②
給湯室の出来事があって以来、あたしはまともに遠山君の顔を見られないでいた。
でもまあ、同じ部所とは言いながら、あたしは社長付の秘書の一人だし、彼は重役付の、それもまだ見習い状態だから、挨拶以外にあまり言葉を交わす必要がないのが救いかな。
彼はと言えば、まるであたしのことなんて、社長室に飾ってある観葉植物かタヌキの置物くらいにしか思ってないんじゃないかというほど涼しい顔で、(悔しいけど)いつもと一切変わりがない。
この間のことは、あたしの欲求不満な脳ミソが見せた白昼夢なんじゃないか、と疑ってしまうほどに…。
だからあたしは、遠山君のイタズラなんて一切無視しようと決めた。
そうよ。お遊びになんか、付き合ってられないわ。明後日には先方とお会いするんだし、身支度整えたり、いろいろ忙しいんだからっ。
お見合いと言っても、親や仲人さんを交えたような堅苦しいものじゃなく、まずは二人だけでホテルのラウンジでお話しましょう、ということだった。
何着ていこうかな。着物なんてやっぱり堅苦しいわよね。
スーツ?それともワンピースがいいかな?
あ、美容院にも行かなくちゃ♪
仕事中だけど、ついウキウキと鼻唄でも歌っちゃいそうなテンションで資料室のファイル整理をしてると、
「楽しそうですね、沢口さん」
ギクッ。
入り口から、またしても魅惑の呼び声がっ……!
…ぅぎゃっ! 出た〜っ!!
(彼限定で)鋭くなってしまった耳のせいで、振り返らなくても誰だかわかる。
彼はおそらく、あたしが一人の時を狙ってやって来たのだ。
な、何でまたっっ!? とりあえず逃げなきゃっ…!
あたしは棚の方を向いたまま、目だけを動かして逃げ場を探したけど、資料室の出入口は遠山君が塞いでいるその一つだけ。
…うそ〜、どうしよう。
捕まったら終わりだわ…。この前みたいにいいようにからかわれて、遊ばれちゃう〜っ。
「…沢口さん?」
近づいてくる気配に、あたしは手にした資料を抱えたまま、出来るだけ遠山君から距離を置こうと壁沿いを端まで移動した。
「…何か用?」
意を決して振り返ると、目線よりも少し低い資料棚のすぐ向こうに、遠山君が立っていた。
彼とあたしの距離は、棚を挟んでほんの数歩分。
「嫌だなぁ。そんなに警戒しないでください」
遠山君は安心させるように、明るく笑いかけてきた。
するわよ!当たり前でしょっ?
君の、その思わずつられて笑っちゃいそうな、笑顔が曲者なんだってのっ。
「用がないなら、先に失礼するわ」
笑顔の魔力に負けないように、視線を微妙にそらして扉の方へ移動しようと試みたけど、彼はスッと手を伸ばしてあたしと扉の間に立ち塞がった。
うっ…、読まれてる…。
「この間のこと、考えてくれました?」
軽く首を傾げるように覗き込まれて、あたしの心拍数が跳ね上がる。
来たっ…。落ち着け、あたし。
「…何のこと?」
シラを切っても微妙に声が震えてしまって、あたしが動揺してることなんてきっと彼にはバレバレだった。
「その様子だと、俺が言ったこと本気にしてませんね?」
「…当然でしょう。いきなりあんなことっ…」
相手にしないと決めたはずなのに、思わずこの間のことを思い出してしまって口ごもるあたしに、彼は仕方ないなぁとでも言うように、軽くため息をついた。
「あれは…、すいませんでした。あなたの反応があんまり可愛かったので」
「はっ…」
恥ずかしいこと、サラッと言わないでよっ…!
カァッと頬が熱くなるのを感じて、咄嗟に顔を隠すように手で押さえた途端、抱えていたファイルの束を床に落としてしまった。
「あっ…」
拾おうとしてしゃがんだ拍子に思わず隙が出来たんだろう、伸ばした手を遠山君に掴まれてしまった。
「やっ、放してっ…」
「嫌です。放したら逃げちゃうでしょう」
振りほどこうとしたけど上手くいかず、逆に手を引かれたあたしは、気づけば彼の腕の中へ。
「捕まえた」
楽しそうに言う彼に抱きしめられたかと思った瞬間、
「なっ…、…んぅ!?」
やや強引に顎を掴まれ、なぜか突然口付けられていた。
…ヤダッ! 何コレ!?何なのっ? 何であたし、キスなんかされちゃってるのよっっ!?
頭の中は、まさしくパニック状態。真っ白どころか、チカチカと星まで飛び交う勢いで。
「…ん〜〜…っ!」
抗議しようにも声にはならず、優男に見えてもやっぱり力では彼に敵うはずもなく、彼の胸を叩く拳は握り込まれ、いつの間にかあたしは壁に押し付けられていた。
その間にも、キスはどんどん深く、甘くなっていく…。
「…は、んっ……」
彼のキスが上手いのか、あたしが経験不足なだけなのか、いつしか抵抗は抵抗じゃなくなって、あたしは彼の胸にすがり付くように身を任せていた。
「そんな顔、他の奴等に見せないでください…」
え…?
キスの合間に呟かれた言葉は、ボーッとなった頭には上手く伝わってこない。
あたしがすっかり大人しくなった頃、ようやく彼の口付けから解放された。
逸る心臓に急かされるように、荒い呼吸を繰り返していると、たった今まで人に快楽を植え付けようとしていたその唇で、彼は現実に引き戻す言葉を紡いだ。
「…田上さんの噂、聞いたことありますか?」
「田上…?…ハッ」
なけなしの理性がその名前に反応して、あたしはやっとのことで遠山君の腕を押し退けた。
「………」
二、三歩距離を置くと、あたしは余韻に潤む瞳で彼を睨み付けた。
そうだった!あたし、ボーッとしてる場合じゃないわ!
何てことっ…。冗談にしたってやり過ぎよっ!!
彼があたしのことを本気で口説こうとしてるなんて、あり得ない!
きっと、あたしの見合い話を妬んだ誰かにでも、頼まれたんだわ。
今にも崩れ落ちそうなほど動揺してるのに、それを見せるまいと、これ以上彼の言うことなんか聞く耳持たないという頑なな態度を示すあたしに、彼は肩をすくめてみせた。
「知らないんですね。彼とあなたじゃ…、もったいない」
…は? それ、どういう意味!? 貧乏人は分をわきまえろってっ?
被害妄想の激しくなってるあたしは、苛立ったような彼の口調の意味なんて、気づきようがない。
無言で睨み付けるあたしと、言葉を探すような彼の間に、つかの間沈黙が降りた時、コンコン、と資料室の扉がノックされた。
「失礼しま〜す」
ハッと我に帰ったあたしは、あわてて落としたファイルを拾い上げ、棚に戻す振りをした。
「あ、沢口さん、ここにいたんですか。あれ?遠山さんも?」
「ええ。僕の用は済みました。先に失礼しますね」
入ってきた女子社員に、遠山君は全く隙のない柔らかな微笑みを向けると、部屋を出る前に、あたしにだけ聞こえる声で言い残していった。
「気をつけてください。…彼は、かなり女性にだらしないそうですから」
…そんなウソ、いきなり嫌がる相手に無理矢理キスするような人に、言われたくないわっ!!
あたしは遠山君の言うことなんて、まるで信用出来なくなっていた。
色事に不慣れな小局からかって、そんなに楽しいの!?
あんな…、訳がわかんなくなっちゃうようなキス…、は、初めてなんだから、メロメロになっても仕方ないじゃないっ。
もう、もうっ…!!最低!遠山の馬鹿!女たらしぃ〜!
お見合い上手くいかなかったら、一生恨んでやる〜〜っっ!!
「あの、沢口さん…、大丈夫ですか?」
真っ赤な顔で棚に向かって唸るあたしに、後輩が心配して声をかけてきた。
「あ、だだ大丈夫!平気よ」
空笑いを浮かべながら、あたしはやっぱり神様なんていやしないんだと、心の中で毒づくばかりだった。
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遠山くんてば強引過ぎ。自分で書いてて『どうなのよ?』とツッコミいれたくなりました。
ますます翻弄される小局様を応援してやってくださいませ。