鉱水
ぼくは、怪物を飼っている。
……って言ったら、笑う?
でも、本当の話だ。
ぼくの心には、二匹の怪物が棲みついている。
蝕み、肥大し、支配する一匹。
こいつとはもう、十年以上の付き合いになる。
蔑み、侵入し、覚醒した一匹。
こいつはごく最近の新入りだ。
だけどぼくは願っている。
新入りが、もう一匹からぼくを解放してくれることを。
「おい、ネロ!なぁにボケッとしてんだ、落ちるぞ!」
「あ、はい。すいません」
「ったく、誰のためにわざわざこの俺が舟を出してやったと思ってんだよ」
「ぼくです……すいません、ほんと。どうかしてました」
うわの空で答えた。
さっきはどうかしてました。
そして今もどうかしています。
つまり、そういうこと。
「つうか、それどころじゃないんだっての……」
とりあえず、喧嘩を売った訳じゃない。それだけは言っておく。
だけどこんな茶番、面白くも何ともない。自己紹介でもしておこうか。
名前はネロ。年齢十六歳。身長百七十二センチ、体重五十三キロ。髪の色青、眼の色青。髪は相当長いのを一本に縛っている。
で、当然ながら五人目の主人公ってことで。以上。
「駄目だなこりゃ……おいネロ、おまえさんの頭もいかれちまってるが、どうやら、この洞窟も相当いかれちまってるらしい。どうする?それでも行くってんなら止めねぇが、俺ぁ帰るぞ」
「……へ?」
「へ?じゃねぇよ、へ?じゃ。よく聞いとけ。だーかーら、この先は舟じゃ行けねぇってんだ。確かにキラキラしたもんは見えるが、そんなもん、取りに行って死ぬのはごめんだからな。……うん、つまりおまえさんよ。こっから先行きたきゃあ、泳いでいけ」
そうか、もう着いたのか。町一番の漁師の予想以上の速さに、ぼくは舌を巻いた。
片手で、胸に下げた小さなイカリを握る。……うん、決心がついた。
「分かりました、構いません、ぼくは行きます。でないと、目的が達成されませんから」
「いやいやいや……実にあっさりじゃねぇか。一応言っとくが、この洞窟に人が入るのは何百年ぶりだか、中なんてどうなってるか分かんねぇぞ」
「分かってます、っ!」
言うと同時に水に飛び込んだ。途端、水の冷たさが身を貫く。
……うわぁ、冷てぇ。
「そうかねぇ……ま、若いモンのあるトコにゃ無謀な挑戦があるって事で良いか。んじゃ、頑張れよ」
溜息と共にそう言い残して、舟は去って行った。見えなくなるまで見送って、ぼくは改めて洞窟の奥へと向き直る。
気を抜くと飲み込まれてしまいそうな深い闇が、美しい結晶で鮮やかに縁どられていた。その奥で、何かが蠢いている様な気配がある。
「本当に、行くべきなんだろうな……?」
呟いて、指でイカリを弾いた。キーン、と良い音を立ててそれは振動し、そして、周りの水をも波打たせる。
……共鳴していた。
「……」
おいおい、マジかよ。
沈黙して、一歩踏み出す。さっき漁師が行けないと言ったのは、水底からも結晶が生えていたからだ。上面が平たいから歩くのに不自由は無いが、船は進めない。
自ら輝きを放つ結晶に囲まれ、長い距離を歩いた。足元から、壁から、天井から放たれる光は青白く、洞窟の中は神秘的な空気に包まれている。ぼくは目的を忘れ、しばらくその空気に浸っていた。
今回ここに来たのにはちゃんと目的がある。さっきの漁師には、この洞窟の最奥にあるらしい宝石を取りに行くと言っておいた。
「しかし、あれでよく信じたものだよな……」
我ながら、すごく危ない橋だった気がする。
何で知ってるんだっていうか、それ以前の問題。
更に進むと、壁があった。いや、正確には壁じゃない。なんだろう、結晶がどんどんせり上がっていって、道を阻んでいる。坂と言って言えなくもないが、急すぎて登れない角度だ。
そしてそこに、一匹の蛇がいた。
深みのある鮮やかな紫色の鱗が、結晶からの青い光を反射して妖しく艶めいている。その双眼にじっと見詰められ、ぼくは知らず知らずのうちに、まるで吸い込まれる様に、蛇に顔を近付けていた。
少し、蛇が身を引く。ぼくは一歩、踏み出す。
また、蛇が身を引く。ぼくはもう一歩、踏み出す。
更に、蛇が身を引く。ぼくは一歩を踏み出して、そして、落ちた。
青光に彩られた水が、まるで命が宿っているかの様に、ぼくにまとわりついて。
底知れぬ深みへと、ぼくを引きずり込んでいく。
意識を失った。
「……おい?おーい」
「う……がっ、ゲホッ!」
「ぐあっ!」
大量の水を吐き出した。激しく咳き込みながら、周りを見回す。
見覚えの無い場所だった。結晶の壁が周りを取り囲み、一つの空間を作り出している。
そしてそこにいるのは、ぼく一人じゃなかった。
息を整えるぼくのすぐ横で、顔を洗っている男がいる。反射的にぼくは結晶ぎりぎりまで後退し、その男をじっと見つめた。そのまま十数秒が経過する。
男の髪は紫色をしていた。見慣れない服を纏った身体は大きく、筋肉量が尋常じゃない。シュルシュルという音に視線を移すと、男の身体にあの蛇が巻き付いていた。
「……ふう」
やがて顔を上げた男は、身体ごとぼくの方を見た。深い光に満ち、髪と同じ紫色をした瞳が、ぼくを興味深げに見据えている。
「……君、は」
顔のつくりからして、あまり歳は離れていなさそうだ。そう判断したぼくは、敬語を使わずに相対する事にする。
「おれか?おれは……サルだ」
「いや、どうみても人間だろ」
速攻でつっこむ。緊張?なにそれ。
てか、言葉ためといてそれかよ。
……ちょっと期待してたのに。
「あはは、人間に見えるか?」
「…………………」
えっ?
人間じゃないの?
いやそんなの知らないけど。これはそういう展開になるヤツだろ絶対。
「ま、確かに猿じゃないけどな」
「じゃあ何なんだよ」
何だろう、何かにムカついている自分がいる。
自分では到底敵いそうにないモノを目前にしている、と、自分の中の何かが自覚している。それを、何としてでも否定したくて。
危険信号を発しているそれは怪物ではなくて、もっと古い……そう、血の様な。
血縁。
……先祖?
「ま、おまえは知らないかもしれないけど。神様の一人だとでも思ってくれればいいさ。もう三千年位生きている」
「……嘘つけ」
そう言うと、男は声を上げて楽しそうに笑う。そしてぼくに近づいて来た。
「じゃあ、改めて自己紹介な。……おれはサル。水の古代神だ」