短編1 電車
その日も僕はいつものように、満員で滑り込んでくる電車を待っていた。ホームに人はまばらで、しかもほとんどの人は僕と背中合わせのホームに並んでいる。間もなくやってきた電車は大量の人をこの駅に一息に吐き出し、僕1人を乗せるのに十分な時間を置いてからゆっくりと走り出した。
それほど遅くもない時間。座席もぽつぽつと空いているいつも通りの混み具合。オフィス街同士の谷間に位置するベッドタウンからさらに地方へと帰っていく僕の日常は、そういった喧騒と適度な距離を保っていた。
しばらく電車に揺られていると、次のオフィス街へたどり着いた。新幹線も通る大きな駅だが、僕は降りたことがない。ここから景色は田舎の色を濃くしていく一方で、乗り込んでくる人は少ない。今日も1人の男の子が、そこそこ大きな荷物と一緒に乗ってきただけだった。男の子は僕の斜め向かいにちょこんと座ると、まだ純粋な瞳で次の到着駅の表示を見つめた。小学1年生くらいだろうか?あんなに真っ直ぐな瞳はひさしぶりに見た。
男の子は表示を目で追いながら小さな手の指を折って、幾度か確認するように手を握っては開いた。遠方から来たのだろうか。荷物も子供にしては多い。電車の扉が閉まり、車体がゆっくりと動き始めると男の子は徐ろに鞄から紙を1枚取り出した。地図かと思って見ていると、彼はそれについていた紐を首に掛けた。紐をすこし首のあたりでいじって座り直した男の子の胸のあたりに、黒いペンで、簡素に、しかし目立つように、綺麗な筆跡が踊っていた。
『東山谷で降ります』
思わず笑みが溢れた。一人で、おそらくは新幹線に乗って旅してきたのだろう。すこしはずかしそうにはにかむ顔、目的地までの駅の数を留めた両手、床につかない脚。僕はしばらくニコニコしていたが、周囲を意識して咳払いした。東山谷は僕の最寄の一つ先だ。
肩に触るもので目を覚ました。どうやら寝てしまっていたようだが、寝過ごしてはいなかった。見ると隣に女性が座るところだった。隣に人が座るほど混むのすら珍しいことだ。軽く会釈して時計を見る。もうじき着くはずだ。ふと気になって男の子を窺うと、彼も眠ってしまっていた。東山谷まであと二駅だが、指折り数えはまだ両手が残っていた。疲れているのだろう。僕は彼の目的地まで付き合い、折り返してから帰ることにした。
僕の最寄で扉が閉まる。立っている人こそいないが、席はほとんど埋まっている。男の子は頭を隣の女性の肩に預け、女性も微笑を浮かべて寝顔を見守っている。時折揺れる電車の車内にアナウンスが流れた。次は、東山谷。
ホームに滑り込んだ電車は静かに扉を開いた。僕が立ち上がると、男の子の隣の女性とサラリーマンがほぼ同時に男の子に手を伸ばした。二人は互いに一瞬キョトンとすると、女性ははにかみ、サラリーマンは女性を促した。
優しく起こされた男の子は目をこすっていたが、ハッとして電光表示板と駅の看板を見、座席から飛び降りて女性に礼を言い、扉へと急いだ。あどけない後ろ姿を見送りながらホームへ降りると、同じ車両の大人たちが大勢出てきた。女性も、サラリーマンも、優先席の老紳士も、みな男の子の背中を見送っていた。電車はいつも通りの混み具合に戻って、またゆっくりと動き始めた。
改札を出る人たちはいつものように少ない。だが東山谷のホームにはいつもより多くの人がいた。それでも誰も言葉を発さず、静かにささやかな優しさの余韻に浸るように佇んでいた。降りたことのない駅のホームに立ちながら僕も、同じ余韻に浸っていた。