風雅
もしもこの時、弾きたいと思わなかったら。
もしもこの時、引かなかったら。
一体、どうなっていたのだろうか。
果たして、偶然なのだろうか。
もしもこの時、拭きたいと思わなかったら。
もしもこの時、吹かなかったら。
一体、どうなっていたのだろうか。
果たして、必然なのだろうか。
今となっては、どうでも良い事なのだが。
こうして、世界は転換した。
いや、私の方か。転換したのは。
「……だいたいあなたはいつもいつも……って、聞いていらっしゃるのですか?」
高い山の上……太古の昔、ヴェンフォンと呼ばれていた街。
多くの人で賑わうそこに、周りよりも一際大きい屋敷がある。
そこの最上階。豪奢に飾られた部屋の中で、私は一人、部屋の中央のピアノに頬杖をつきながら嘆息した。
さっきから小言をまくし立てているのは、私以外でこの屋敷に住む唯一の人間、執事である。この前新しく雇ったばかりで、二十代後半という若さながら執事としての身のこなしや振る舞いは板についているのだが、少々元気すぎるのが厄介だ。使命を果たそうとしているのは良いのだが、果たして執事というものはこういうものだったのだろうか。
「ラファル様!」
「……何だい。ちゃんと聞いているよ」
もちろん、嘘である。が、執事はそれにも気付かないようで、更に声を張り上げた。
「ご自分の立場を理解していらっしゃるのですか?あなたの父上が亡くなられた今、あなたはこの由緒ある家柄を守る唯一の人間なのですよ?とてもとても、二十歳にもなってご自分の健康より欲望を優先させる事が認められる立場ではありません!」
私は無言で、身体を反転させた。それだけの動作で執事は一瞬、押し黙る。赤く上気した顔で深呼吸をし、私はようやくまともに執事を見た。
「……私の身を案じているのなら、少し静かにしていてくれないか。頭に響く」
ラファル・トルナード。古代の神の血を引くと言われるトルナード家の現当主である。現在二十歳、ちなみに未婚。身長、高めの百七十八センチ、体重は軽めの五十二キロ。髪と瞳の色は生まれつき水色で、これはトルナード家の血を引くという唯一絶対の証拠だ。
そして、この物語に出て来る九人の主人公、その内の一人である。
「ピアノを弾きたいと、急に思い立ったのだよ。禁断症状が出ると困る……ックシュッ!」
一応言っておこう。もうお分かりかもしれないが、恥ずかしながら風邪をひいている真っ最中だ。
「暑いね。窓を開けよう」
返事を待たずに、大きな両開きの窓に近寄った。内開きになっているその窓の取っ手を掴み、勢いよく引っ張る。
「ちょっ、ラファル様!私がやります、無理をなさらずにっ……あぁー」
執事がどたどたと走って来たが、間に合っていない。開けた張本人は一人、ほくそ笑む。
開け放たれた窓から吹き込む涼やかな風が私の髪をなびかせていった。きっと私の瞳は今、きらきらと輝いている事だろう。それが感動ゆえの物なのか、それともただの熱のせいなのかは分からないが。
と、開いた窓の片隅に、さしずめ鳥がフンでもひっかけて行ったのだろう、曇ったような汚れがあった。
「実に美しい青空だ……が、このように窓が汚れていると、それも半減だな」
裕福に育ってはきたが、窓の汚れを指で拭いたら余計に汚れることくらい知っている。
「止めて下さいよ、もう……私のいる意味が」
そんな事をぼやきながら近づいて来た執事に、
「窓を拭くもの、持って来てくれ」
「無くなっ……はい、すぐに!」
うん、これでよし。
背後のドアが音を立てて閉まった。私は部屋に一人になる。
吹く風を浴びるため、窓枠に体重を預けて澄んだ青空を見上げ、ぼんやりとした。この調子からして、少し無理をしすぎてしまったのかもしれない。さては、熱が三十九度もある状態で階段を四階分上ったのがいけなかったか。駄目だ、当初の目的だったピアノを弾く事さえ、これではままならない。全く困ったものだな。
と、気付いた。青い空の中で、何かが動いている。細長く風に乗っているようにも見えるが、雲でないのは確かだ。
ああ、とうとう熱に侵され始めたか。おそらく幻覚か、そうでなければ飛蚊症という奴だろう。どちらにしろ、精神に何らかの危機が迫っているな。帰るとしても果たして、無事に寝室まで辿りつけるのだろうか。
この風邪が治ったら屋敷にエレベーターを付けよう。そう私は決心した。
それにしても。
今思考を巡らせていた間にも動くものは大きくなっている様だ。いや、明らかに大きくなっている。
「うん?……それも違うな。ああそうか、近付いて来ているのか」
なるほどなるほど。これで合点がいった。
この時点で、激しい熱と頭痛に意識が朦朧としている私の判断力が鈍っているのは明らかだ。少なくとも、納得などしている場合ではない。危機を感じても良い筈なのだけれど。
私は、それをただ眺めつづけていた。
頭痛に潤んだ水色の瞳を見開いて。
熱に霞んだ視界の中、目を凝らして。
ただ近付いて来るものの正体は何なのだろうかと、それだけを思考しながら。
「蛇……?いや、竜だな」
巨大な翼を大きく広げた、風を生み出しているかの様に力強く羽ばたく竜。
まるで空と同化しているかのような、透明で、それでいて透過の無い鱗。
私の目の前で一瞬静止してその不思議な色の眼を細める、それを認識した、その刹那。
身体を、突風が突き抜ける。
衝撃、だった。
「拭くものはこれでよろしいでっ、あぁあ!……ラっ、ラファル様っ!」
その数分後。
乾いた雑巾を手に戻って来た執事が見たのは、大きく開け放たれた窓と、そのすぐ下に横たわるラファルの姿だった。
慌てて駆け寄り、脈をとる。命に別状は無い事に、ひとまず安心した。
「だから、ご無理をなされてはいけないと申しましたのに……幾ら細いとはいえ、二十歳にもなった身体を、四階も抱えて降りるのは私でも骨が折れるのですから……ん?」
気を失って脱力した身体を抱え上げようとしたその瞬間に、ラファルの首ががくり、と後ろに倒れた。その衝撃に髪が流れ、整った細面の顔とその周辺が全て露になる。
普段は見えていない耳に、執事の目が留まったのだった。
正確に言えば、その耳で揺れるイヤリングである。
細い針金を円錐に巻き付け、それを外して少し伸ばした形と言ったら想像がつくだろうか。幼い子供に竜巻の絵を書けと命じたらそのほとんどが描きそうな、そんな形である。
それが銀の金具を仲立ちとして、ラファルの両の耳に、円錐の先が下向きになる形でついていた。円錐の色は、ラファルの髪や瞳と同じ水色である。
「アクセサリー類は、ほとんど付けられる事が無いのに珍しいですね。それに、このような形、見た事がありませんが、いつお買いになられたのでしょうか……」
そして執事はラファルをしっかりと抱え上げ、部屋を出て行った。
誰も居なくなった部屋で、開け放された窓から風が吹き込む。
広い青空に、動くものはもういなかった。