第八話 背徳没倫
霜月 二十日 日昳
ぼやけた視界で捉えた顔はこいしのものだった。視線を落とせば膝の上に分厚いハードカバーの本が乗っているのが見える。どうやら現へと戻ってこれた様だ。
頭の回転を上げる事と、会話の糸口として暫くこいしをいじった後、碧に注文を頼んだ。私は紅茶、こいしはミルクセーキだ。私達二人は、温かな飲み物が席に届くまで、たわいない話を続けた。そして、飲み物が届いたところで本題に入った。
「まずはアレだ。『鳴神』の事だ。こいしは奴が死んだと思っているだろうが、それはないから安心しろ」
アフターケアは大事だよな。こいしの認識では殺しの片棒を担いだ様なものだ。罪の意識に苛まれないようにしてやらないとーー
だが、そんな私の心配を他所に、こいしが一瞬の惚けた表情の後、あっ……! という顔をしたのを私は見逃さなかった。
こいつ、忘れていやがったな……
そんな私の呆れた心象を察知したのか、こいしは慌てて弁明を図りだした。
「いや、違うの! ほら、『化物』の話とか『宝珠』の話とか驚くことだらけで抜け落ちちゃっただけなのよ」
うん。黒だ。真っ黒だ。
でもまあ、多分に気にしているよりはマシか。肝が太くて私は嬉しいよ、こいし……
「こほん、ところで、どうして『雷光』が生きているのよ。私は確かに存在を剥離したはずよ?」
「お、恐ろしい事をするな……」
こいしの扱っていた異能の詳細を聞いて少し青ざめる私。角砂糖を取り出す手が震えた。
「何よ、やらせておいて。私には余裕なんて無かったのよ!」
「そう怒るな……それで、『鳴神』の元の異能力者が生きている理由だったか? 厳密に言えば『雷光』、か? さっき化物になった奴が生きている訳ではないぞ。奴がいなくなって生じてしまった穴を世界の修正力が埋める為に造られた者が代わりに生きているんだ」
取り出した角砂糖は三つ。紅茶にはあまり入れ過ぎてもアレなので二つほど。三つ目をスプーンに乗せて、口へ運ぶと、寝起きの頭に砂糖が染み渡った。
「え? それって別人なんじゃ……?」
「いや、それは違うぞ。多少の形の違いはあれど基本的に同じような容姿で知識、才能、経験は引き継ぎだ。中身が全く同じならば見た目が違ったとしてもそれは同じ人間だろ?」
「確かに、それはそうだけど……それなら何で私達は彼のことを覚えているのよ? 穴を埋めるって事は昔の彼と今の彼が統合されるって事なんじゃないの?」
「その考えであっているぞ。だが、よく考えてみろ、私達は常日頃から何をしている?」
問題を提示し、スプーンで紅茶を搔き回す。少し冷めてきてしまったのか、底に幾らかの砂糖の粒がとごってしまっていた。
只答えを与えてやるんでも良いが、偶には自分で考えてもらいたい。思考停止は停滞の本だ。私は停滞自体を悪い事とは言わないが、力を持たぬ者が停滞するのは悪い事だと言いたい。
「私達のしていること……? あっ、異能……!」
「そう、異能だ。私達は異能を扱うだろ? 前にも言ったが異能は内的世界で外的世界を塗り替える事だ。知っているか? 常人にも異能は使えるのだぞ? ただ、奴らの干渉力は低いからな、世界を侵しても直ぐに修正されてしまう。だから見かけ上は行使出来ていないように見えるだけで侵食自体は起きているんだ。これで分かったか?」
「ええ、わかったわ。私達の世界への干渉力が強い事が理由なのね」
「そういう事だ。丁度いいから常人の異能の身近な例を挙げてやろう。コレは私達にも応用がきくから、知っておいて損はない。例えば運のある奴がそうだ。ああいう奴らっていうのは干渉力が他の常人に比べ僅かに高いんだ。その理由は言わずもがな、思い込みだ。強く思えばそれだけ干渉力も強くなる。だからこいしも想いを強く持てよ」
渇いた口を湿らせるため、紅茶を一口口に含む。喉を通る紅茶は更に少し冷えていて、アールグレイの良い香りが鼻を抜けた。後には砂糖の甘味が後味として口の中にとどまった。
「さて、今日もケーキを食べるか? 今日のは檸檬のタルトらしいぞ。私は食べる」
碧を呼び、二人分のケーキと追加の紅茶を頼んだ。碧が下がると傍に置いていた本を取り、膝の上で開く。
本当は持って読みたいのだが、いかんせん膂力が足りぬ。重過ぎて腕が疲れてしまうから膝の上に置くしかない。机の上に置くという手もあるが、それだと座高が足りなくて目に近くて嫌なんだ。
ぺらりぺらりと本を捲る音だけが午後の喫茶店の静寂の中を漂っている。
そんな中、ミルクセーキをぼうっと飲んでいたこいしだったが、ふと、思い出したかのように私に質問をしてきた。
「そう言えば、私達ってどうやって異能力者になったのかしら?」
私はページを捲る手を止め、顔を上げた。
「異能力者のなり方か? 例えが難しいな……取り敢えずラジオを思い浮かべろ。ラジオっていうのはダイヤルを回して局を切り替えるだろ? その局を世界、ダイヤルを私達と置く。局は二つ、外的世界と内的世界だけだ。まずは一番小さなヘルツのところを外的世界に、そして無限を内的世界に設定するぞ。一応確認するが、今の私達を支配しているパラダイムは内的世界のモノではないからな?」
「それは分かっているわ。常にパラダイムが内的世界のモノになっていたらそれはもう『翻転』しているじゃない」
「そうだ。だから私達は異能を行使したい時だけダイヤルを回すんだ。このパラダイムシフトさえ出来れば異能は行使できる。序でに『翻転』の補足だ。無限が内的世界。だから世界の見方を変えるそのダイヤルは、二百、三百と回し続けられる訳だ。そして回せば回す程強く行使は出来る。内的世界に近くなる訳だからな。だからといって回し続ければ壊れてしまう。言うなれば、ダイヤルが捻じ切れてしまうってことだな。このダイヤルが壊れた状態をーー『化物』と言うんだ」
私がそこまで言い切ったところで、タイミング良くケーキと追加の紅茶が運ばれてきた。婉然とした挙措で皿が並べていく碧の白く細っそりとした指の動きは滑らかで、つい魅入ってしまった。
並べ終えた碧はお辞儀をすると厨房へと戻った。その姿を見て思うーー彼女は機械的である、と。仕事に関する定型文しか話さず、顔には表情を浮かべない。まるで命令を与えられ、ただ従う機械従者ではないか。
碧が自分は人造人間または機械人形だ。と言えば信じる自信があるぞ。
身体を背後へ向け、尻を追っているとこいしが私に「……いいの?」と尋ねてきた。
「……私は悟妖怪ではないんだ。何がいいのかを言ってくれなければ伝わらんぞ」
「私達の会話のことよ。いいの? 多分聞かれてるわよ」
「何だそんな事か。別にそれは問題ない。碧は仕事以上の事はしないさ……」
「そうなの? ありすがいいって言うんなら私はいいけど……」
「気にするな。今は目の前の敵に集中しようじゃないか。此奴は凶悪だぞ? 香りだけで蹂躙されそうだ」
そんな強敵との戦闘を終えた私達は揃って見事に蹂躙されていた。
ちくせう……この甘味と酸味のバランスは卑怯だぞ。こんなの屈しない方がおかしい。こんな料理が作れるなんて碧は天才なのかーー!
霜月 二十日 晡時
街には夜の帳が下りていた。逢魔時の空は紫に広がっている。だがそれも一面ではなく、紅と藍が混ざり合う様にどろどろとしており、階調を作っていた。私はそんな空の下、商店街から一本逸れ、ただ広いだけの意味のない道をこいしと歩いていた。駅から真っ直ぐに伸びるこの道だが、両側には何もない。あるとすればコンビニエンスストアとドラッグストアぐらいのものだ。それでいて道は太いのだからタチが悪い。そのせいで無駄が一層際立ってしまう。
そんな道を私達は駅から離れる様に進んで行く。既に五百メートルは歩いただろう。右手にはやけに洒落た役所が見える。
「別にこいしはついてこなくてもよかったんだぞ?」
「ダメよ。こんな時間にありすみたいな娘を一人で歩かせるわけにはいかないわ」
「あー……そうだな。でもむしろ、こいしの方が危険そうだけどな。ペドだし」
「酷い! そろそろ私泣いちゃうわよ!?」
とまあこんな風にじゃれ合っている少女達の背後に男が一人。凄く怪しいな。不審者、いや、変質者か? 全く、今の世にはロリコンが多くて困る……
軽く追い払うか。そう決めて異能を行使しようとしたところで、男が声を発した。
「おい、アニキをどこにやった?」
アニキ……? 私は悟妖怪ではないと言っているのに、また訳の分からない事を……ああ、コイツには言っていないか。
「だからーー」
「どうしたの? 貴方の担当地域はここではないはずよ。『雷光』の舎弟になるのは構わないけど、悪いところを見習うのは止めなさい」
此奴は『雷光』の舎弟か。だからアニキか。
それにしても何で私達が『雷光』を倒した事を知ってるんだ? こいしの異能でヒトがいない事は確認したはずなんだが……
有りっ丈の非難を込めてこいしを睨むと酷く申し訳なさそうに身を縮めた。
「こいし、私は付属品なんて求めてないぞ」
「うっ、彼の事は失念してて、えっと、その……」
「何をごちゃごちゃやってんだ! お前とアニキが戦うところを俺は見てたんだよ! アニキをどこへやった!」
夜の街に轟く咆哮。
流石に煩わしいな……『宝珠』は実験に使いたかったが、この際仕方ないか。実験はまた別の奴を捕まえればいい。『宝珠』をくれてやろう。
「何だ? 『雷光』がそんなに恋しいのか? ならくれてやるよ」
ほら、と『宝珠』を投げ渡す。男は反射的にそれを受け止めたが、何かは分かっていない様で、困惑している様子だった。
「どうした? それが『雷光』だぞ。丁寧に扱えよ。割れたら可哀想だ」
「何を言ってるんだよ! こんなのがアニキなワケないだろ!」
激昂した男は『宝珠』を投げ捨てた。
男の手から離れ、地面にぶつかった『宝珠』に罅が入ると、内側の光が外へと漏れ出した。光が強くなると同じくして、罅が全体へ蜘蛛の巣状に広がっていった。
結晶の砕ける音と、強烈な光。
夜の街を光の柱が貫いた。
「あーもう、記憶操作が面倒になるじゃない!」
こいしの心底うんざりとした声が耳に残った。
光が収まり、現れたのは、また光だった。朝に見た光の巨人、『鳴神』が再び目の前に現れた。
どうやら『宝珠』というのは『化物』と可逆な様だ。異能力者と『化物』が不可逆であるのに対し、こちらは可逆。また検証する事が増えてしまったな。嬉しい事だ。
『鳴神』は私が皮算用をしている間に完全に顕現した様だ。これではもう新しい事実に興味を示している訳にはいかないな。逃げられる前に捕縛しなければいけない。
「『鳴神』よ、停止を命ずる!」
私のこの一言で『鳴神』は停止する。
「『鳴神』よ、奴の拘束を命ずる」
次の一言で『鳴神』は動き出すーー
瞬時に男の前へ移動した『鳴神』。だが、それ以上は近づけない。雷を飛ばそうにも、それらは全て逸らされ、躱される。
「この雷……! まさか、本当にアニキなのか……!?」
決定打は与えられなかったが、『宝珠』が『雷光』であるという事は分かった様だ。それなら話が進むな、と私は再び『鳴神』に停止を命じた。
「どうだこれで分かったか? こいつが『雷光』だ。ほら、くれてやるからとっと帰れ」
『鳴神』を強引に『宝珠』の姿に戻し、もう一度男に投げ渡してやった。しかし、男はそれを捕らなかった。もう一度『鳴神』を顕現させてしまうのは良くないので、私は慌てて空中で静止させた。
「なんだ、要らんのか?」
私のこの問いかけにも答えない。俯いているので顔は見えないが、口が動いているのはわかる。先手を取られるのは嫌だなぁ、と思い異能で縛ろうとした矢先だった。
男が顔を上げ距離をとった。その動きはヒトにはあり得ないもので、予備動作の一つもなく五十メートルは下がった。
「アニキを、アニキをこんなにしたお前を俺は許さない! 死んで贖えっ! 『引き斥ける力の奔流』!」
グレーチングを集めて作った大型ブレードを構え、高速で近ずく男。五十メートルの距離を一瞬で詰め、私に迫る。その作り上げられた大型ブレードの出来栄えに感心していた私は気が緩んでいたのかもしれない。
あっ、と声を出したのは誰だったか。私だったかもしれないし、こいしだったかもしれない。
……べちゃり。水っぽい音が夜の街に響いた。
大型ブレードは浪漫! 「対警備組織規格外六連超振動突撃剣」なんてカッコよすぎてもう……