噂の5
<<十六夜の月を眺めていた噂1>>
主演「隼人様、皐月様」 脇役「親友様」
エキストラ「数人」 カメラアングル「隼人様」
十六夜の月が昇るまで、後1ヶ月を過ぎた真夏の夜。
商店街はこの1年で、半数以上の店舗が閉店、廃業した。
この不景気なご時世で、こんな規模の小さい商店街で経営するのは限界だ。
ホームレスの食事は、週に一度だけ行う炊き出しで、生活の半分を賄っている。
だが、炊き出しがない日は、常に空腹感を味わう事も、事実だ。
今日も、空腹感をいつものように味わっていると、雨が降り出す。
最初は小雨だったが、すこしずつ雨は激しさを増して、大雨に変わる。
屋根が錆びて、撤去された部分、俺の頭上から雨が降り注ぐ。
真夏の夜は、とても暑く、雨が降った事で、ただの暑さは蒸し暑さに変わる。
まだ、雨に濡れていた方が、この暑さをすこしでも涼しいモノに変えられる。
気がした。――急に雨が遮られた。空腹感を瞳に滲ませながら、俺はすこしだけ、顔を上げて見上げる。
白いビニール傘は雨水を弾く。薄い肌色の手は、見間違えれば雪のように白く見えて、艶のある黒髪が肩にすこしかかるくらいの髪の長さ。妙齢で綺麗な顔立ちの女性だった。
高嶺の華……女性見た時の第一印象は、その言葉だけだった。
女性は何も言わずに、ただ俺を見つめている。『ホームレス』とか言う概念を全く気にしていない、綺麗な黒い瞳には薄っすらと茶色を宿している。
だが、女性の瞳は、どこか、寂しさを滲ませている。
時間が止まったように、スローに感じられた。だけど、悲しい事に、それだけしか感じられない。
俺の時間なんて、もう止まっている――いや、壊れてる。
よく、こんな表現をしたら、命とか記憶とか感情とかを表しているが、俺の壊れたはそれとは違う。
感情は壊れてないのはわかる。空腹感を感じるから。
記憶が壊れてないのはわかる。まだ新しい記憶に埋もれてない部分の記憶は思い出せるから。
命が壊れてないのはわかる。なぜなら、まだ生きているから。
じゃあ、何が壊れているんだ?不意にそんな疑問を考える。
わからない……自分でも、何が壊れているのかがわからない。
曖昧な自分……そんな自分が、笑えない。
――女性は一言だけ、呟くように言うが、聴き取れない。
今度は聴き取ろうと、もうすこしだけ顔を上げて、耳をすこしだけ研ぎ澄ませる。
「このまま、雨に濡れていたら風邪になって、熱出すよ?」
線の細い澄んだ声。今度は聴き取れた。
この状況で、よくそんな素朴な言葉を言えるな。当然な事を言われて、妙に関心してしまう。
『そうだな』返す言葉が、口から出てこない。ここで、俺は壊れていた部分に気付いた。
唯一親友と呼べる人物が殺されて、家を出て行ってホームレスなって以来、何も、言葉を口にしていない。
そう、壊れていたのは、『俺の声』だったのだ。
――手をすこしだけ上げて、空中に見えない文字を刻んだ。これで、伝わるはずはない、無意味な行為だとは、自分でもよくわかる。
だけど、この女性は――。
「何を伝えないのかは、わからないけど……君は手話を知ってる?」
線の細い澄んだ声から出た言葉は、素朴だけど、どこか温かく錯覚してしまう。
女性は続ける。
「これが『はい』そして、これが『いいえ』簡単でしょ?じゃあ、質問します。君は話せないの?」
とりあえず、俺は女性が教えた手話の『はい』の動作をして答える。
空中に見えない文字を刻むよりは、まだ手話の方が効果的だ。
「それは、何かの『障碍』で話せないの?」
これには、手話の『いいえ』で答える。
『障碍』は、『障害』を言い換えた言葉で、障害よりまだ障碍の方が、障害なんて差別した言葉より、まだ障碍の方が柔らかく、差別意識は少ない。
そこから、この女性の仕事などは予想出来た。きっと、介護の仕事をしているんだろう。
根拠はないが、多分、正解だと思う。
「もし、君が空腹だと感じてたらでいいから、――これ、食べて」
今まで気付かなかったけど、女性は片手に提げていた白い鞄の中から、タマゴ型の弁当箱を取り出しながら、俺の目線まで屈んで手渡す。
「あ、これが、『ありがとう』の手話だからね。今日はこれでバイバイ♪」
女性はとても明るい口振りでそう言うと、踵を返して歩き去っていく。
渡された弁当箱は……見た目以上に重みがある。
でも、その重みは決して、弁当が重い訳じゃなく……自分でもよくわからない感情で、懐かしい重みだった。
弁当箱を凝視していると、不意にこんな事を考えてしまう。
あの女性の名前、わからないままだったな。言葉が喋れないから、向こうが名乗らないとわからないままだ。
でも、あの女性は『今日はこれで』と言っていたから、多分だけど、また明日も来るかもしれない。
それにしても――
この弁当は、見た目以上に不味いな。