方にいた。黒いローブに身を包んだ明らかに異質な存在。ローブの隙間から覗くのは白い骸骨。気配もなく、存在すらしないかのように、しかしはっきりとそいつはいた。
逃げなきゃ、そう思う前に踵を返し全速力で逃げていた。足は動く、腕も振れる、なぜだか今度はちゃんと走れた。
がむしゃらに走って、どれくらい走ったのかもどのように走ったのかも全く覚えていない。走って走って疲れたから足が止まった。ただそれだけだ。
膝に手をつく、視界は地面。呼吸を整える。記憶がないためなんとも言えないが身体の感じからするに全力で走ったのは久しぶりだろう。
最後に大きく深呼吸をする。……よし。気合いを入れ直し、心も前を見据えるように身体を起こした。
目の前には少女がいた。