第七話 泡末夢幻
霜月 二十日 日昳
斜陽が差し込む午後の喫茶店。室内に染み付いた珈琲の香りが私の鼻腔をくすぐる。外と隔離された其処は快適な温度に保たれ、私のことを微睡みへと誘ってくるが、膝の上に乗った厚い本、エルヴェ・ド・サン=ドニの『夢の操縦法』が私を現へと引き留めていた。だが、コレも限界かも知れない……
今にも夢へと引き摺り込まれそうだ。無理な体勢故に首が痛いが、それを補って余りある心地良さだ。
あゝ……動きたくない。
待ち人はまだ来ないだろうし、誘惑に負け落ちてしまおうか。そう思った矢先だった……
「わっ!」
「うひゃあ!?」
喫茶店には似つかわしくない大声と、身体への衝撃が私を現へと強引に引き戻した。びくりと跳ねた膝がテーブルを叩き、机上の空罏がかちゃりと音を立てた。
振り向くとそこには笑みを浮かべたこいしが立っていた。
「……私は安寧を脅かすものに容赦はしないぞ? こいしぃ……!」
「凄んでも今更よ。それよりありす、やっぱり可愛い声で啼くのね」
「黙れペド! 異能で縛って外に放るぞ」
「あはは、それも良いかもね。でも私はネコよりタチだから」
うんうん頷きながら、至極真面目な顔付きでこいしは言った。
……駄目だ。こいしが壊れた。
おかしいな……こいしってこんな娘だったっけ? 朝会った時はこんな開けっぴろげじゃあなかったし、もっと慎みがあった気がしたんだが……
「ほら、早く行きましょう?」
そう言ってこいしが私の腕を掴んだ。
「行くって何処に?」
「そんなの決まってるじゃない。『仲良し』しに行くのよ!」
そう言って、私を強引に引っ立ててきた。内的世界を引っ張り出し、膂力を上昇させていれば抵抗も出来たかも知れないが、それをしていない今の私にはただの餓鬼と同じスペックしかない。されるがままに手を引かれ、外へと連れ出されてしまった。
外に出ると、町にはぎらぎらとしたオレンヂの光が降り注ぎ、憂鬱を落としていた。フィルターを通し眺める町は常時とは違い、どこか退廃的な空気に満たされていた。そのまま歩き続け、知らない道を知らないままに歩いていく。道の両側には錆びれたシャッターが並び、商店街の鄙びた空気を加速していた。
「おい、何処に行くんだよ」
「…………」
尋ねるものの返答はない。
無視された事は気にせず、特に振り払いもせずに歩いていると、やがてシラナイ場所に出た。先が見通せない昏い路地が眼前にある。引かれる私は臆しもせず、さっさと入ってしまったこいしについて行くしかない。
私達二人はこつこつと足音を響かせ、その奥へ奥へと向かっていく。振り返って見る入り口は既に小さく、遠くに光の門が一枚。鼠一匹、人っ子一人いない生命の匂いがしない黯い路地を二人で歩いていく。響く足音だけが生命の存在を告げる。首を動かし、右を見ても左を見ても灰色の壁。代わり映えのしない道を只管に歩いていく。
背後の入り口が猫の額程になった時、開けた場所に出た。
町の中に現れた広場。周りを高い建物で囲まれたここは陽が高くとも昏いだろう。今もオレンヂの光はここには入り込めず、まるで環日食の時のような暗い明るさが立ち込めていた。四方を囲む灰色のひび割れた壁には蔦植物が繁茂し、長い時を感じさせる。そして、それは足元も同じで、白詰草が一面に敷き詰められ咲き誇っていた。
「ここは……?」
私の手を握っていたこいしに尋ねる。が、隣にこいしはいなかった。手に残る感触と温もりが確かな存在を知らせてくれるが、それだけだ。本人はいない。慌てて振り返るがそこに路地はなく、出口もなくなっていた。置かれた状況に冷や汗が一筋頬を伝った。
異能で浮上し建物を越えて外に出ようとしたが、成功はしなかった。飛べども飛べども景色は変わらず、蔦の絡んだ壁が見えるだけ。ある程度試して諦めた。空中で異能を切り、約九十八分メートル毎秒毎秒の重力加速度に身を任せ、落下する。
ぽすりと草の上に落ちた。湿気た草と土の香りが私を包む。そこから見上げる空は黄昏ていた。私は伸ばしていた足を曲げ、膝を立てた。と、そこで私はある事を思い出した。
「はぁ……」
溜息を吐き起き上がる。徐にワイヤーを取り出し、右手首に巻くと異能で一気に引き絞った。
ぶつり。
音を立て、手が肉塊となり、重力に引かれ落ちていった。
「はん……やはりそういうことか」
私は瞳を閉じ、想像する。瞳を開けた時、私の前に二振りの剣が創造されていた。
青の直剣。
鈍の細剣。
晴れと曇り、相反する二色の剣が宙に浮いている。私は右手を伸ばし、空色の剣を手に取った。今度は頭痛もなく、するりと手に収まった。何度か試し振りをした後、また宙へとそれを放り出し、今度は鈍色の剣の方を手に取った。
そして、私はそれを胸に垂直に立て、一気に押し込んだ……
◆◆◆
大学を出た私は河川敷を一人で歩いていた。別にぼっちなわけではない。授業の途中で抜け出してきてしまったからだ。
友達はちゃんといるわ。うん……
私はそんなナイーブになってしまった意識を振り払うように走り出した。
橋の辺りまで走ったところで、コートを脱いだ。さすがにコートを着て走ったら暑かったのだ。
脱いだ黒のステンカラーコートを手に持ち、国道を下っていく。少し汗ばんでしまった身体に寒気が心地いい。とはいえ、火照った体を冷やすというのは気持ち良い行為ではあるけれど、健康には悪い。私は風邪をひかないためにも異能を使い、汗を全て消し去った。
体が冷えてしまったのでコートを再び着込み、側道に逸れた。
徐々に車の走行音が遠くなり、電車の音が大きくなってくる。線路にぶつかった私は駅に向かい、段々と減速していく電車と並んで歩いていく。途中、踏切があったが、上がらない踏切を待つのはなんだか嫌だったので、地下道を行くことにした。
暗い通路はひんやりと凍えていた。私が地下道の真ん中辺りに来た時、丁度電車が上を通ったのか、ごうんごうんという響が私の身体を揺らした。
階段を登っていた私は日の当たる場所、地下道の出口で見知った顔とすれ違った。
ーーかた。
と、聞こえた気がした。振り返って見るが、黄色い靴を履いた少年は淀みなく歩いているだけで、特に変わった様子はない。勿論私の肩はなんともないし、彼の肩にも何もなかった。今の私の周りには疑問符が浮かんでいることだろう。
ーーっと、そうこうしているうちに踏切が開いてしまったようだ。
こうなると無駄な労力を費やしたような気がして辛くなってくる……
最後の最後で重くなった足を引きずって商店街を歩いて行く。昼下がりの町に人通りは少なく、閑散としていた。五分は歩いたが、誰ともすれ違うことなく目的地、涼風堂に到着した。
私が建物に近づくとガラスの自動ドアが開き、内から外へと暖気が流れ出た。その暖気と入れ替わる様に冷気と私が店内に滑り込み、ドアが閉じられる。入り込んだ冷気は一瞬で霧散してしまい、後には暖気と私だけが部屋に残った。
残った私は慣れた足取りで前と同じように壁際の階段を登り、喫茶の方へ上がっていく。
涼風堂は一階が洋菓子店、二階が喫茶スペースとなっている。
一階で売られている品物を上で買って食べることも可能だけれど、上でしか扱っていないものもあり、全てを楽しみたいなら上にも足を運ぶ必要があるらしい。例えば、パフェやパンケーキ。これらは上でしか食べることが出来ない。あと、飲み物も勿論上だけだと言っていた。
そうだ、この前帰り際に聞いた話だと、ミルクセーキが美味しいらしい。私はミルクセーキは自動販売機で売られている缶のものしか飲んだことがないが、甘過ぎて好きではなかった。でも、ここのミルクセーキはそこまで甘くないそうなので、今日は飲んでみることにしよう。
今日の注文を決めた私が二階へ上がると、私を呼びつけた人物はすぐに見つかった。この前と同じ席で、膝の上に本を広げて船を漕いでいた。そんなありすを見ていると、規則的に揺れる黒髪を手に取って、弄びたくなってしまう。とはいえ朝の件もある。これ以上接触しにいくと、本気でペドと思われる気がする……
既に遅い気もするけれど、取り敢えず今回は我慢することにしよう。
静かにテーブルへ近づき、向かい側に座った。髪に隠れて顔は半分ほどしか見えないが、きっとあの黒の簾の向こうにはあどけない寝顔があるのだろう。
「……ん」
幽かな声を発したかと思うと、口元が歪んだ。どうやら魘されているみたいだ。もう少し、寝ている姿を見たかった気もするけれど、可哀想だから起こしてあげようか。体を乗り出しその細い肩に手を置いた。
途端、ぴくりと身体を跳ねさせたありす。寝惚けた目でこちらを見て、口を開いた。
「……ああ、こいしか。ありがとう」
「ありがとうって……人を呼んでおいて寝てるってどうかと思うんだけど?」
「それについては済まない……だがな、人間腹が満たされて暖かい所にいれば眠くなるだろう? アレに抗うなんて私には出来ん。アレは睡眠と言うよりむしろ気絶に近いものだろ」
「確かに……でも開き直るのは良くないと思うわ」
「むう……だが、これは必要な事だったんだ。おかげで良いモノも手に入れられたしな」
「良い、もの……?」
相変わらずありすのしている事はわからない。
まだ一週間も経っていないから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないけれど、それでもありすについてわからないことが多過ぎる。まず、最初に会った時に持っていた参考書。あんなものは世の小学生が読むようなものではない。それに普段読んでいる本もだ。世の小学生は『さかしま』も『夢の操縦法』も読まないだろう。私だって読んだことがないわ。
……でも、百歩譲ってここまではいい。
本当に理解出来ているのかはそれを読んでいる本人にしかわからない。だから、ありすも実は読んでいなくてただ眺めているだけかもしれない。多分違うのだろうけど……
でも、こっちはわからない。
私と普通に会話が出来ること。それもかなり高度な会話を、だ。ありすが披露した異能の仕組み。そして化物と『翻転』の仕組み。これらに関する考察は軽く中学生は凌駕していた。もしかすると私の同級生をも超えているかもしれない……
ありすは容姿と中身が噛み合っていない。とにかくチグハグなのだ。異能で姿を変えているのではないか? そう疑っていたくらいだ。
……結局それは杞憂だったのだけれど。
大学にいる間に機関の仲間に確認してもらったところ、ありすが今年で七歳というのは正しいようだ。彼女の情報蒐集能力には目を見張るものがあるので、この結果を疑う余地はない。
だけどまあ、ありすが何者かということはゆっくり確認していけばいい。なにせ一週間の猶予があるのだ。
とりあえずはありすについて行こう。ありすと一緒にいれば私はもっとこの世界を知れる気がするもの。
でも、なんでありすは私に猶予を与えたのかしら? 直接の報告は禁じられているとはいえ間接的になら報告もできるのに……
白詰草の花言葉は「幸福」「約束」「私のものになって」「復讐」です!
ヤンデレ草と名づけましょう。