第一章《エルフの里 -"REDFIEELD"-》
『妖精』の人生は森から始まり、森で終わる。
『妖精』は生涯、森の外には出ずにその一生を終える。
『妖精』は千年近く生きる種族だ。つまり、全ての『妖精』は、その千年間森の中から一歩も出ることなくその一生を終えていることになる。
――千年間もずっと『森の中』で暮らしていくだなんて。それは、なんてつまらない、なんて退屈な生き様なんだろう。
正面でのたうつ大樹の根に、男はなんとなく視線を送っていた。
『妖精族』の青年である彼の名は、フレア=レッドフィールド。男にしてはやや長めの黒髪を風に揺らし、彼はただ立ち尽くしていた。
彼の年齢は今年で150歳。生まれてから150年経てば、人間だったらとうに墓の下にいることだろうが、『妖精』としてのその年齢は、まだ若い年齢に該当する。周りと比べるとやんちゃなお年頃とさえ言われるほどだ。
そんなフレアには、他の『妖精』とは大きく異なる特徴があった。
まず、一般的な『妖精』は絶対と言っていい程怒ることがない。だが、フレアはあまり気が長いほうではない。店でラーメンを注文して30分待っても出て来ない場合、いつまでも待ち続けるのが『妖精』。キレるのがフレアだ。そもそもほとんど食事を必要としないのが『妖精』。一日五食、一食あたり五人前は軽く平らげるのがフレアだ。
他にも些細な違いは数多く存在するが、一番大きな違いは外界に対する好奇心だろう。
フレアは里を出たいと思っている。だが、一般的な『妖精族』は里を出ようとはしない。フレアにとってはそれが一番理解できない。
森以外の風景を見たいとは思わないのか。いろんな場所を自由気ままに巡ってみたいとは思わないのか。退屈だとか、窮屈だとか、つまんねェからどっか遊び行こうぜとか、思わないのだろうか。
フレアはつくづくそんな考えに支配される。
フレアは幼い頃、十代か二十代の頃、里長に相談したこともある。
そのとき、長はこう言った。
かつての英雄、エルフ=レッドフィールドも激しい気性の持ち主であったという。
まるで人間のように笑い、怒り、泣き、苦しみ、生きていたのだと。『妖精』としてはまるで異端児あったという彼だからこそ、『妖精』は反旗を翻し、人間と戦ったのだと。
だからその末裔であるフレアが『妖精』らしくない心を持ち合わせていようとも、それは気にする必要のないものだ。己の信じるままに生きてゆくのだと、そう教えられた。
それからのフレアは真っ直ぐに、迷うことなく生きてこられたように思う。
しかし今、再び迷いが生じている。
里を出たい。その思いは日に日に強くなっていくばかりだった。
『里を出てはならない』。その掟が今、フレアの胸に突き刺さっていた。
妖精の寿命はおよそ千年。
故に一万年前の争いの記憶を継承する者はこの里にもいない。伝承として伝え聞くだけの知識しか存在しない。
その『知識』は、人との関わりを断つべきだと語った。そうしなければ、またかつての戦乱を繰り返す結果になる、と。
人との接触を断つには、人の近づかないような場所に隠れ住むしかなかった。どちらかが死に絶えるということ以外に、『人間族』と『妖精族』の争いを止める方法はそれしかなかった。
そうして、妖精は深い森の最奥で、ささやかな生活を送っている。
だが、それはまるで『犠牲者』だ。フレアはそう思う。
『争いの犠牲者』と言えば、それはこの世界全てだろう。『人間』は便利な機械文明を失い、『妖精』は自由に暮らす権利を失った。
争いが終わって一万年。『人間』は文明を新たに築きだしているのだろうが、『妖精』には未だ自由はない。森の最奥に幽閉されたままだ。
『妖精』だけが未だに過去を引き摺っている。
そんなものは不公平だ。
不自由を苦痛と感じないのであれば、それは自由と呼べるものなのかもしれない。多くの妖精は森の生活に満足している。
だが、満足できないのであればそれは、牢獄と同じだ。
フレアと他の妖精との生活は何も変わらない。フレアは他の妖精と同じように生活している。食べるものも着るものも住むところもある。困るようなことは何一つない。他の妖精はそんな生活を『幸福』であると言う。だがフレアはそうは思えない。
これは『不幸』だ。フレアにとってはそうでしかない。外に広い世界があるにもかかわらず、狭い森の中で千年の寿命を終える。そんなものは一切許容することはできない。
だがそれでいいのだろうか、ともフレアは自身に思う。狭い里の中でもそこにはそれぞれに役割が存在する。確かにひとつの社会が存在しているのだ。外へ出るということは、その役割を放り出すということに他ならない。責任を放棄し、誰かに押し付け、逃げ出すことに他ならない。
仮にそれをしたとしても、誰もフレアを責めたりはしないだろう。『妖精』とはそういう生き物だ。その程度のことで腹を立てる者などいない。
だが、フレアはそれを嫌だと思う。怒られなくとも迷惑は掛ける。それに、自分の役割を押し付けるということに何も感じないような腑抜けに生まれたつもりもない。
結果。
フレアは沈み込む。一人で思い悩む。思索に耽る。
「……自分の弱さを、斬り捨てられたなら――」
どんなに楽だろうか。
言って、フレアは既視感を抱いた。
――前にも、あった気がするな、こんなこと。いつだったろう、こんな感じを……
頭の中に描かれていた虚像。それは確かに既視感のある形だった。
より確かな感触を求めて腕を伸ばす。が、あと僅かといったところで虚像は霧散してしまう。
フレアはその日、釈然としない思いで一日を過ごした。
――
片手剣が鞘に納まる。納刀時の金属音がささやかに響く。
少女は凛とした佇まいでそこにいた。
見た目17歳くらいの黒髪の少女だった。ポニーテールに結わった髪が放たれた技の余韻に揺れていた。
少女の周りには土煙が舞っている。放たれた一撃に大地は砕かれ、巨木が大きな音を立てて倒れてゆく。
「もう終わり? 準備運動にもならないんだけど」
少女は呆れたように言う。しかし視線はそうは言っていない。
視線の先には黒髪の青年、フレアが蹲っていた。
起き上がろうとする彼に、少女は手を貸そうとはしない。
立ち上がるのを分かっているかのように、少女は期待の色が込められた瞳でただ、その光景を見つめていた。
フレアは痺れた身体をじわりじわりと持ち上げる。
「ったく、少しは年上を立てるとかして欲しいんだけどな」
限界点に近いのだろう。お世辞にも元気とは言えそうにないダメージがあった。
――気を抜いたら倒れちまうだろうな、これ。
だがそれでも、剣を強く握り締める。
――戦うと決めたら剣を振るう。斬ると決めたら叩っ斬る。勝つと決めたら、絶対に倒すッ!
フレアは右手に握られた身の丈程の大剣を水平に構える。切っ先は目の前の少女に向ける。刺突の構えだ。
戦法などない。ただ、突っ込むだけだ。それこそがフレアの得意とする戦い方だった。
渾身の力を込めて、全身全霊の一撃を振るう。
フレアにはそれしかない。この戦い方しか知らない。
愚直なまでに全力な一撃。
少女はそれを見て、くすりと笑う。
「台詞の割には乗り気じゃん。いいよ。……、来なッ!」
少女は自然体で構えたままだ。
だが、それが彼女のスタイルでもある。
彼女の戦術はいつも変わらない。全ての攻撃をかわし、同時に神速の一撃を浴びせ、相手を沈める。それだけだ。
何者にも捉われない、まさしく神風そのままの速さで駆け抜ける。『緋き静寂の剣姫』の二つ名は伊達じゃない。
彼女は全てを切り裂く。
勝てる筈がない。
勝てる訳がない。
彼女は里一番の剣の使い手。剣を習って数十年であっさりとフレアを追い抜いた神童。
自分とは違う存在。異質の存在。別世界の存在。
……、ではない。
そんなものは逃避だ。理屈を捻った逃げ道に過ぎない。
負けた自分を慰める体のいい言い訳だ。
逃げることは嫌いだ。
いや、違う。
逃げる自分が嫌いなんだ。
そんな弱さを、フレアは、
断ち切る。その為に剣を握る。剣を振るう。
――それがオレの戦う理由。
駆ける足に力を込める。
風を感じる。
交差地点はすぐにやってくる。
衝撃は暴風となる。
荒れ狂う暴風がふたりを包む。
――
……そうだった。
そうだったのだ。
痺れて動かない身体を地面に預けたまま、フレアは唇の端を吊り上げる。
『弱い自分を斬り捨てる』
それがフレアの戦う理由だった。
今までの人生、150年のほとんどをそれに費やしてきた。
それだけが生きている意味だった。
走り続けるうちにゴール地点を見失っていたようだ。
妖精の持つ長い寿命の欠点とも言える。
大切な記憶も膨大な過去の記憶の中に堆積していく。
長い寿命もいいことばかりではない。
こういった欠点も存在するという訳だ。
「……そうだな」
「なに一人でにやにやしてんの? キモイよ」
視線を向けると、そこには幼馴染の顔があった。
従兄妹にして好敵手、幼馴染にして目の上のたんこぶ、親友にして悪友。里一番の剣士にして里一番の美少女(と言っても外見上、及び妖精族的年齢換算からしての話だが)。
クレア=バーミリオン。フレアと名前が似ているのは名付け親が一緒だからだ。
――全く、紛らわしいことこの上ない。セカンドネームが違うことがせめてもの気休めか。
クレアが手を差し出していた。フレアはその手をためらいなく取った。白く細い指先はまるで少女のそれなのに。彼女の強さは人を越えた存在である妖精族の中でも更に抜きん出ていた。恐れやら憧れやら親しみやら色々な感情が入り乱れて、フレアは彼女を形容する言葉が思いつかない。
敢えて言うならば。
『大切なひと』とでも言ったところか。
フレアはその手を強く握った。
大切なその手を、強く。
「……、ね、ねぇ。」
クレアが遠慮がちに口を開く。耳に馴染んだその声が優しく身体に響いてくる。
「……? どうした?」
クレアは少しそわそわした様子で辺りをきょろきょろと見渡す。クレアの技量なら周囲に誰もいないことくらい、フレアよりも正確に認識できる筈なのに。
「手、握り過ぎじゃない……?」
「? ……そうか」
離したら離したで、クレアはまたそわそわと腕を動かす。
気のせいか、彼女の顔が紅潮しているようにも見える。
いや、恐らくは夕陽の所為だろう。気が付けば日は随分と傾いているようだ。
「……まだ、…………ちょっとくらい……のに」
「うん? なんか言ったか?」
いつもの覇気のある口調とは一転、ぼそぼそと喋る彼女の口調は逆さにした本を読むくらい難しい。
幼馴染にだけ見せる隠された一面というやつなのだろう、とフレアはいつも通りに解釈する。
「そろそろ時間か」
フレアが立ち去ろうとすると、彼女は何か物足りなそうな顔をしていた。
「悪いな。俺じゃあもう、アンタの相手には物足りないかな」
言うと、クレアはいきり立って叫んだ。
「そんなことないッ! 物足りなくなんてないよッ! むしろ……」
今はその言葉が素直に嬉しい。
それでも……、
実力が遥かに及ばないのは事実だ。
強くなりたい。その思いはもしかしたら以前よりずっと強くなっているのかもしれない。しかし、抗えない。フレアとクレアの間には大きな隔絶が存在していた。
名前は似ていても、二人の違いはあまりに大きい。
性別も、待遇も、立場も、立ち位置も、境遇も。
そして何よりも大きな隔たりがひとつある。
それは、二人が決定的に別次元な存在なのだと告げる壁だ。
国境よりも、種族の差よりも、はっきりと二人を分かつ壁だ。
その壁の名を、人は才能と名付けた。
決して越えることのできない壁だ。
『人間』と『妖精』の間にあった断絶と同じようなものが、もしくはそれ以上のものが、そこにはあった。
あるいは同じなのかもしれない。
人が妖精に抱く気持ちと、フレアが彼女に抱いている気持ちは。
それはとても危ういバランスで成り立っていて、一方が僅かに傾くだけで共に瓦解しかねないようなものなのかもしれない。
なのに、彼女はそれでも自分を必要としてくれている。
その気持ちが、フレアには嬉しい。
「ありがとう。けど、そろそろ時間だ」
そうして、フレアは彼女から距離を取る。
感謝の気持ちが妬みに変わる前に、彼女の前から立ち去る。
大切なひとを自分から護る為、フレアは自身の気持ちを裏切る。
全ては、この気持ちを穢さない為に。
たったそれだけの利己的な思いの為に。
一人残されたクレアは彼の立ち去った道の向こうをただひたすらに見つめていた。『妖精族』としての視力を以てしても彼の姿はとうに見えないだろう。
それでもクレアは眼を離せなかった。
最近、フレアがよそよそしい気がするからだ。その理由は、クレアには思いつかない。
――私の気持ちに気付いているから?
自問しつつもそれはすぐに否定する。
――ううん、そんな訳ないよね。
気持ちが伝わらないよう、厳重な警戒態勢を敷いているのだから。だからそれは絶対にない。
ならば何なのか。答えは分からない。
ただ、時折、何か思い詰めた様子でいるのを数回見ている。
悩んでいるのなら相談してくれればいいのに。
――そうすれば、もっと一緒に……
――……って違う違う!
クレアは頭に浮かんだ陳腐な妄想を打ち消すように頭を振る。
ふと、クレアは空を見上げる。太陽を遮る何かが影を落としていたからだ。
空には積乱雲がひとつ。
クレアの心は不安に埋め尽くされようとしていた。
あの、どっぷりと日の光を飲み込む黒い雲は、やはりこの森に雨をもたらすのだろうか。
そんなことを考えながら、クレアは一人、立ち尽くしていた。
――
そこには広場があった。
季節の変わり目には祭りが開かれ、月初めには集会が開かれ、不幸があったときにはささやかに葬式が催されたりもする。
妖精たちが集う集落である『エルフの里』において、祭儀場としての役割を持った広場だ。
周囲には木々が生えておらず、地面にはびっしりと石が埋められている。お陰で大きな草は育ちにくく、わずかばかりの手入れで住民が集まりやすい空間が用意できるという訳だ。
その円形の広場の最奥には家が一軒建っている。
この広場が里の中央に位置している関係上、この家は里の中心点に極めて近い場所にある。
里の中心には取り纏める者が必要という考えはきっと何処にでもあるものだろう。エルフの里もその例に漏れず、よってそこには、里の長が住むことになっていた。
その里長邸には入り口に扉などなく、簾のようなものが掛かっているだけだ。
その前に、フレアは立っていた。
その簾を沈痛な面持ちで凝視していた。
「いい予感は、全くしないんだよな……」
フレアは自らの気持ちをそっと吐き出してみた。
勿論気分はよくなったりはしない。案じる声も周りにはない。
声どころか姿すらない。
フレアは一人だった。
それは当然のことだった。
あらかじめ、長より人払いがなされているからだ。
諍いを逃れようとする性質上、『妖精』は約束をまず破りはしない。
だからここには呼ばれたフレアしかいないのだ。
もし例外を上げるとするなら……、
フレアは一人の人物の顔を想像した。
禿げた額。穢れを知らぬ真っ白な髪。顔色を窺わせぬ深く刻まれた皺。全身より垂れ流した裂帛の気。暗闇の中にいても尚、光を放ちすらしていそうな威厳、オーラ。そんなものが瞬時に思い出せる。
フレアの頬を冷や汗が垂れる。
思い出した人物は、フレアを呼び付けた張本人である里長、クォラル=バーガンディーその人だ。
フレアは正直に思った。
怖い。
そう、あの長老は怖いのだ。
一挙手一投足を注視せずにはいられないくらいに。
一瞬の油断で自分の首を落とされてしまうのではないかと思ってしまうくらいに。
迫力と、圧力とを放っていた。
フレアは閉じていた眼を開けた。
背中は、汗で服が濡れ始めていた。
まだ気配は感じない。この一枚の簾の向こうには長が、齢700近い長老がいる筈だ。
その気配は感じられなくとも、確かにそこにいる。
それは間違いがない。
だからフレアは尚のこと怖かった。
一体長老は何故気配を断つのか。その意味が分からない。
それが怖い。
長老はフレアにとって、ただ恐ろしい人物だった。
本当にそれだけの感情しか持たないのだろうか。
いや、きっとそうではない。
それ以外の感情、畏怖の他にも、何かはあるのだろう。だが、とりわけ恐怖の念が強すぎて、もはや判断はつかない。
――行くしか、ないよな……
フレアは簾に手を掛ける。
――待てよ、他にまだすべきことは……
手を止める為か、次々と要らぬ考えが思い浮かぶ。
――そうだ、入る前に深呼吸でも……
フレアが手を引っ込めようとしたまさにそのときに、それは『来た』。
それは、風もないのに身体は後ずさり、押されてないのに目の前から圧迫感を感じるような、強烈なプレッシャーだ。
やはりそうだ。
いた。
「よく来たのぅ、フレア」
低く老いた声は、それでいてはっきりと言葉を接ぐ。
――ああ、やっぱり怖い。
「入れ」
声は入室をご所望のようだった。
しかしフレアは動かない。
いや、動けない。
汗だ。
汗がダラダラと額を滑り落ちた。
季節はまだ春だというのに。
運動したときとは違う、気持ちの悪い汗が身体を流れてゆく。
「どうした? 『入れ』」
声は口調を強めた。
その脅迫的な声に導かれるまま、フレアは簾を捲り、中に入る。
猛獣の住む洞窟に入るより、フレアは余程怖かった。
しかし声には逆らえない。
声にはそれだけの威厳らしきものがあった。そして、強制力があった。
逆らえなどしなかった。
逆光の所為か、中は存外に暗かった。足元を確かめつつ、一歩ずつ足を踏み出す。
そして、何かに蹴躓くこともなくそこに辿り着いた。
暗闇に慣れてきた眼が囲炉裏を見つけた。
フレアは正面にある座布団に腰掛ける。
恐怖に打ちひしがれながらも、ある程度は淀みなくその動作を終わらせる。
150年の内、こうして呼ばれた回数など一度や二度ではないのだから、ある程度の勝手は掴める。
ただ、彼の放つ空気や雰囲気だけが、フレアには馴染めなかった。
緊迫した空気の中、フレアは佇まいを直す。
勿論もう逃げ場などない。
ここまで来るとフレアの中で何らかの境界線を跨いでしまうのか、開き直ってしまう。
フレアは堂々と口を開く。
「お呼びですか、長」
対するように腰掛けていた長は、表情を変えない。
ただ口だけを動かす。
「ふむ」
長老は顎髭をさすり、重そうに言葉を紡ぐ。
「先月より、ヌシは齢150を数えたそうじゃな」
飛び出したのはなんてことのない話だった。
――拍子抜け……、いや、これはまだ前提に過ぎないということか。
そんなフレアの予想は正しかった。
「レッドフィールド家長子フレア。次期里長候補でもあるヌシには知ってもらわねばならぬことがある」
レッドフィールド家。
かつての王家の血筋であるその名は妖精族の者にとって特別な意味を持っている。
それは統べる者。意思を持つ者という意味だ。
妖精は基本的に協調性が高く自意識が低い。
己を省みない連中ばかりなのだ。
妖精戦争初期、虐殺されながらも反撃はおろか、逃げることすらほとんどせずに、多くの妖精が無抵抗に殺されたくらいに。
生存欲が低く、繁殖力も弱い。
そのかわりに、人よりも丈夫な身体を持ち、精神的にもゆとりがある。
そんな彼らにとって指導者というものは、人間族にとってのそれとは比べ物にならないほどの大きな意味を持つ。
それは自らの命すら取捨選択する存在だということ。
人間においてもときにはそうかもしれない。
だが、妖精にとってはその重みは違う。別次元と言ってもいい。
人間の場合、例えどんなに優れた指導者がいたとしても100%の人間が従うことはない。
必ずそれに逆らう人間が少なからず現れる筈だ。
またそんな指導者に『死ね』と言われてやすやすと死んでやれる人間は尚のこと少ないだろう。
妖精はそれを容易く行える。
自分の命よりも世界や集団を意識して生きているからだ。
それは、自分の命に興味がないから、ではない。
絶対的に指導者を信じることが出来るからだ。
妖精族の王に与えられる責任とはそういうものなのだ。
今でこそ国という集団は崩壊し、里という小さな集合体でしかなくなってしまったけれども、指導者に与えられた責任の重さは変わらない。
レッドフィールドという名にはそういった意味がある。
その責任の下、齢150を迎えたフレアに伝えることがある。
長老はそう言った。
自然、フレアの顔は固くなる。
「里と外とは断絶されている。それをヌシは知っておるな?」
「ええ、勿論知ってます」
何を言っているのだろうか。
里の外へ出たい。秘めたる思いを抱くフレアからすると、少し緊張のする話題ではある。
まだ誰にも打ち明けていないだけに既に察しているとは考えたくないが、相手が長老ともなると安易に否定はできない。
フレアは次の言葉を待つ。
「……、そんなことが有り得ると思うか?」
一瞬、フレアは呆然としていた。
意味が分からない。
フレアは瞬きすら忘れて長老のほとんど閉じられた眼を見つめていた。
「分からんか。ならばもう少し整理するとしよう。良いか、妖精は人間の造り出した兵器を恐れ、その文明を破壊した。復元不可能になるくらいにな。
妖精族にとって、人間の文明とは危惧の対象なのだ」
「ああ、そうだ」
フレアはつい敬語を忘れて聞き入ってしまう。
「そんな危惧の対象を一万年も放置すると思うのか? 一度破壊してしまえばそれでもう終わる問題だと思うのか?」
言われてみれば確かにそうだ。『らしくない』。
文明は失われても再興する可能性は充分にある。同じ生命体なのだからそう遠くない未来、同じ選択をするということも充分に考えられる。
悪い言い方をすれば、破壊とは劇薬だ。
殺菌の為の劇薬なのだ。
しかし治療はそれだけで終わる筈がない。
定期的に抗生物質を摂取し、再発を防ぐ必要がある。
文明の破壊。それだけでは、再発を防ぐという役割が足りないのだ。
今更ながら大きな疑問点と言える。
――いや、もしかしたら、これは……、
「もう分かっただろう? ようく考えれば子供でも分かる問題だ」
そうなのだ。これはつまり、
「隔絶なんかされていない。妖精は人間側の情報を仕入れている……」
妖精は人間を監視していた。
文明が再び異常発展しないように。
世界を滅ぼさないように。
かつての悲劇を繰り返さないように。
――……そうだったのか。
考えてみれば当たり前だ。
いくら自給自足の生活とはいえ、外界と全く関わらずに暮らしていくのは余りに厳しい。
大きな接点などなかっただろうが、僅かな接点くらいならたくさんあった筈だ。
食器一つとっても、すべて手作りでは全員分は間に合わない可能性もあるだろう。鉄造りのものなんかは特にそうだろう。百人程度の集落では安定した供給などできる筈もない。
外で大量生産した物を持ち帰ってきたりしていたのだろう。
つまりはそういうことだったのだ。
「『監査役』、ワシらはそう呼んどる。兵器にも立ち向かえるくらいの力量を持つ者、有事の際には戦力になり得る者、人間族の中に溶け込みやすい者。
もう少し纏めるならば、戦力等外面的素養があること。性格等内面的素養があること。齢150を数えること。ワシの許可を取ること。
条件はそんなところかの。
フレアよ、何か言いたいことはあるか?」
フレアは思わず吹き出してしまう。
――なんだ、バレてんじゃん。
結局のところ、この老人は嫌いではない。ただ怖いだけなのだ。
剣の師匠として厳しく指導されたが故に、頭が上がらないだけなのだ。
頭は上げられなくとも、手なら挙げられる。
「その『監査役』、オレにやらせて頂きたいです」
――
『監査役』。
その役割を担うということは里を出るということに他ならない。
それは当然のことだ。
里の外に出て、情報を収集、物資の補給、有事の戦闘。それらがフレアの役割となる。
一度旅立てばすぐには帰ってこれない。
数年とはいえ、里とはお別れとなる。
そして、大切な人とも……、
会議の結果、旅立ちは三週間後ということになった。
今現在、判っている外の状況。有事の際の対処法。旅の注意点など。知らなければならないことは多く、閉鎖的に暮らす上では必要のなかった知識を勉強する為の時間が、必要だったからだ。
こうして外に関われるようになれたことはとても嬉しかった。
この三週間はとても有意義な時間となりそうだった。
しかし、フレアは急激に変わった立場に頭をもたげていたもいた。
期待と同時に不安も大きい。
聞いたところによると、外での妖精の死者は少なくないらしい。
幼い頃に病死したと聞いていたフレアの父親も、外で死んでいたらしい。
死因は一切が不明。
今のフレアよりは間違いなく強かったというのに。
フレアの父は、人間はおろか妖精ですら相手は務まらないというくらいの実力だったらしい(それでも今のクレアと比べればまだまだ普通のレベルではあったらしいが)。
フレアだって、妖精族の中では中の上くらいの実力はある。
まともな人間はおそらくは下の下というレベルですら、超人染みて見える筈なのに。
人間族の中では今、少しずつ大きなうねりが生まれようとしているということなのかもしれない。
不安材料はまだある。
大切なことが、ひとつだけ。
空は燃えるように緋い。
ありがちな言い回しだがそれも仕方ない。
斜陽に彩られた空は雲をも緋色に染め、幻想的な色合いを見せていた。
美しい空だと、フレアは思った。
父と同じように里に帰ることなく、その妖精としては短く人間としては長い人生を終えてしまえば、この風景は二度と見ることもない。
故郷の空。
別れを知ってから、急に愛着らしき感覚を抱く。
失う可能性を知って初めて、大切なものの存在を知る。
大切だったんだと思い知る。
憎しみすら抱いていたこの景色に、だ。
フレアは自嘲気味に破顔する。
「変な笑い方してる」
背後からの声は、心に染み入るいつものそれ。
「遅ェよ、クレア」
「遅刻はしてないでしょっ?」
幼馴染はいつも通りの表情を見せる。
『わざとらしく』。
だから、フレアもそれに合わせるようにいつも通りのやり取りを始める。
「で? 今日は誰に喧嘩を吹っ掛けてきたんだ?」
「べ、別にケンカなんて吹っ掛けないってッ!」
「本当か?」
「……、うぅ。敢えて挙げればレオにケイトにアステル……」
一対一では修行にならない彼女は、一対多数の戦闘を頻繁に行っている。
自主的に付き合ってくれる人物はそうそう現れないので、無理矢理に近い形で相手に強要させるしかないのだ。その様は『喧嘩を吹っ掛ける』と言われればそう見えなくもない。
「やれやれだな……」
フレアはわざとらしく溜め息なんか吐いてみる。
すると、クレアは頬を膨らませて反論を繰り広げようとする。
だが、
「だけど……、だけどッ! ……アタシ、フレアに迷惑なんて掛けてないよッ!」
クレアの瞳から零れるそれは、彼女の本音を語っていた。
もう、溢れ出した感情は堰を越えた濁流のように歯止めなど利きはしない。
「だから行かないでよッ! フレア! 何処にも行かないでよッ! ……、お願い、だからぁ……、ッ!」
震えるその肩を、フレアはそっと叩く。
見上げたその顔を見て、思う。
先程までの凛とした姿は何処へやら。
しがみ付く彼女の温もりを感じる。
それは、愛しい距離感。
伝えたい思いなど、そう多くはない。
だが、それを言葉にして伝えるのはなかなか難しい。
拾っては投げ、見つけては捨て。
ガラにもなく気障な台詞を吐こうとする。
いや、難しく考えすぎるのも良くないだろう。
もっと単純な言葉でいい筈だ。
いつものやり取りと似たような言葉で。
聞き慣れた響きで。言い慣れた響きで。
思いついた言葉を。使い慣れた言葉を。
そして、フレアは口を開く。
「オレはアンタに勝てるようになりたい。勝って、それで言ってやりたい言葉があるんだ」
クレアはビクンと身体を震わすと、目元を拭って顔を上げた。
「アタシだって、アンタに負けたら言ってみたい言葉があるんだからッ! だからさっさと強くなってよねッ!」
言ったきり、クレアは再び俯いてしまう。
心なしか、耳が赤くなっている気がする。斜陽の所為、ではないかもしれない。
なんだか照れ臭くなって、フレアはその愛しい頭をぐりぐりと撫でつける。
クレアは大人しくそれを受け入れていた。
「……だから、行くよ。悪ィな」
強くなる。弱さを斬り捨てる。
それを成すには経験がいる。
努力や才能で覆せないのであれば、経験で補う。
その為には、旅に出たほうが効率がいい。
クレアに勝ちたい。
勝って、言いたいことがある。
恥ずかしい台詞を。気障ったらしい台詞を。伝えられなかった本音を。
その為には強くならなければならない。
己の弱さを断ち切らねばならない。
クレアを妬んでしまうような邪な思いを、断ち切る為の力が。強さが。
もう、迷いはない。
成すべきことを成すだけだ。
――ああ、そうだ。空は燃えるように緋い。
――緋く燃えているのだ。
◆主人公、フレア
フレア君登場の回。主人公です。
大食らい大剣士。
◆『戦うと決めたら剣を振るう。斬ると決めたら叩っ斬る。勝つと決めたら、絶対に倒す』
行き当たりばったりで書いた台詞ですが、今後もちょっと出てきます。
フレアの名台詞、なのか?
◆幼馴染、クレア
ヒロインと見せかけてこれから当分出てきません。
分かりやすいツンデレ。ヒロインらしい性格。惜しいキャラです。
◆長老、クォラル
物凄く強そうに書いてますが、ぶっちゃけクレアのが強いです。
経験値だけ見れば本作ではダントツかと思われます。
◆色々あって、外へ
紆余曲折を経て、里の外へ。
改めて読んでみると、実にあっさりしています。
エルフの里での生活などもう少し広げてみても良かったような気もしないでもないです。
当時はうまく書けなかったんですけど。