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自分には縁のないと思っていたことが、突然やってくることもあるんです。
―――彼、遠山健がうちの部署に配属されてからというもの、女子社員がみんな何処と無く浮き足立っている気がする。
受付嬢と同じく、会社の華と称される女の園・秘書課に、数少ない男性社員として身内のコネも使わずやってきたあたり、おそらく彼はかなり優秀なのだろう。
学歴もそこそこ、背が高くて小顔でモデル体型、甘めのマスクで人当たりも良い(今をときめく若手人気俳優みたいな)とくれば、そりゃあ世の中の女性の大半は放っておかないって。
でも、そんな彼だからこそ近づかないでおこうと、あたし――沢口亜祐未はひそかに心に決めた。
だって、ライバル多そうだし(笑)。
第一彼は三つも年下で、お付き合い=(イコール)ゆくゆくは結婚を望むあたしとは、まず恋愛に対するスタンスが違うはず。
今年28になるあたしは、母子家庭で育ててくれた母親をそろそろ安心させるためにも、堅実な結婚への道を歩みたいと思っていた。
小さい頃からお金に苦労したせいか、あたしは人より玉の輿願望が強い子だった。
奨学金でいい大学に入って、いい会社に就職して、出来るだけ安定した高収入の男性に出会うべく、あたしは人一倍努力した。
そのおかげか、こうして重役方やエリートにお目にかかる機会も多い秘書課に配属されて、自分をアピールし続けること、約二年。
ようやくこの間、取引先の重役のご子息に紹介していただける運びとなったばかりだ。
そんな時に、浮わついた気持ちでよそ見してる場合じゃない。
自分でいうのはなんだけど、あたしみたいにあまり男慣れしてないタイプ(もちろん、学生の時はそれなりにお付き合いもあったけど、社会人になってからは皆無に等しい)は、ちょっと優しくされたりするときっと勘違いしてしまうから…。
君子危うきに近寄らず。
まあ、心配しなくても、彼はあたしみたいなお局もどきを相手にするほど暇じゃないだろうけど(笑)。
そんなふうに高をくくっていたある日のこと―――
社長室に来客があり、あたしがお茶を運ぶことになった。
いつもなら、若くて可愛い後輩が率先して行くんだけど、相手は少しばかり女子社員にスキンシップを求めたがるセクハラ親父…(ゴホンッ、失礼)、まあ、くせのあるおじ様なので、みんな行きたがらなかったのだ。
あたしもホントは嫌だったんだけど、今度紹介していただく先方の上役さんだし、今印象を悪くする訳にはいかないから、仕方なく立ち上がった。
秘書課の横にある狭い給湯室でお茶の準備をしていると、入り口に人影が立ったのがわかった。
「手伝いましょうか?」
柔らかな声音に振り返ると、危険人物(笑)の遠山君が笑顔で立っていた。
…う。近寄らないようにしてるのに、どうして向こうから近寄ってくるのよ。
「ありがとう。大丈夫よ。ここはいいから仕事に戻って…、あ」
不自然にならない程度に素っ気なく追い払おうとしたあたしは、お茶っ葉の缶を開けたところで、中身がないことに気づいた。
…もうっ、使ったらちゃんと補充しといてよ!
予備の茶葉は頭上の戸棚の中。背のあまり高くないあたしには、微妙な高さだ。
戸を開けて、背伸びをしてみても、あとちょっとで手が届かない。
あきらめて踏み台を取ってこようとしたその時―――
「これですか?」
後ろから、あたしの背中にぴったり寄り添うように手を伸ばした遠山君が、棚からひょいと茶葉の入った袋を取り出した。
………なっっ!? 何すんのよっ!?
驚きすぎて声も出ないあたしが硬直していると、
「沢口さん、田上専務の息子さんとお見合いするんですか?」
遠山君が耳元で囁きかけてきた。
今、このタイミングでそれを聞くか!?
「ゃっ…」
あたしは思わずビクンと身をすくませて、彼から逃れようとしたけど、狭い給湯室で覆い被さるように覗き込まれたら、思うように身動きが取れない。
「沢口さん?」
「…や、止めて。耳元で喋らないで」
慣れないシチュエーションに心臓が爆発しそうで、文句を言う声に力が入らない。
これは何の嫌がらせだろう…。
罰ゲームか何かで、秘書課の小局(お局はもう一人別にいるから)を口説いてこいとでも誰かに言われたとか。
情けなくも、初心な小娘みたいに震えるあたしの様子を楽しんでるのか、
「止めませんか?見合い」
軽く笑みを含んだ遠山君の声音に、あたしはカァッと頬に血が上るのを感じた。
「なっ…、んで、そんなこと、遠山君に言われなきゃいけないのっ」
あたしはやっとの思いで言い返し、精一杯の力で彼を突き放して睨み付けた。
すると彼は、
「沢口さんに、興味があるんです」
いけしゃーしゃーと、思ってもいない言葉を口にした。
「なっ…。冗談はよしてよっ!」
「シーッ。みんなに聞こえますよ」
虫も殺さないような人のいい笑顔でからかう彼に怒りを覚えて声を荒げると、彼はしたり顔であたしを諭した。
「俺にしときませんか?自分で言うのもなんですが、お買い得だと思いますよ」
「…あたし、年下には興味ないの」
からかわれてるとわかってても、心臓が走り出すのを止めることが出来ないあたしは、精一杯の強がりでそっぽを向いた。
彼にはそんなあたしの胸中などお見通しなのか、余裕の微笑みを浮かべた。
「答えは急ぎませんから、ゆっくり考えてください」
顔を真っ赤にして黙り込むあたしを置き去りに、彼は何事もなかったように給湯室を後にした。
「な…、何なのよ、いったい」
彼が去った後、あたしはあまりの出来事に給湯室の床にへたり込んでしまった。
止めてよ!何なのよ、もう!
あたしはただお金に困らない、安定した生活を望んでるだけなのにっ。それのどこがいけないの。
こんな際どいゲーム紛いの、アバンチュールなんていらないのよ〜〜っっ!!
あたしの心の叫びを聞き届けてくれる神様は、どこにも存在しなかった…。
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