第二章《緋き暴風の激情 -SCARLET IRIS [TYPE:IGNIT]-》
監査役。
それは陸の孤島、エルフの里における情報収集の要だ。
しかしその役割には、人間の世界を監視するという目的の為、隠密的な意味合いが多分に含まれている。
世界に散った妖精族たちは各地に拠点や隠れ家を作り、人間たちに紛れて暮らしていた。
その長い年齢と、やや尖った耳以外では主だった違いもないので、ただ隠れるだけならそれほど難しくはなかった。
耳を隠し、年齢が疑われないよう定期的に住処を移せば、人であることを疑われなくなる。
余談として、気功術に関しては僅かながら人間にも使い手はいるため、扱えることを隠すのに越したことはないが、見つかったからといってそれほど危険とは言えない。
それらの注意点を守っていれば、監査役という役割はそれほど難しいものではないだろう。
監査役として既に里を発ち情報を集めている者たちはそこそこいるものの、現在は数が少なく、情報の伝達がスムーズに行えていないという。
そのため、フレアは里から一番近い隠れ家に向かっていた。
まずそこで現地の情報を仕入れるのだ。周囲の情報まで分かれば尚良い。
監査役同士の連結を深めるという目的が、フレアに与えられたのだった。
そうして。
未だ森は抜けていない。目的地は森の中にあるらしいのだ。
その所為か、あまり旅をしているという実感に欠ける。
まぁ、それも些細なことか、とフレアは思い直したが、
ぐ~~~~……、という音に思考を遮られる。
せっかく考えないようにしていたというのに。フレアは舌打ちしてうなだれた。
「腹減った……」
周囲を見渡したところで民家はおろか人のいる気配すらない。木々ばかりが生い茂っている。
「参ったな」
妖精の眼を以てしても民家は見当たらない。
里を出る前に習ったサバイバル訓練が早速役に立つかもしれない。
どんぐりやら野草やらの食べ方は習った、だが……。
フレアにとってその行動には決定的な欠点があった。
「アレ、不味いんだよな……」
選択肢はふたつ。
食べる暇を惜しんで隠れ家を探すか、今のうちに食べれそうなものを探しておくか。
暗くなれば周囲は見えなくなり、食べ物の探索は出来なくなる。
夜の森は光源が全く無く、身動きすら取りようがないからだ。
寝床を確保するためにも、明るいうちに準備を済ませておく必要がある。
だが逆に民家を探すならば、家の明かりが目立つ分、見つけやすいかもしれない。
――どうする?
考えているうちに日は翳り出していた。
「もう、準備は間に合わないだろうな」
フレアは頭を切り替え、歩みを速める。
暗がりの中に、民家の明かりが見えることを信じて。
エイリッド=ハンターは夕食の準備をしていた。
妻は既に病で他界し、息子は仕事を求めて家を出ていた。
エイリッドは家にひとりだった。
寂しくないといえば嘘になる。
だが齢40も越えてしまえば、そういった事情は問題にはならない。
多少の不都合も理屈をこね回して自身を肯定する材料にすればいい。
妻は笑顔で眠りに就いた。息子は月に一度手紙を寄越してくる。
何も間違いなどない。
だからこれでいいのだと。これで幸せなのだと。そう言い聞かせる。
言い聞かせる必要があるということは、心のどこかでそれを疑問に感じているという意味なのだが、エイリッドはそれを考えない。考えようとはしない。
寂しいなどと思うのは心が贅沢だからだ。必要最低限しかない家具を見ながら、エイリッドはそう思う。
そうして視線を手元に移し、ぐつぐつと煮上がっている鍋をなんとなく眺める。
芳しいシチューの匂いが鼻腔をくすぐる。
焦げないよう匙でかき回しつつ、エイリッドが鍋を持ち上げるタイミングを待ちわびていると、遠慮がちに扉が叩かれた。
来客、と思うよりも先にエイリッドは警戒心をあらわにする。
壁に立てかけてあった剣を手に取り、エイリッドは扉へ向かう。
ドアノブに手を掛け、ひとつ息を吐く。
抜き身の剣は最近あまり手入れを行っていなかったにもかかわらず、鈍い光を放っていた。
ぐっと一気にドアノブを回し、ゆっくりと扉を押す。
そして扉の向こうには、若い男が立っていた。
見たこともない顔だ。
ぐったりとうなだれており、男にしては少々長い前髪のお陰で顔色は窺えない。
危険、というよりはむしろ心配、といった印象を抱いてしまう。
「は……、」
男は口を開いた。それは何かを言おうとしているようにも、ただの吐息のようにも聞こえる。
エイリッドは、男の弱々しい口調に耳を傾けた。
「……は、腹、減った……」
男が倒れ込むのと同時に、エイリッドは肩の力が抜けてしまった。
空になった器が乾いた音を立てる。
フレアは満腹になった腹を擦っていた。
その背中に剣はない。
物騒だからと、家に近づく前に草むらに隠しておいたのだった。
腹が膨れたところで、フレアはようやく別件を思い出した。
里から与えられた役割。
この家は監査役にとっての隠れ家、という解釈であっているのだろうか。
そもそもそれすら考えずに食事に勤しんでいたことはそれなりにまずかった気がする。
だが、どう訊いたものだろうか。
『ここは監査拠点のひとつなのか?』 この訊き方は危険だろう。ストレート過ぎる。間違っていた場合、即ちただの人間の民家だった場合、大いに疑問を浮かべられてしまう。
疑われることなく、尚且つそれでいて妖精ならば簡単にそれと分かるような質問をしなければならない。
質問以外の方法であったとしてもいい。確認を取る必要がある。
そうは言ってもなかなか難しい。瞬間的に出てくるものでもない。
そして間違えるのも良くない。
もしここで選択を誤るようでは、もっと大きな集落では隠し通せる筈もない。
ひとつだけ、思いついた質問があった。これだけでは何の決定力もないかもしれないが、それでも違和感は抱かせない質問だった。
フレアは腕を組み直しながら、心を落ち着かせる。
そして不自然にならないよう、一拍置いて言った。
「アンタ、ここでひとりで住んでるのか? 家族はいないのか?」
男は頷いた。
「ああ。今はひとりだ。妻は五年前に他界して、息子も仕事を探しに山を降りた」
「そっか」
フレアはそれに相槌を打つ。そして自然に次の質問を滑り込ませる。
「へぇ、どれぐらいここに住んでいるんだ? こんな辺鄙なところじゃ大変なんじゃないか?」
うまくいった、と思う。
あとは回答を待つだけだ。変なことは訊いていない、筈だ。
「不便かって? そんなことはないよ。君に比べれば、ね」
「……、どういう……?」
意味だろう。フレアはそう言おうとした。
が、男は更に言葉を続けた。
それは、フレアの心臓を止めかねないほどの衝撃的な言葉だった。
「エルフの里は、もっと不便なんだろう?」
フレアは、ドキリとした。相手が『妖精』ならば何の問題もない。
だが、もしも相手が人間であったなら、そう思うと背筋を気持ちの悪い汗が流れた。
恐らく相手は確信を抱いている。
フレアがエルフの里からこの民家にやってきたのだと。
それはそうだ。
いくら山ひとつ以上距離があるとはいえ、およそエルフの里に最も近い『人間』の側の建造物なのだ。
ここに住んでいる『人間』が『妖精』の存在を何らかの形で知覚していたとしてもおかしくはない。
『人間』が訪れる確率よりも、『妖精』が訪れる確率のほうが高いと考えているのかもしれない。
あるいは、こんな立地に家を建てるような人物には『人間』とそうでない者の区別が出来てしまうのだろうか。
もし、そうであった場合。
この情報が広がるだけで、フレアには、そして世界各地に散らばる監査役たちには、より強固に身を隠す必要性が出てくるのではないだろうか。
一瞬の読み違い。たったそれだけのことが、どれだけの仲間を危機に貶めてしまうのだろうか。
フレアは男の質問に答えることができない。
焦りはフレアの思考を停止させてしまっていた。
「ああ、済まない。変に勘繰らないで欲しい。確かに私は『人間』だが、私は『妖精』の敵ではない」
男はフレアを安心させようと微笑んでくる。
しかし、フレアは未だ言葉を発せずにいた。
頭が会話についていっていなかった。
――この男は自分の正体に気付いている。
――フレアが『妖精』であると把握している。
――エルフの里の存在を知っている。
――フレアがエルフの里からやってきたと判っている。
――この男は自分を『人間』だと言っている。
――この男は自分を『妖精』の敵ではないと言っている。
――……敵では、ない?
だったら一体何なのだろう。
思考を巡らそうとしても、頭は鈍ったままだ。
会話の流れにはまるでついていけていない。
「つまり私の妻が、監査役だったんだ」
監査役。
その言葉がきっかけになり、ようやく頭が回ってきた。
「私の妻は『エルフ』、つまり『妖精族』だった。勿論知り合ったばかりのときは気付きようもなかったがね。彼女はとても聡明な女性だった。私は、美しく思慮深く優しかった彼女に恋をした。初めての恋だった。あんな気持ちになったのは初めてだったよ。彼女と過ごした十年間は非常に素晴らしいものだった。生まれてきて良かったと思ったのもあれが初めてだったな。彼女と出会えなければ、私は……。いや、それは別の話になってしまうな。とにかく私の妻は『妖精』だったんだ」
そして、フレアはひとつ思い出した。
「さっき、子供がいるって……。……まさか、」
そう、それはひとつの疑念。
妖精の妻と人間の夫。その間に生まれた子供とは。
「ああ。察しの通りだよ。『ハーフエルフ』ってことになるんだろうね。だから私は他の『人間』と同じようにキミたちを敵視するつもりはない。愛した妻と同じ種族を蔑む理由はどこにもないからね。
……と言ったところで、信じてもらうための証拠は……、何一つないんだけどね」
『ハーフエルフ』。
意味するところはもちろん、『人間』と『妖精』の混血だ。
――そんなの、考えたこともなかった。
確かに生物学的には極めて近いのだから、有り得ないことはないのかもしれない。ただ、全く別の生き物だと思っていただけに、衝撃は大きい。
だが肝心の母親も、子供も、目の前にはいないだけに判断は難しい。
果たして、この男の言葉はどこまで正しいのだろうか。
フレアはそれを考えようとして、結局やめた。
――そんなことはどうでもいい。
考えるまでもない。
これだけ食べさせてくれたのだから。
何より、こんなに美味しい料理を作れる人間を信用しないなんて、そんなことはフレアにはできない。
フレアにはそれだけで充分だった。
だから、フレアは笑みを返す。
「信じるよ。だから話してくれないか、里の外のことを」
妖精戦争が終わり、『人間族』の生活は貧困の極みだったという。
文明の利器に頼りきっていた『人間族』は、明日の食料すらろくに確保できず、数少ない食べ物を奪い合い、子供までもが武器を手にしていたという。
荒れ果てた大地を耕し、安定したまともな生活を送れるようになるまで、世界はひたすらに混沌としていた。
新しい国が興れば、人々は期待を胸に立ち上がり、その国がわずか数年でまた新しい国に取って代われば、貧富の差は逆転し。
激動の時代を幾世代も渡り、緩やかにではあるもののそれでも世界は確実に安定を取り戻していた。それは雨が岩を削るように地道なものであったかもしれない。
その発展の立役者となったのは武器だ。
子供までもが武器を必要とする時代。
武器は、身を護るためには不可欠な存在だった
今や古代文明となりつつある、かつての超文明。その先史時代よりも遥か昔の遺産である銃器の開発がようやく進み、多くの工場で幾つもの武器や兵器が生み出された。
武器の生産・流通を取り仕切ろうと、会社が興り、資産を巡った戦争が起きた。
そうして現在の世界が形作られた。
武器ばかりが発達した世界が出来上がってしまったのだ。
企業は既に国家を超えるほどの発言力を持ち、貧富の差は拡大する一方だという。
平和な土地もあるにはある。
だが、その平和がいつまで保つのかと問われると、誰もが口を閉ざしてしまう。
『外』とはつまり、そんな世界だ。と、エイリッドは語った。
「武器が発達した世界……」
フレアは嘆息するように呟いた。
かつてエルフ=レッドフィールドが危惧した文明。
異常発達した兵器を撲滅するために彼らは剣を取った。
しかしまた、人々は同じ歴史を歩もうとしているのだろうか。
そしてそれを知り、自分は何をすべきなのだろうか。
かつての文明から数世代も時代遅れだと、現代の武器を指してエイリッドはそう語っていた。
その超文明がどれほどの破壊を行えるものなのかは想像もつかないが、現在の兵器だって捨て置くことはできそうにない。
対策を講じようにも、今は何よりも情報が足りなかった。
より多くの情報を得るため、もっと大きな街に出向いてみる必要がありそうだ。と、フレアは判断し、
「ありがとう。参考になった。長居するのもあんまりだし、そろそろ行くよ」
フレアが席を立つと、エイリッドは引き止めるように立ち上がった。
「まだ、何か……?」
遠慮がちにフレアが問うと、エイリッドは躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「気をつけろ。ヴァルトニッ、ク……」
だが、その言葉は最後まで発されなかった。
邪魔をしたのは騒音。いや、むしろ爆発音だ。それは火薬の炸裂するような、危険な香り。
そして、視界は緋に染まった。
花が咲いた。緋い緋い花が。鮮血に彩られた花が。
エイリッドは椅子ごと仰向けに倒れる。
「おい! ……おっさんッ!」
エイリッドは血の滲んだ胸元を押さえるようにして苦しんでいた。
出血量は明らかに重症だった。
フレアは駆け寄り、その傷口を見て、言葉を失う。
――これは……、
助からない。直感的にそう思ってしまうような傷だった。
「……、こ、れは」
エイリッドは血を吹きながら口を開く。
「バカ! 喋るな、死ぬぞッ!」
とっさに放った言葉は少し嘘だった。
喋らなくとも結果は変わらない。フレアはそれを確信していた。
「業、なのだよ。これは」
エイリッドは眼を細めた。
それは走馬灯だった――。
過去の凄惨な生き様を思い返す旅路。
犯してはならない罪。
叶わなかった贖罪。
自らの業が生み出した永遠の牢獄。
そして、始まりの場所――。
掃き溜めのような街の片隅で、ひとりの赤ん坊が産声を上げた。
その子供にはエイリッド=ハンターという名が与えられた。
生きてゆくだけで手一杯となるスラム街では、育児は熾烈を極める。
やがて両親たちは何処かへと消えた。
死んだのかもしれないし、子供を捨てて他所の土地へ移ったのかもしれない。
どちらであろうと差異はない。
エイリッドはひとりだった。
始まりは、ひとりだった。
そして始まりは、不幸だった。どうしようもなく不幸だった。
どうして自分は不幸なのだろうか。
どうして幸せに暮らせる人間がいるのだろうか。
些細な疑問は狭い身体の中で膨らみ、あっという間に全身を侵食する。
――オレはこんなに苦しんでいるのに。
空腹に苛まれる。苦痛が身体を蝕む。
――どうしてお前らは幸せそうな顔をしているんだ。
自分を理解してくれない人間を。
自分を苦しめる人間を。
自分より恵まれた人間を。
いっそ、自分以外の全てを。
牙は誰しもに剥かれ、幾つもの命が散った。
エイリッドは手当たり次第に他人を殺した。
意味なんてなかった。
理由すらもなかった。
存在を許せなかったのだ。
認めることができなかったのだ。
だが、今なら分かる。現在のエイリッドになら。
かつての彼は幸せを知らなかった。
奪ったものの重みを分かっていなかった。
だから容易く奪えた。どんなものでも。
そうやって生きてきた。
そうやって生きていくのだと思っていた。
彼女に逢うまでは。
エイリッドはその日初めて他人に興味を持った。
人の温もりを知った。
恋を知った。
愛を知った。
人と関わることの難しさを知った。
人に優しくすることの快さを知った。
人と関われることの喜びを知った。
全てが初めての体験で、エイリッドは初めて生きている実感を得た。
そして思い知ったのだ。
自分が奪ってきたものの大きさを。
恋人となった彼女を連れ、人里を離れたことは、ひとえにそれが原因だった。
以降、エイリッドは人との関わりを避けるようになる。
それはただ単純に、居た堪れなかったからだ。
自分の犯した罪の重さに耐えられなかったからだ。
彼女に許しを乞い、泣きついた夜は忘れようにも忘れられない。
彼女がエルフの身であることを明かしてくれたのもその日だった。
思えば、エイリッドが人の心を初めて宿したのは彼女に逢ってからだった。
彼女はエイリッドの全てだった。
彼女が自分を認めてくれたから、自分はここにいる。
彼女が自分を赦してくれたから、今の自分がある。
彼女が病に臥したとき、彼女はそっと微笑んで言った。
「……そんな寂しい顔をしないで」
出逢った時と同じ言葉で。
出逢った時と同じ表情で。
――私は、
――……、私は…………、――
「セ、レー……ナ……――」
エイリッドは腕を伸ばした。
腕は虚空を掴むばかりだが、エイリッドはそこに確かに何かを見ていた。
数度掴んでは開いていた腕を、しかし糸が切れたようにコトリと落とす。
……そして二度と動くことはなかった。
フレアはその光景を凝視していた。
網膜に焼き付けるかのように。
その光景を見つめる瞳は惨状の緋色に塗り潰されていた。
燃え上がるような暴風が、フレアの瞳には宿っていた。
黒い外套をなびかせた男は、ホルスターに拳銃を納める。
宵闇に紛れるように、足音はしない。
物音はほとんどない。風に揺られた木々の囁きだけだ。
そこに足音がひとつ。
舞台を邪魔する無粋者を見るような眼で、黒の外套の男は振り返る。
その先にはフレアがいた。
男は興味もなさそうにその顔を眺める。
「……ああ。さっき、あそこにいたガキか。何の用だ?」
男は面倒そうに腕を組んで顎をしゃくる。
促され、フレアは激情を抑えきれない。
「……どうして、…………どうしてッ、おっさんを殺したんだッ!」
憤るフレアの言にも、黒衣の男は態度を変えない。
そして、当然のことのように言う。
「賞金首だからだ」
一瞬、時間が止まった。
賞金首とは何なのか。フレアの思考はまたも停止する。
「指名手配、エイリッド=ハンター。賞金額は五千万ルース。都市部に一戸建てが買える値段だ。罪状は民間人の連続殺傷及び公務執行妨害、他にも器物損壊などなど……。殺される理由ならともかく、殺されない理由のほうがオレには思いつかないな」
何かの間違いだ。フレアはそう思う。
エイリッドが悪人などとどうして思おうか。
悪人があんな暖かい笑顔をくれるものか。
悪人があんな温かい料理を作れるものか。
エイリッドはフレアが初めて会った人間だ。
信頼に足る人間だった。
優しい人だった。
悪人である筈などない。
そんな訳がない。
なのに、
とある言葉が突き刺さる。
『業』なのだ、と。
エイリッドは確かにそう言った。
それは、これがこの結末が当然の帰結であるという意味だ。
つまり、それだけの悪事を働いてきた、ということなのだろうか。
詳しく聞こうにも本人はもう動かない。
確かめようがない。
もう、彼はいないのだから。
「たとえアンタに正当な理由があろうと、そんなことはどうでもいい。どうだっていい。
ただ、オレは、赦せない。お前を赦せないッ……!」
フレアは剣を抜いた。
身の丈ほどの大きな剣だ。
ズシリと重い剣はフレアにほのかな圧力と、緊張感を与える。
それは見た目通りの重さのほかに、精神的な重さが加わっているからだ。
監査役としての役割。妖精族としての役割。王家当主としての役割。
その重みはフレアに圧し掛かるときもあれば、逆に支えてくれるときもある。
今は後者だ。
重みが心地よい。
気持ちの昂ぶりがそのまま力に変換されてゆくように、フレアの身体を気が満たしてゆく。
フレアは剣を大上段に構える。
王家当主の証、『運命の剣』の柄に埋め込まれた珠玉が緋色の輝きを放つ。
それを見て、男は呟くように言う。
「お前、気功術師か。……もしオレが術師に対して何の策も用意してないと思っているのなら、まずはその勘違いから否定してやんなきゃならねェな」
そして男はホルスターから拳銃を抜く。
黒い銃身が月明かりに照らされる。
「拳銃か……」
フレアは重心を落とし、警戒した。
だが、知っている。
ただの拳銃では、生まれつき気功術を扱える妖精に、大したダメージを与えられない。
気を用いた防御力は、拳銃の持つ殺傷力を殺し、衝撃を緩和させる。
出血もしないくらいに。
相手はそれを知っている筈だ。
気功術師と相対したことがあるのだろう。
それに対する対抗策があるように見せているが、それは一体何なのだろうか。
見たところ、男が構えているのは普通の拳銃のようだ(もっとも、フレアは拳銃を見るのが初めてなので普通の拳銃とそうでない拳銃の違いなど全然判らないのだが)。
警戒はする。
だが、これはチャンスでもある。
相手が策を弄しているのなら、その策を破れれば必ず隙ができる。
その隙は相手にとっての致命傷となりうる筈だ。
しかし、もしその策が予想を上回るものであれば、敗北は必至。
この瞬間での攻勢、というのはある種の賭けになる。
フレアは緊張で喉が渇いているのを感じた。
――危険を避けることも大事だ。だが、それ以上に……。
フレアは跳躍する。
――危険を冒さなければ勝てない。
――そして、危険を乗り越えていかなければ、成長はできない。
だから、フレアは疾る。
大剣を振り下ろす。敵の脳天を目指して。
必殺の一撃を。振り下ろす。
筈だった。
剣は男の目前に突き刺さる。
攻撃は届かなかった。
相手は動いていない。かわされてはいない。
動いていたのはフレアだった。
正確には『押されていた』だ。
フレアの身体は痺れていた。
一瞬のことで、事態の認識がスムーズにいかない。
どろりと水気を感じた。
フレアは剣から左手を放し、胸を弄る。
左手は緋色に染まった。血だ。
――何が起きた?
――判らない。
だが、現状は更に悪くなるばかりだった。
男は拳銃を構えていた。
――撃たれた?
実感はない。だが、銃口から上がる煙は確かに発砲の名残を表していた。
突然のことにフレアの頭は回転を拒んでいた。
だから、当たり前のことであるのにフレアはそれを予測することができなかった。
いや、予測できたとしても、それに反応することはできなかっただろう。
『拳銃の装弾数は7~15発程度。一発撃たれたくらいで、努々油断などしないことだ』。
それは、エルフの里を出る際に聞いた、忠告の言葉のひとつ。
そして――。
銃声が6発。続けざまに鳴り響く。
悲鳴のような声を上げ、鳥たちが空へ舞った。
拳銃の口径はそのまま弾の大きさを表している。
そして、弾が大きければ大きいほどに威力は高まる。
とはいえ、そう単純に済む話でもない。
大きい弾になればその分、質量が増え推進力は伝わりにくくなり、空気抵抗も増し破壊力は削がれる。
想定通りの高い威力を発揮するため、使う火薬の量を増やす。
すると今度は反動も大きくなり、発する熱やガスなどの危険も大きくなる。
それらの問題を解決し、実用化に漕ぎつけた物が男の右腕に持たれた黒い銃身の拳銃だ。
名を、ヴァルトニック:H22、通称という。
普通の拳銃と比べ、弾薬の値段も高く手入れも面倒なのだが、気功術師の防御すら打ち破り攻撃できるというメリットを考えれば、むしろ得のほうが大きい。
敗北は死を意味する実践では、費用も手間も惜しむ意味はない。死ねばそれで全てが終わってしまうのだから。
そう、目の前で横たわる、この黒髪の男のように。
「たとえ気功術が使えようと、油断すれば死ぬ。それだけのことだ」
男は外套を翻し、踵を返す。
後は近くで待機させていた、派遣員を呼べば終わりだ。
懸賞金を得るためには、死体を持っていくか、生け捕りにするか、証明できる人間を死体の元へ連れて行くかしかない。
今回の標的は森深くに住んでいたため、死体を持ち運ぶことも困難、連れて行くことも難しいだろうと判断した。
そのため、派遣員を手配した。
派遣員とは死体を確認し、懸賞金手続きを進めてくれる存在だ。
直接死体を運ぶなど、そうそう出来るものではないし、生け捕りも逃げ出す可能性や移動の手間などを考えるとやはり多用できるものでもない。
消去法的に派遣員に頼ることが多い。
彼らに頼らずに懸賞金を得る方法など、街で起きた現行犯くらいのものだろう(手配されていなくても現行犯なら報奨金が出る)。
しかし、派遣員は戦闘員ではない。巻き込めば慰謝料や怪我をさせれば治療費なども請求されてしまう。
便利ではあるが、少し面倒なシステムでもある。
――もっと簡単に自分が殺したってことを証明できるようなシステムがあればな……
考えても結果は変わらない。
派遣員を呼ばなければ、懸賞金はもらえない。
男は面倒そうに舌打ちをすると、草むらに入り込んでゆく。
倒れた黒髪の男が這い上がりつつあることなど、外套を纏った男は気付いてもいなかった。
『助けたい』。
それはささやかな希望。
『守りたい』。
それはささやかな願望。
誰もが願う当たり前のもの。
誰にも叶えることのできない不可能な夢。
人は死ぬものだ。
当たり前だ。死なない人間などいない。『妖精』だって然りだ。
だが、願う。誰もが切望する。
救いたいと懇願する。
そして思い知るのだ。
死なない人間など存在しないのだと、現実を叩きつけられる。
ああすれば死ななかったのではないか。
こうすれば守れたのではないか。
自身に問い掛ける。追い詰めるように。畳み掛けるように。
分かっている。そんなことは分かっている。
過去は変わらない。現実は変わらない。事実はいつも目前にある。
心に突き刺さる。深く深く突き刺さる。
想いは激情となり、その奔流は溢れ出し、身体中を巡ってゆく。
『気』が、フレアの身体を覆う。
『気』とは、生命エネルギーであるという。
生きとし生ける全てのものが身に纏うエネルギー。
それが『気』。それが生命エネルギー。
基本的な生命活動のエネルギー源であるらしいその流れは、肉体を強化し、その他のエネルギーに変換され、消費される。
今、フレアの身体では生命活動が強化されている。
流れた血液を補うため、生命エネルギーを運動エネルギーに変換し、強引に身体を動かす。
また、出血を抑えるため、傷の周辺の細胞を活性化させ、止血を行う。
戦闘中でなければ、止血だけでなく治癒まで行いたいのだが、時間がそれを許してくれない。
あの男を倒さなければ。
フレアはふらつく足で立ち上がる。
貧血を起こしているのか、視界が回る。
だが足は止めない。
あの男を倒す。そう決めたのだ。
理由などない。意味すらありはしない。
倒したところでエイリッドは生き返らないし、誰かを守れる訳でもない。
広い意味で考えれば、彼を倒すことで彼が今後殺すであろう賞金首たちを守れるという意味もあるだろうが、フレアの頭はそんなところまで回っていない。
――いや、正直どうでもいいのかもしれない。
全ての人間を守りたいだとか、妖精と人間が安心して暮らせる世界を作りたいだとか、そんな夢物語には興味もない。
だが、自分が大事だと思った人間を守りたい。それだけだった。
守れなかったなら、奪った相手に同じだけの痛みを。
そんな醜い感情がフレアを動かしていた。
この行動に意味はない。この行動に意義はない。
――それでもオレは……、
フレアは剣を握り直す。
柄を強く、握る。
目前にあの男の後姿が、迫る。
男は、フレアに気付いた。先程の拳銃が嘶く。
雷光のような瞬き。鋭く腹を抉られる感触。頬を歪ませる外套の男。
しかしフレアは退かない。押されない。
拳銃が再び弾ける。再び弾が腹を貫く。
それでもフレアは止まらない。むしろ一層踏み込みを強くする。
外套の男は顔を引きつらせる。距離は縮まる一方だ。
やがて剣が、身の丈ほどの大剣が、そびえるように男の視界を飲み込む。
高く高く振り上げた剣が、一気に叩き落とされる。
緋く緋く燃えていた。
フレアの心は燃えていた。
燃え上がるような激情は、しばらくフレアの心から離れなかった。
激情に焼かれ、暴風に巻かれ。
朝はまだ、訪れそうになかった。
闇空に風が舞った。
◆タイトル
緋き暴風の炎龍というサブタイトルだったときの名残です。
現在は縮めて緋き炎龍です。次書き直すときが来たらもっと縮むかと。
◆エイリッドさんのお話
ザ・ダンディ&ナイスミドルなエイリッドさん。
イメージは世捨て人。
そこまで強い人ではなく、ちょっと名の知れた剣豪、というくらい。
◆旅立った息子
今はどこにいるんでしょうかねぇ……
◆激情
このあたりは伏線も兼ねているような……、勢いだけのような……
◆賞金稼ぎ
こんな事件に遭遇したあとに賞金稼ぎの真似事を始めることになるフレアさんですが、その思惑やいかに。
それにしてもこういう冒険物のお話ってどうやってお金稼ぐんでしょうかね。賞金稼ぎとか用心棒とかゲームに出てくるようなギルドクエストくらいしか思いつきません。商人とかもありか。あるいは初めから超お金持ちで資産が有り余ってるとか。
ここで出てくるシステムまわりもなんとなくで書いてますが、きちんと成り立つんでしょうかね。ちょっと疑問。
まぁそこらへんのリアリティを追求しすぎてもつまらなくなっちゃったりするんで、難しいですね。