表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/34

第七章《片秤の欠席 -Seek=Forless:Absence-》

 こざっぱりとしたスピアの家の中は、なんだか庶民的だった。

 スピアとフライヤしか居ない今は少し寂しげでもある。

「随分と余計な真似をしてくれたもんね」

 フライヤは歯噛みする想いで呟く。

 蒔いてきた種は最悪の形で結実したのだ。

 フライヤは溜め息とともに不満を口に出したのだった。

「……ああ。そのことに関しちゃあ返す言葉もねぇよ」

 スピアは見慣れないしおらしい態度で、煙草をふかしている。

 確執の始まりは間違いなく、あの瞬間だ。

 フレアが妖精族の末裔である、と露呈したあの瞬間。

 だが、事の始まりは更に多くの時間を遡る必要があるのだろう。

 フレアが妖精であることを隠し、旅に出たこと。

 シークが妖精族を憎んでいたこと。

 スピアが妖精族、特に龍剣について憧れを抱いていたこと。

 全ては不幸な偶然だった。

 もしこの世に神がいるのなら、随分と面倒な世の中を作ってくれたものだ。

 フライヤは憎々しげに空を仰ぐ。

 透き通る蒼い空。ふわふわと浮かぶ入道雲。照りつける太陽。当たり前の空がそこにあった。

『俺はお前を、殺さずにはいられない』

 その言葉は、どんな想いで告げられたものなのか。

 シークの心中は察するに余りあるものだ。

 そうして、シークは去った。

『次に会う時が、お前の最期だ』

 その場で、事を果たさなかったのは、スピアやフライヤたちを巻き込まないための良心なのか。

 フレアに対する最後の義理なのか。

 あるいは彼自身のための矜持ゆえか。

 いずれにせよ、結末は変わらない。

 フレアとシークの戦いは回避できない。

 先のことを考えると、フライヤは憂鬱になるばかりだった。

「今は時間が惜しいってのに」

 愚痴ったところで始まらないのは、フライヤも良く分かっていた。

 それでも愚痴らずにはいられない。

「まだまだこれから忙しいんだからさ」

 フライヤは、やれやれと肩を竦める。

 スピアはそれに気づき、顔を上げる。

「ああ……。もうそんなところまで知れてるのか。大した嬢ちゃんだな」

 スピアは眩しげに目を細めて、フライヤを見る。

 その微妙な表情は、感心した顔なのだろうか。それとも呆れた顔なのだろうか。

 どちらでも構わない。と、フライヤは頭を振る。

 フライヤにとっては、この男は"明星"へ至るための足掛かりでしかない。だから関心は要らない。そんな感情はドブに捨てる。接触を図ることが出来たなら、もうこれ以上の接近は必要のないことだ。だからこそ、散々に文句を浴びせてやろうかとも思ったのだが、そんな気はもう、どこかへ霧散してしまった。

「まったく。私も甘くなったもんだ」

 それは忌々しくも悩ましい独り言だった。


――


 『エルフ』。

 それは『妖精』の蔑称。

 差別的な呼称。

 虐げるための単語。

 一般的な人物と比べて圧倒的に知識の少ないリースには、その言葉は空虚に響いた。

 人ではない。そうは言われてもそれがどういうことなのか、分からない。

 だってフレアはフレアだ。リースにとってそれだけでしかない。ないのだが……、シークやそれ以外の人にとっては、それだけではないらしい。

 人ではない。

 確かにその言葉は怖い。

 人ではないのなら、常識で計れない。私たち人は、人しか知らない。だからそれ以外を、知らない。

 知らないものは怖い。分からないものは怖い。得体のしれないものは恐怖しか生み出さない。

 その気持ちはリースにも良く分かる。リースにとってほとんどのものは分からないことだからだ。

 記憶喪失であるリースにとって分かるものなど多くはない。

 だから必然的にほとんどのものを怖いと感じてしまう。分かるものなど数えるほどしかないのだ。そして、その中には自分すら含まれない。

 リースはリース自体がどんな人物なのか分からない。

 リースは何も知らない。

 だから、怖くなかったのだ。

 リースから見て、フレアが怖くはなかったのだ。

 『妖精』であっても、人ではなくても、怖くはなかった。

 少なくとも、自分よりは信頼できるのではないか、とすら思う。

 記憶もなく、ときどき意識もなく行動している自分とは違って。

 フレアは優しくて、まっすぐで、純粋で、まるで子供のように無邪気で。

 そんな彼のことを思うと、リースは胸の中に暖かい気持ちが生まれる。

 リースには、それが初めてのことだった。

 後に、リースやジンとも話すようになり、シークともようやく少しずつ会話らしいものが出来るようになってきた。

 フレアと同様に、暖かいものが胸を満たしてゆく。

 その想いには差異がないでもない。

 やはり最初だからなのだろうか、この気持ちはフレアに対してのみ、強く感じる。いや、もっと熱く感じる、のだろうか。想いの大きさの違いなのか、そもそも別の感情なのか。それは経験情報が欠落したリースには判別できない。

 きっと自分は特別なのだ。そう結論づける。

 フレアと共に旅をしてきたからこそ、感じなくなってしまった種族間の違和感。それはもう、取り戻すことは出来ないのだろう。

 例え人の10倍長い寿命を持っていてリースが年老いてもフレアは若い姿のままであろうとも。例え頑丈な身体のせいで普通なら死んでしまうような大怪我からでも回復できたとしても。例え超人的な運動能力で向かってくる敵を一網打尽にしてしまおうとも。

 リースはフレアを信じ続けるだろう。慕い続けるだろう。そのことには寸分の疑う余地もない。

 だからこそ、リースにはシークが理解できなかった。

 フレアとシークの間にはしっかりと友情が育まれていた。それは自他ともに認めるところだろう。

 それを捨て去ってまで、復讐に走るシークが、リースには理解できない。

 だが、それこそがリースが失ってしまった価値観なのかも知れない。

 一般的な価値観というものなのかも知れない。

 彼こそが普通なのかも知れない。

 そう思うとリースには、シークが不憫でならなかった。

 同様に、一般的と呼ばれる人たちも可哀想でならなかった。

 ――だって、フレアはとても素敵な人物なのに。

 それを受け入れられないなんて、なんて悲しいことだろう。

 リースはそんなふうに思うのだった。


――


 戦場を支配するのは、力ではなく心である。

 それがフレアの師匠、クォラル=バーガンディーの教えだった。

 これには色々な意味が込められていて、その内の一つは、どんなに優秀な戦術家であっても、優秀な戦略家には絶対に敵わないということだったりする。

 戦いに勝てても、勝ち続けていても、望みを叶えられる訳ではないのだ。

 国を守るなら外交手段は必須。滅ぼすだけではなくて、富をもたらさなければならない。自国だけで賄える資産などほとんどないのだ。それは多くの国に対して言えることだ。だからこそ、心を持って他者を支えなければならない。

 戦上手なだけでは結局のところ、誰も救えないし、誰も守れない。戦う術だけでは意味が無い。力だけでは意味が無い。

 優秀な戦略家ならば目的のために、力を尽くす。それは自己中心的であっても構わない。確実に自己を守るためには、多くの人の支えが必要だからだ。

 その、多くの人からの協力を得るためには、それ以上に多くの人を支える必要が出てくる。即ち民衆を救う必要がある。

 そのために必要なのは、心だ。人は心によって動かされ、心によって動く。

 故に心を鍛える。

 強き心の持ち主こそが戦場を支配するに足る器であり、詰まるところ、力というものはその手段にすぎない。

 目的を主とするか、手段を主とするか。同じ戦いという意味においても、その違いは余りに大きい。

 それは戦場というスケールの大きい話だけではない。

 例えば、1対1の局面。拮抗した力量同士での戦いでも、心が強いほうが勝算が大きい。

 この場合、油断の有無や諦めない意志などの要素が話の主題になる。

 いずれにせよ、力に頼ったところで本当の意味での勝利は訪れない。そういうことだ。

 それはそういうような教えだった。

 だけど。

 心は簡単に揺さぶられる。

 一瞬でボロボロになることだってある。

 友人と思っていた相手に、憎しみをぶつけられただけで、簡単に折れる。

 フレアは、自分の情けなさに嫌気が差した。

 そして同郷の従兄妹に思いを馳せる。

 彼女ならどのように対処するだろうか。

 そんなことを考えて、気持ちは更に沈む。

 こんなふうに悩むことすらないのだろう。憎むなら憎めばいい、そう言って剣を抜くのだろう。やれるもんならやってみな、とでも言いながら。

 フレアは自分が情けなくなった。どうしてこうも違うのだろう。

 そもそもフレアには剣術の才能がなかった。それはもう分かり切っている。20代そこそこのジンやシークとも実力は似たり寄ったりで、フライヤには負けるだろう。2対1でなければあの時の勝敗は入れ替わっていた。というよりシークが来なければ戦いにすらならずに敗北していただろう。スピアとは引き分けたが、これもたまたまだ。これも妖精としての気の総量の差で強引に押しただけのようなものだ。そもそもがフェアじゃない。そもそも経験年数が違うのだ。彼らのように10年やそこらではない。フレアは100年以上修行してきたのだ。そのうえ妖精としての身体の頑強さや身体能力の高さ、気の総量の差などもある。それだけのものを足してようやく互角なのだ。これはもう、どうしようもなく本当に才能がないということだ。

 だからこそクレアに憧れたのだ。そして妬んだ。羨んだ。一方的に、慕った。

 本当にもうどうしようもない。

 思えば思うほどフレアはどうしようもない男なのだった。

 だからこそどうでも良くなったりもする。

 何もかも投げ出してごろんと寝そべり思考を投げ出す。

 無意味に空を眺める。

 空はどこまでも蒼く、雲は真っ白。太陽は眩しく視界を霞ませる。

「憂鬱だなぁ」

 そんなことを呟いてしまう。

 そもそも今は鍛錬のために宿から出てきたのだった。街の市壁を出て少し歩いた辺りの草原。向こうに見える木々がさやさやと優しく唄っている。

 フレアの手元には一通の手紙がある。

 見れば見るほど溜め息しか漏れない。

 はふぅ、と情けなく息を吐く。

 内容は、日付と時間、場所が書かれているだけの簡素なものだ。

 それだけでもう、どうしようもなく、気分が優れなかった。


――


「んで? いつまで塞いどんねん。なっさけな!」

 フレアが宿に帰ると、開口一番、ジンにそう言われたのだった。

 全くもってその通りだと思ったので、頷いて部屋に戻ることにする。

 扉の前に立ち、ドアノブに手を掛ける。

 ああ、そうか。ここを開けても中には誰も居ないのか。なんて思うと、無性に開けたくなくなった。

 立ち尽くすフレアに、ジンは盛大な溜め息を漏らす。

「……明日なんやったか? 例の、決闘は」

 濁すことなく、ジンは手紙の内容に触れた。

 バレていることに一瞬驚いたが、フライヤの差し金だろう、と受け流すことにした。ここ最近、フライヤの鋭すぎる直感に対応してきている自分に気づいて愕然とするフレアだった。たぶんもうプライバシーなどないのだろう。全てバレている。その前提で話をすることにもはや慣れ始めてきていた。

「ああ。明日の正午、市壁の外で待ってるらしい」

「罠とか用意してんとちゃうか?」

「……まさか。そんなはずは、」

 言って、途中で詰まる。

 そうだ。何も知らない。

 フレアはシークのことを何も知らない。

 友人だと思っていた。仲間だと思っていた。だが、彼のことをフレアはほとんど知らない。

 なんて軽薄な友情なんだろう。フレアは自己嫌悪の情に押し潰されそうになった。

 そんなフレアを見かねたのか、ジンは大振りに手招きして言う。

「ちっと来ぃや。お前みたいなボンクラ見てられへんわ」

 ジンに誘われるがまま、暗い夜道へ飛び出したフレアだった。


「かんぱーい!」

 流されるまま、乾杯していた。

 そこは近場の酒場のようだった。扇情的な服装のウェイトレスが複数の皿を器用に抱えてテーブルを巡っている。客は多く、そこかしこで笑い声や怒鳴り声が聞こえる。運ばれてきた肉料理の匂いにフレアはよだれが溢れ落ちそうになった。

「いや、溢れ落ちそうっちゅーか、まんま流れとるけどな」

 ジンの突っ込みを受け流し、焼かれた肉片をおもむろに口に押しこむフレア。香辛料の効いたタレが肉の旨味を見事に引き出していた。そして野菜に手を出す。よく、肉料理が好きだと告げると、野菜はちゃんと食べているかと聞かれることの多いフレアではあったが、実際は野菜も好んで食べている。プレートに乗ったニンジンは良く火が通っていて、野菜本来の甘みが生かされていた。そして、スープに手を伸ばす。こちらはさっぱりとしていて、こってりした肉料理と非常に相性が良かった。何だこれは、順繰りに喰うだけで最高の合わせ技に昇華するじゃないか、と感激の意を示さざるを得ない。

 そうしてしばらく食事に没頭していたフレアだったが、ジンに名前を呼ばれて、食事の途中に箸を休めることは不本意ではあるが、落ち込んでいる自分を励まそうとしてくれている友人の恩義に報いるためにも、箸を置くことにした。

「まさか本題の前に6皿も平らげるとは思わんかったな。まぁええわ…、ええっちゅーことにしたるわ。んで、本題」

 と言い、ジンは立てた人差し指をフレアに向けた。あまり行儀はよろしくない。が、やはり友人であるため、口には出さない。

「コイバナしよか?」

 ジンはにやっと歯を見せる。

「こいばな?」

「そや。コイバナ、恋話、恋の話っちゅーやっちゃ! どや? なんか盛り上がらへんか?」

「別に」

「……お前、ほんっとに剣術少年だったんやな」

「ほっとけ」

 随分と虚しい話である。

 そもそも、フレアの人生はそういった浮ついた話とは無縁だった。

「なんや、サイキョーの剣士になりたいー、みたいな? そんなんか?」

「なんか急に馬鹿っぽく見えるから、その言い方はやめてくれ」

 急に恥ずかしくなってくるのだった。言い回し一つ変わっただけで、随分と印象が変わってしまうものだな、と関心してしまった。

「いやいや、ちゃうやろ。なんかこう、その原点には女が居ったりするんちゃうんか? 何を隠そう、オレはそうやで!」

「聞いてない。っていうか興味もない」

 この人懐っこい性格にも、ある程度慣れてはきたが、やはり人間族特有の雰囲気なので、まだすんなりとは馴染めない。

 なんともくすぐったいような想いを抱きながら対処する。やや冷ために接しているのは、フライヤがそうしているのと一緒で、理由はつけあがるからである。

 調子に乗らせると、いつまでも喋り続け、本題に進めないので、自然にそうなっていった。

「傷つくわー。持ち直せないわー。今日も涙で枕を濡らしてしまうわー」

「そうかい。良かったな」

「んでな、オレの初恋はな……」

「結局、話すのかよ!」

 思わずツッコんでしまった。そこにはしたり顔のジンがいた。

「相変わらず優しいなー、兄さんは」

「はぁ、そうかい」

 にまにまといやらしく嗤うジンに、フレアはがっくりと肩を落とした。

「とまぁ、余談は置いとくとして」

 ジンは声のトーンを落とす。どうやら本題に入るらしい。

「聞かせてもらいましょか。兄さんの恥ずかしい初恋を!」

 どうやらこの男、本題に入る気はさらさら無いようだ。


――


 なかなか口を割らないフレアのため、ジンは昔話をした。

 ジンは元々、一人で賞金稼ぎをやっていた。実力は如何程だっただろうか。古い記憶の所為か定かではない。と言うよりもフライヤと組んでからの生活が楽しすぎた所為で、それより前を思い出せないのだ。だが、最初は一人だった。それだけは間違いない。古いとはいえ、フレアとは違って、たった10年すら経ってはいないのだから。色褪せることはあっても忘れることは決してない。

 フライヤ=ルクセフィア。

 シルクのように艶やかな長い『黒髪』、細くしなやかな手足、白く滑らかな肌、整った凛々しい顔立ち、何者にも屈さぬ強い意志を宿した『枯木色の瞳』。

 髪と眼の色を除けば、それは現在のフライヤと瓜二つの姿の女性だった。

 その名は畏敬の念で呼ばれることが多かった。ジンには遠い存在だった。彼女はいつも一人ではなかった。周りには多くの彼女の仲間たちがいた。ジンは近づくことすらなかった。出来なかった。それだけ有名で、強かった。そして何より美しかった。彼女は遠い存在だった。

 ジンのほうはソロで動くことが多く、だから彼女とは関わることはないのだ、と思っていた。それはその時が来るまで、ずっと。

 片田舎のギルドでのことだ。

 手を組みましょう。彼女はそう言った。それは突然のことだった。

 これから追う標的が現状の面子では手に負えない可能性があるのだという。

 フライヤは強かった。最強の賞金稼ぎと言われていた。間違ってもサイキョーなどではない。真の意味で最強だった。徒党を組む必要性がないくらい、彼女は強かった。当時はそういった説話が、真偽はともかく、余りに多くあった。100対1の斬り合いで勝ったとか。人外の獣を討ち取ったとか。その手の話はいくらでもあった。噂がひとり歩きしてしまっていた。それくらいに有名だった。だが、それも仕方がない。彼女はそれだけ強く、多くの依頼を果たしていて、そして何より美しかったのだから。噂くらい作られて当然だった。

 ジンはそんな彼女の提案に、最初は恐れをなした。巻き込まれたくない。そう思った。

 賞金稼ぎ、それは謂わば傭兵の一種みたいなものなのだが、そんな生き方をしている人間にとって、名が売れすぎることはそれなりにリスクも孕んでいるのだ。有名な傭兵を暗殺する傭兵刈りなるものも時折現れるのだ。有名すぎる傭兵は恨みも買う。いや、妬みと言うべきか。

 現にフライヤは恨まれてもいた。妬まれてもいた。彼女は有名すぎたのだ。

 フライヤに依頼を請け負ってもらえるのは光栄だし、それが行き過ぎてフライヤ以外の傭兵では不名誉だなんて風潮すらあった。請け負ってくれるのがフライヤじゃないのなら依頼を取り下げます、なんて輩まで現れる始末。

 彼女は、傭兵連中からは煙たがられていた。それも事実なのだ。

 彼女の仲間たちがどういうつもりで仲間で居続けたのかは知らない。だが、状況は確実に彼女を追い込んでいた。

 そういう状況での提案だった。ジンは手をこまねいた。悩んだ。そして。

 ジンは、その手を払った。

 フライヤがどんな顔をしたのかは知らない。見ていないのだ。怖くて見れなかった。

 彼女も。その仲間たちも。怖くて見れなかった。

 ジンはそんな恐怖をひた隠しにして、ギルドを出たのだった。

 そして数日後。


 フライヤ=ルクセフィアは行方不明になった。


 ジンは狂騒に駆られた。居ても立ってもいられない状態になった。

 いなくなって初めて気づいた。

 彼女に惹かれていたことに。

 だから逃げた。だから手を拒んだ。受け止める覚悟がなかったからだ。

 手を拒んだ時、彼女の眼を見れなかったのは怖かったからだ。

 はじめ、彼女の眼には好意が見えた。それが失意に変わる様を見たくなかったのだ。

 あまりに無様だった。

 そしていなくなった。

 オレの所為だ。そう思った。

 考えられることはいくらでもあった。

 仲間たちが実は共謀していて、フライヤを貶めたとか。あるいは傭兵刈りに襲われたとか。あるいは依頼に失敗したとか。

 ジンは真っ先に仲間たちの裏切りを思い浮かべた。それしか考えられない。そう思っていた。

 なぜなら、それはあまりに不自然だからだ。

 疎まれていた彼女の側に付くことも。彼女に味方することも。傭兵としては在り得ない。

 フライヤばかりが優遇されれば、他の傭兵は仕事にありつけなくなる。そうなれば自然に彼女は疎まれることになり、そしてそれは仲間たちにも飛び火する。

 もしその仲間たちに傭兵としての矜持が残っていれば、彼女を厚遇したりしない。それは傭兵業の破綻に繋がるからだ。

 彼女を厚遇するのであれば、彼女をギルドのトップに据えでもしない限りは安定は在り得ない。状況はそれくらいに切羽詰まっていた。

 だが、彼らはそうしなかった。ギルド職員への転身希望を彼らは突っぱねたのだ。

 猛反発を食らい、書類を千千に裂かれた彼女の想いがどんなものだったのかは知れない。

 だから、結論は結局そちらへ向かうしかない。

 彼女は殺されたのだ。仲間たちに裏切られて。

 そうして。気づけば。

 ジンは森に立っていた。ギルドで彼女が言っていた提案。依頼案件の場所。

 彼女はここでテロリストの倉庫を潰していた筈だ。

 ここの倉庫がメチャメチャにされ、テロリストは活動不可にまで追い込まれたのも知っている。そこでフライヤとその仲間たちが消息を断ったのも知っている。そしてその後視察に来たギルド職員が立ち入り、この有り様を記事にして新聞に貼り出されことも知っている。

 だから余程奥まった場所でもない限り生存者はいないだろうことも分かっていた。分かっていてジンはそこを訪れた。

 そして、煤けた廃倉庫に侵入した。

 そしてすぐに耳に入った。

 人の声がした。

「フライヤっ!?」

 考えもなしに走る。入り組んだ作りが腹立たしい。目的の場所にはなかなか辿り着けない。

 襲撃対策なのだろうが、狭い廊下があちこちで曲がりくねっていて、方向感覚を失わせる。それでも声だけははっきり聞こえる。勘違いではない。間違いなくそこにいる。

「フライヤーっ!!」

 ジンは声を荒げた。それはあまりにもどかしかったからだ。

 そうこうして、ようやく迷路のような道を切り抜け、一気に視界が開けた。

 そこには。

 いくつかの屍体と一人の生き残りが倒れていた。

 途端に異臭が鼻を突く。おそらく死後から数日が経っているのだ。舞う蝿たちに嫌悪感が募る。

 見知った顔がいくつかある。フライヤから提案を受けた時に見た顔だ。フライヤの仲間たちだろう。いや、もしかしたら元仲間というべきかも知れない。

 何が起きたのかは分からない。彼らの死の真相は生き残りに訊くしかないだろう。そして、周囲を見渡す。声の主を探す。

 屍体から少し離れた場所、そこに彼女がいた。

「たす、助けて……」

 声は弱々しく、聞いたことのない声だ。だからそれが彼女だとは信じられなかった。

 衣服はボロボロで、絹のような黒髪は金色に染まっていた。滑らかだった肌はささくれて痛々しい。声には覇気がない。

 彼女には彼女と認識するに足る全てがなかった。

 それはもう彼女ではなかった。ジンの知るフライヤはもう何処にも居なかった。

「いたい、……やめて、つらい、苦しい……」

 彼女はうわ言のように呟く。もう意識はないように見える。

 そして、手が伸びてくる。

 彼女は助けを求めるように、腕を伸ばした。ジンはそれを掴んだ。

 ジンの意識は呆然としていた。何より意味が分からなかった。

 彼女が襲われたのは、恐らく予想した通りなのだろう。

 だが、何があってこの状況になったのか。

 何故、彼らフライヤの一団は死に、フライヤは変わり果てた姿で生きているのか。

 そもそも、一度調査が入っているはずだ。であれば、この惨状はおかしい。

 やはり、捏造されていたのだろうか。そこまでは予測してはいたのだが。

 おそらく調査員は視察に来ていないのだ。視察せずに記事を書き、公表した。そういうことだろう。

 まぁ良くある話だ。

 だが、この現状ばかりは、理解が及ばない。

 ――何か新種のクスリでも盛られたか……?

 そういう結論しかつけられない。

 そしてジンは彼女の腕を引いた。

 その細い腕は剣など握れそうにない。ものの数日で見事に痩せ細っていた。この様子なら食事もしていないだろうし、当然とも思える。

 そのまま彼女を抱き寄せる。それでも彼女は呻き続ける。

「いやだ、いやだ、奪われたくない……わたしは、わたし」

 もう見ていられなかった。ジンは彼女の鳩尾を打ち、気絶させた。


 もう彼女にはフライヤの面影はない。ジンは彼女のことをほとんど知らないが、もう元の彼女は残っていないだろう。

 町の小さな診療所で、彼女の快復を待った。

 快復した彼女は記憶の全てを喪っていた。

 全てを失った彼女に、ジンはもう一度フライヤ=ルクセフィアの名を与えた。

 彼女がフライヤであるという根拠があるわけではなかった。だが、ジンはその名を与えた。

 今度こそ彼女を救いたかった。だから真偽などどうでもいい。

 彼女を守る。そう決めたのだった。


――


「フライヤに、そんな過去が……」

 それはフレアにとって意外だった。というかそんな状況からどうしてあそこまで不敵になれるに至ったのか不思議でならない。

「まぁそこら辺は、やっぱりアイツは強かったっちゅーこっちゃな。面食らったんはこっちかて同じや」

 それが彼女の本質、ということなのだろう。過程はどうあれ、いずれ辿り着く形は同じということか。

「っていうか大丈夫なのか? その、毒盛られたんだろ?」

 フレアはよく知らないのだが、中には後遺症が残ったりする厄介なものも多く存在するという。

「ああ、医者が言うには問題ないらしい。クスリはたぶん盛られてない、やと」

「だけど、それだと……」

「そやな。説明できひん。髪色変わるわ、気ぃ狂うわ、記憶喪うわ、めちゃくちゃやもんな。けど残念ながら、それ以上は分からんのや」

 言葉を失してしまう。思っていた以上にジンもフライヤも重たい過去を背負っていた。

 自分もしっかりしなければ、なんとも情けないではないか。

「まぁ結局、オレの話だけで時間使いすぎてもーたさかい、兄さんの話は今度に回すとして……」

 ジンは立ち上がりながら言う。

「惚れた女の為なら、何でも出来るのが漢ってもんやろ?」

 勘定をテーブルに置き、ジンは酒場を後にした。フレアは一人残される。

「惚れた女、ねぇ……」

 思い浮かぶ顔はやはり一人しかいない。

 はぁ……、と盛大に溜め息を吐く。

 ふと顔を上げると、並べられた料理はすっかり冷めてしまっていた。


――


 温まった身体に、夜風が気持ちいい。

 フレアは酒場を出て、通りを歩いていた。

 宿まではたいした距離もない。迷うことはないだろう。脳裏には常磐の町で徘徊していたときの記憶が蘇った。道に迷っているときの心細さや不安、焦燥感はあまり思い出したいものではない。行きたい場所へ行けないストレスは存外に大きいもので、人を惑わすには充分な魔力がある。ゆえに更に迷い、状況は悪化の一途を辿るわけだ。

 これがあと一本向こうの通りまで掛かるような距離だったらどうだろう。さすがに迷わないと思いたいが、自信を持って答えられない自分が情けない。

 そんなことを思いながら歩いていると、違和感を感じた。

 それはさながら糸のようだった。

 糸のように細く、視界の端を縫う影。それを目視しようと振り向けば姿はそこに無く、気配はフレアの背後に迫っていた。

「フライヤ、か」

 フレアは憶測を口にする。

「ちっ、バレたか」

 もう一度振り向くと、そこには金糸の髪を夜風になびかせて佇むフライヤがいた。

 月光を背に受け、輝く髪が、彼女の赤い異国の衣装を照らし出す。

 聞いたところによると大陸製の民族衣装らしく、太腿を露出させる深く裂かれたスリットは、彼女の常軌を逸する立ち回りを一切阻害しない。そして、上半身は逆を行き、露出は少ない。膨らんだ胸元からは相当なプロポーションを想像させるが、布がそれを覆い尽くしている。襟先は首元までを丸く囲う。

 それが彼女の普段の姿だった。

 他の衣服を着ることもあるようだが、いつもはこの姿でいることが多い。

「何か用か?」

 フレアにとって、フライヤは敵ではない。警戒する必要もないので、気を楽にして訊く。そして彼女はそれに答える。

「聞いたんでしょ。私の秘密」

 どことなく蠱惑的な響きに聞こえなくもないが、もちろんここではそんな意味では全くない。

 先程のジンとの会話を聞かれていたらしい。

 あるいは、ジンが話すことすら予測済みだったということだろうか。

 どちらにしろ、大いに有り得る話ではある。

「ああ。聞いたよ」

 隠すようなことではないし、そんなことはこの女の前では無意味だ。というか逆効果になる。

「……そっか」

 と、フライヤは神妙に頷く。

 様子から察するに、聞いていたというわけではないのかも知れない。そう考えるとますます恐ろしくもなるわけだが。なぜなら、フライヤは予測だけで会話の内容すら当ててしまうというのだから。ジンがフライヤの秘密を明かしたことに、何か重大な意味があるとするなら、また別の意味が生まれるわけだが、それは今考えることではないだろう。

「ひとつだけ、忠告」

 フライヤは指を立てる。その仕草は、やはりいちいち魅惑的でいじらしい。思わずその所作に目を奪われる。

 指はそのまま、フレアに向けられ、止まる。流れるような手つきはなぜか注目せずにはいられない。

「私は誰の指図も受けない。誰の理解も要らない。そして一切に遠慮をしない。全ては私のものであり、全ては私の自由だ。だから……」

 その蒼い眼光に炎が宿る。意志の炎だ。フレアにはそれが何故か赤く輝いて見えた。炎のように赤く揺らめいて見えた。

「父も母も家族も王も皇帝も法王も民衆も神も精霊も、私の邪魔はさせない。何人の妨害も赦さない」

 フライヤの眼の炎は更に昂る。迸る。炎のように波打つ。

「私は私だ。私でしかない。私でしか在り得ない。他の何者にも支配されない」

 赤い。蒼いはずのその眼は赤く爆ぜる。

「私は私だけのものだ。これだけは譲れない。なぁ、フレア……」

 不意に、炎のような圧迫感のある気配が夜気に紛れた。

 全ては錯覚であったかのように、静かになる。黒い空、金の月、金の髪、赤い装束、蒼い眼。全ては元通りだ。

 そして、

「いつまでもあたしの掌の上に居なよ……?」

 そんな台詞を吐くのだった。

 なんともフライヤらしい言葉だった。

「ああ、分かってる」

 フレアはフライヤを追い越し、背を向ける。

 不思議と、重たい気分は感じなくなっていた。

 それはジンとの会話のおかげか、フライヤのおかげか。どちらでもいいのかも知れない。

 フレアは続ける。

「退屈してるんだろ? 手持ち無沙汰はさせねぇよ」

 フライヤが立ち去る足音が聞こえた。

 一人。

 その掌の上から零れ落ちた奴がいる。

 一人だけ逃げようたって、そうはいかねぇぞ、とフレアは吐き捨てる。

 これは復讐を遂げるための決闘ではないのだ。

 人形を一人、掌の上に戻すための決闘だ。

 フライヤならば、ヴァルトニックもテロリストもない、新たな世界を作り出せる。フレアはそう信じたのだ。

 だがそれだけでは事を成せない。

 信じるだけでは駄目なのだ。

 肯定だけでは暴走するだけだ。疑う役目が必要なのだ。

「疑うのは、アンタの役目だろうがッ!」

 答える相手はここには居ない。

 夜の帳はまだ深いが、満月のせいか、やけに明るい気がしたのだった。

◆シーク復讐編Aパート

タイトルも『片秤のけっせき』で揃えて英題もAから始まる単語からとってます。

そのまま欠席という意味です。


◆まさかのバトル無し回

まさかこんな日が来るとは。長生きはするものです。

ちなみにシークは出番無しです。


◆フライヤの過去

衝撃度をアップさせるため、フライヤの髪色チェンジ設定をでっち上げました。かなり土壇場で。

真相はなんなんでしょうかねぇ……


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ