いつもなんでも許して甘やかしてくれる優しい幼馴染猫獣人お兄さんがワガママばかりの私のことを囲っているわけがない。
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近所にある大きな家が、少女はずっと気になっていた。
その家の広い庭には大きな木が生えていて、二階建ての家の屋根の近くまで伸びている枝から眺める景色はどんなものなのだろうと思っていたからだ。
そして、毎日小学校の通学路の行き帰りに歩道からその木を眺めながら歩いていると、その家の二階の窓から一人の少年の横顔が見えることにいつしか少女は気づいた。
窓から見える少年の頭頂部辺りからはピンッと立った三角の耳が生えていて、きっと猫の獣人だ、と少女はすぐに理解する。
少女の母親が毎日見てるニュース番組の名物アナウンサーも猫の獣人で、彼の耳もその人と同じ形をしていたからだ。
その少年は歩いている彼女の方を見ることはなく、いつも何か机に向かって黙々と作業をしているようで、少女はその道を通ると、大きな木と、窓の向こう側の少年の横顔を眺めるようになっていた。
その日、少女は学校が終わってそのまま公園のベンチに一人で座っていた。
少女の両親は共働きで、父親は単身赴任でずっと県外で働いており、たまにしか帰ってこず、母親も夜遅くまで働いているため、少女は基本的にずっと家に一人だった。
お金や、作り置きのおかずが置いてあるから食べ物に困ることはない。
けれども、今から家に帰って独りぼっちの時間をまた味わうのかと思うと、慣れているはずなのに今日はなんだか特に寂しくなってしまって、せっかく家の近くまでやってきたのに、くるりと踵を返しててくてくと歩き始めてしまったのだ。
「あ……」
何も考えず、あてもなくぼーっと歩いていると、どうやら少女はいつもの通学路の道をそのまま歩いてしまっていたようで、ふと気が付いた彼女が顔を上げれば、いつの間にか彼女は、毎日見る大きな木の生えた豪邸の前に居た。
ふと、彼女に悪戯心が芽生えたのはその時だ。
──この木に登ったら、何が見えるんだろう?
以前から思っていたそんな好奇心。考え始めると思考はむくむくと膨らんで、何がなんでもそれを確かめたいと、少女はその気持ちを止められなくなった。
辺りを見回して、人が誰も見ていないことを確認すると、小柄で体重も軽い少女は塀の突起を掴んですいすいと昇り、あっという間に家の庭の中へと着地した。
初めて見た豪邸の庭はとても広く、端には花が植えられた美しい花壇があった。
それに目を惹かれながらも、少女は再び辺りを確認して、他に人気がないことを確認すると、いつも見ていた大木の下へと近づく。
歩道から見るときよりもずっと大きく見えるそれ。少女が上を見上げて見れば、夕陽が差し込んだ今の時間は、茂った葉の間からオレンジ色の光が差し込んできらきらと輝いていた。
きっと、木の上に登ったら、このきらきらした光がもっとたくさん見れるに違いない。
そう考えた少女はでこぼことした木の幹に手をかけ、そろりと登っていく。
高いところは昔から好きだったし、学校の校庭に生えている木にもよく登っていた少女はゆっくりとだが、着実に上へ上へと向かっていく。
ようやく屋敷の屋根の近くまで来たとき、少女は歩道の方を見て、夕陽が見えないかを確認した。
すると、そこは木々の枝葉がたくさん茂っており、木々の向こう側の景色は良く見えない。
それどころか、夕陽が沈みかけているのか、辺りが薄暗くなっている様子で、少女は肩を落とす。
「なぁんだ」
残念そうに唇を尖らせて、少女がふと反対側を見ると、それはいつも木と一緒に見ている屋敷の二階の窓の目の前。
「あ」
思わず声をあげた少女の目の前、窓のガラス越しに、目を飛び出しそうなほどに見開いて口をぽかんと開き、少女を見つめる少年の姿と目が合った。
少女はすぐに彼が、いつも見ていた二階の窓越しの少年だと気づいた。
彼は目が隠れるくらい長いグレーのさらさらした前髪の下から美しいエメラルドグリーンの瞳を覗かせていて、訳がわからないといわんばかりに瞬きもせずに少女のことを見つめていた。
「え、ちょ、ねえ! な……何してるの……!?」
突然窓の外から現れた見知らぬ侵入者に驚きながらも、少年は慌てて窓を開け、少女に慌てた声で話しかける。
「えっとね、のぼってた!」
「いやそれはわかるよ!」
少女は得意げに木の上で胸を張って、にっこりと無邪気な笑顔を向けるが、少年は窓枠に手をついて身を乗り出して手を伸ばす。興奮しているのか彼の耳がぴこぴこと激しく揺れているのを見て、少女は「わぁ!」と思わず声をあげた。
「ってまずは危ないから! ちょっとそのまま、待って! 誰か呼んで──」
「あ、」
少年が言い終わる前のことだった。
少年のふわふわとした耳に目を奪われていた少女の足がその瞬間にずるりと滑ってしまって、少女の小さな体ががくんと横に傾く。
「わーッッッ!?」
悲鳴をあげる時間もないまま、落下していく少女の姿を見て、少年は絶叫した。
そしてその瞬間、少年は瞬時に窓枠に足をかけると、軽やかな身のこなしで窓から飛び出してひらりと地面に着地すると、落ちてきた少女をなんとかキャッチする。
その衝撃で勢いよくその場に尻もちをついて、大の字で庭に倒れた少年の胸の中で、無傷な少女はバッと顔を上げると、きらきらとした目で少年の頬をぺちぺちと軽く叩く。
「ねえすごい! ねえどうやったの!? すごい! もう一回やろ!」
「や、やらないよ……! し、死ぬかと思った……」
きゃっきゃとはしゃぐ少女とは反対に、息を切らしながら死にそうな顔で長い尻尾までぐったりと地面に横たえる細身の少年の声を聞きつけてか、「坊ちゃま!?」と屋敷の中から何人かのメイドが慌てて出てくるのが見えた。
これが猫の獣人の少年キリルと、人間の少女である小鞠の出会いだった。
***
キリルの一族は元々とても寒い国の出身で、大きな会社の役員である彼の父親がこの国の日本支社に勤めることになり、キリルが産まれた頃に日本に移住することになったらしい。
そんな話を聞かせてもらったのは、少年と小鞠が三回ほど会った時のことだ。
小鞠が木から落ちたことを知った小鞠の母親が数日後、キリルの両親に平謝りしにやってくると、怒るどころかキリルの両親は大喜びで二人を出迎えたのだ。
「小鞠ちゃんにはね、とっても感謝してるの! 本当よ? この子、暗くて家に引きこもってばっかりで心配してたの。こんなに可愛くて元気なお友達ができたなんて嬉しくって!」
「キリル。こんな可愛いお嬢さんに怪我をさせるんじゃないぞ」
そうにこやかに小鞠の手を握るのは、キリルによく似た獣人の両親だ。
美しいグレーの毛並みの長い尾を揺らしながら微笑む彼らに小鞠は見惚れるものの、小鞠の母親はカンカンだった。
何せ娘が人様の庭に生えている木から落ちてそこの一人息子に助けられたというのだから、次の日に菓子折りを持って謝罪に行ったほどだ。
「あそこのお家にはもう行っちゃだめよ! また迷惑かけてしまうでしょ!」
と小鞠の母親は彼女にそうきつく言い聞かせるけれど、小鞠は「うん」と言いながらその言いつけを守る気はさらさらなかった。
この事件以降、一週間のうちに何度も屋敷に忍び込んでは再び窓の横の枝までよじ登ってくる小鞠に、キリルは最初は「もう来ちゃダメだって!」と少年は叱りつけていたが、何度言っても無邪気な笑みを浮かべて言うことをきかない小鞠には何を言っても無駄だと諦め、「次からはせめて玄関から来て」と方向転換するようになった。
最初はキリルの家に行って遊んでもらうだけであったが、小鞠があまりにも強請るものだから、キリルが彼女に手を引かれて近くの公園や街中のゲームセンターやショッピングモールなどにも出かけるようになるのにさほど時間はかからなかった。
小鞠にとってはごく普通の、母親とよく来る場所であったが、キリルにとっては初めての場所ばかりのようで、小鞠に連れられた彼は、手を繋ぎながら終始きょろきょろとあたりを見回すものだから小鞠は「おにいちゃんってば迷子にならないでね!」とお姉さんぶる始末。
どうやら上流階級に生きてきたキリルはほとんどこのような場所に来たことがないらしく、そんな小鞠の言葉に「うん」と言いながら不安そうに小鞠の手を握り返すものであった。
彼の母親の言う通り、家にこもりがちで、学校から帰っても勉強ばかりしていたらしいキリルは、外に出るのは最初は渋っていた様子であったけれども、小さな小鞠が「おにいちゃんが来てくれないと一人で行くもん」「おにいちゃんがいないとやだ!」と言えば「それは危ないからダメだよ!」となんだかんだ言いながら慌ててついて来てくれるのだ。
お転婆で危なっかしい小鞠が、また木の上から落ちるようなトラブルを起こすのではないかと心配しているようでもあった。
また、キリルが世話を焼いてくれるのは、親がほとんど家に居なくて寂しいのだと、小鞠がぽつりと漏らしたからという理由もあるのだと、幼い彼女にもなんとなくわかっていた。
だからこそ、小鞠がおねだりするとなんだかんだ言いながらも言うことを聞いてくれて、構ってくれるキリルは小鞠にとっては親の代わりにわがまま放題のできる貴重な相手であった。
そして、そんなキリルに対して小鞠が「キリルおにいちゃんあそぼ!」と学校帰りにいつも彼の家にやってくるようになったのも、いつしか当然のこととなったのだ。
キリルと小鞠の交流は毎週のように続いた。
キリルもキリルで、「別に無理に僕のところに来なくてもいいんだよ」なんていつも困ったように笑いながらも、常に彼の家には小鞠の好きなお菓子が常備されていたし、小鞠が「遊びにいこ!」と誘えば、勉強の合間を縫いながらも小鞠と出かけてくれていた。
しかしながら、キリルが通っている高校は進学校ということで有名で、三年生になってさらに勉強は忙しいだろう彼に、小鞠も少しは遠慮をして、一緒に出かける頻度はこそ減らしたものの、それでも週に一度は必ずキリルの元へと訪ねていた。
それは小鞠が小学校の高学年、そして中学生になっていっても変わらない。
その日も、担任の先生から明日は突然テストがあることを聞かされた小鞠は、家庭教師代わりでもあるキリルに教えてもらおうといつものように家に向かっていたのだ。
キリルの家の大きな門の前、そこにはちょうど家に帰ってきたのか、すらりとした見慣れた後ろ姿が見えて、小鞠は顔を輝かせる。
「おにいちゃ──」
その名前を呼ぼうとして、そこで彼女はキリルの身体に隠れた向こう側に、知らない女性が彼と向き合うように立っていることに気づいた。
思わず口を閉ざして、そろりと物陰に身を隠した小鞠はその様子を観察する。
キリルと向き合うように立っているその女性は彼と同じ学校の制服を着ており、楽しげに二人で会話をしているようであったが、小鞠の位置からでは二人が何を話しているかまでは聞き取ることができない。
小鞠がしばらくそうして隠れていると、女性の方が手を振って、どこかに去っていく。
キリルはそれを見送り、女性の姿が完全に消えたところで、小鞠は恐る恐る物陰からキリルの元へと小走りで向かう。
「あれ、小鞠ちゃん。今帰りだったんだ」
小鞠の姿を捕らえたキリルはにっこりと微笑む。けれども小鞠はその言葉には返事をせずに、女性が消えていった方向をじっと見ていた。
「小鞠ちゃん?」
「……おにいちゃん、今のひとだれ?」
「え……見てたの?」
少し驚いた顔をするキリルに、小鞠は小さく頷く。
キリルは小鞠の反応を見て「あー……」となんともいえない声を出すと、「彼女だよ」と一言告げる。
「僕のことが好きだから付き合ってほしいって言われたんだ」
そう言いながらキリルは少し照れたような表情で頭を掻く。
まんざらでもなさそうなキリルの様子を見て、小鞠は胸の中でもやもやとした感情が広がっていくのが自分でもわかった。
確かに、グレーの毛並みとエメラルドの瞳を持った美しい猫の獣人であるキリルと並んで歩いていると、すれ違う女性たちから熱い視線を注がれると気づいたのはずっと前、小鞠が小学生の頃から既に気づいていた。
そんな相手を連れている自分に優越感というものが湧き出てくるのを小鞠は気持ちよく感じていたが、それが今は全くもって不快に感じていた。
「小鞠ちゃん……?」
その場で俯いて地面を見つめる小鞠に何かを感じ取ったのか、キリルはおろおろした表情を浮かべて小鞠の名前を再び呼ぶ。
「……やだ」
「え?」
小鞠は顔をあげてキッとキリルを睨みつける。
そしてカバンを乱暴に地面に落とすと、声を荒げながらキリルに詰め寄った。
「おにいちゃんに彼女ができるなんて嫌! おにいちゃんは小鞠のなのに、彼女ができたらその人が一番ってことじゃん! そんなのやだ!」
それはあまりにも子供じみた、まっすぐな独占欲であった。
小鞠はじわりと目からあふれ出てきそうになる雫を堪えながらキリルの胸の中に飛びつくと、ぽかぽかとその胸を軽く叩く。
「おにいちゃんには小鞠が一番なんだから! 小鞠が一番じゃないとダメなの!」
肩を上下させながらぐすぐすと泣きじゃくる小鞠を見下ろし、キリルはどこか呆然としたようにその場に立ち尽くしていた。
「……小鞠ちゃんが、僕の一番?」
けれども、理不尽ともいえる子どもの要求に対して、キリルは怒るわけでも嗜めるわけでもない。
ただ、不思議そうに問いかけるだけであった。
「……ちがうの?」
小鞠は少し不安になって、恐る恐る上目遣いでキリルを見上げる。
涙で濡れた目を潤ませて、すん、と鼻を鳴らしながらキリルの制服をぎゅっと掴む。
「……いや、そっか、そうだよね。僕は小鞠ちゃんのおにいちゃん、だもんね」
小鞠の言葉に何かぶつぶつと呟きながら少し考え込んでいたキリルは、おもむろに手を口に当てて「ふふっ」と堪えきれないように笑みをこぼす。
「そうだよ! おにいちゃんは小鞠が一番なの!」
その声を聞いて、キリルは手を伸ばして小鞠の頭に乗せると、そっとその頭を撫でてやる。
どこか納得したような表情を浮かべて頷くキリルに、小鞠は拗ねたように唇を尖らせながら甘えるように顔をその制服にこすりつけた。
「ごめんね小鞠ちゃん。僕が間違ってた。きみに悲しい思いをさせちゃったね、許してくれる?」
キリルは優しい声を出しながら、しゃがみこんで小鞠と視線を合わせる。
「……ん」
そして、キリルの言葉にこくんと小さく頷く小鞠の目にそっと指をあてると、その涙を拭ってやった。
その様子を見たキリルは嬉しそうに微笑むと、「ありがとう」と言って、小鞠の小さな体を抱きしめる。
ぽんぽんと、小さい頃から小鞠が駄々をこねるといつもやってくれたように、背中を軽く叩きながらなだめてくれるその姿に、小鞠は「おにいちゃん、だいすき」と安心したよう言いながらキリルの背に腕を回す。
傍からみれば微笑ましい、本当の兄妹のようなそれ。
キリルはエメラルドの瞳を細めると、小鞠の耳元に口を寄せて、小鞠にしか聞こえないように囁く。
「……僕も小鞠ちゃんのこと、大好きだよ」
──キリルが恋人と別れたと、小鞠が報告を受けたのは、その次の日のことだった。
***
「ねえ」
下校時に突然、聞きなれない声が頭上から聞こえて、帰ろうと教科書をまとめていた小鞠は顔を上げる。
そこにはクラスメイトの数人の少女が立っていて、小鞠を見下ろしていた。
「……なに?」
彼女たちと小鞠は今までほとんど話したこともない関係性であった。
そんな相手がいきなりどうしたのかと不審に思って小鞠が首を傾げると、その中のリーダー的な立ち位置の少女は話しかけてきたにもかかわらず、もじもじとどこか言いづらそうな態度で、少し黙ったあと、恐る恐る口を開いた。
「あのさ、こないだショッピングモールで見かけたんだけど……一緒にいたかっこいい人ってあんたの彼氏?」
「え?」
問われた言葉に小鞠はそういえば、と思い出す。
数日前に、キリルと小鞠は二人で近くのショッピングモールまで買い物に行ったのだ。
その日は久々に小鞠はキリルを誘って外に出かけ、二人でお店を見て回って、最後にアイスを食べた日であった。
きっとその時のことを言われているのだ、と小鞠は理解する。
「え、違うよ。彼氏じゃなくて近所のお兄ちゃん。昔からよく遊んでくれるの」
クラスメイトの問いかけに、小鞠は首を横に振る。
年齢こそ少し離れているが、自分とキリルの関係はいわば幼馴染のようなものであろうと彼女は考えていたからだ。
「え、あの人って彼氏じゃないの?」
「うん」
小鞠の返答を聞いた彼女たちは顔を見合わせると、なにやらひそひそと小声で会話をする。
その様子に少し不快感を感じながら、「なに?」と小鞠が問いかけると、彼女たちは訝し気に眉を顰めて小鞠の顔を見遣った。
「いや、だってそれ変じゃない? それ」
「……変?」
理解できない、と言わんばかりに不審そうな顔をする彼女たちの様子に、今度は小鞠が訊き返す番であった。
「だって本当のおにいちゃんじゃなくて、彼氏でもないのに、その人とよく遊んでるんでしょ?」
「そうそう、私もこの間みた! 二人で一緒にスーパー居たよね? 腕組んでさー」
「え、まじ? やば。実の兄でもやんないわそんなの!」
くすくす、彼女たちは小馬鹿にするような笑みを小鞠に向ける。
「変じゃ、ないし」
「そう? まーでも、彼氏じゃないならいいや! 気になっただけだし! あんなかっこいい人に甘やかされてて羨ましい~」
小鞠が俯きながら絞り出すような声で答えると、クラスメイトの女子たちあっさりとそう言ってその場を去っていく。
去り際に、小鞠の耳に聞こえたのは、「言い過ぎじゃない?」「言ったってわかんなくないでしょ、子ども扱いされてるんだから」などと、彼女たちがこちらに聞こえるように話す声。
──子ども扱い?
キリルが、自分を?
小鞠はぎゅっと拳を身体の横で握りしめるが、誰も彼女を慰める人はいない。
他のクラスメイトたちはそんな小鞠たちの様子を見ていたものの、何事もなかったかのようにそれぞれ部活に向かったり、家に帰ったりする人ばかりだ。
いつもそうだった。小鞠が授業で先生に質問に答えるように言われて間違えても、体育の授業で派手で転んでも、誰も助けてくれなかった。
虐められているわけではない。けれども、周りは小鞠を一歩引いた場所で見ている。
小さい頃からわがままで自分勝手な小鞠に近づいてくる人はほとんどいなかった。昔も今も、小鞠にはキリル以外に悩み事をや楽しいことを話したり、相談したりする相手はいない。
だからこそ、大好きなおにいちゃんは小鞠の唯一の友人で、幼馴染で、大切なひとだったのだ。
確かに、保護者のような役割もしてくれるキリルは、とびきり甘やかして、小鞠の言うことをなんでも聞いてくれる。
小鞠には、幼い頃から続くそれはいたく当然のことであると思っていた。
けれども、それはクラスメイトたちから見ると当然でも、普通でもないらしい。
そう思うと、小鞠は心の中でむくむくと、疑問と苛立ちが湧き上がってくるのがわかった。
小鞠にとってキリルは大切であるし、キリルにとってもそれは同じであることはわかっていた。
けれども、それは他の人から見ると“普通”ではないことであるということを知って、小鞠は悔しさと恥ずかしさで胸が張り裂けそうだった。
咄嗟に、小鞠はいつもみたいにキリルに「ねえ変なこと言われた」と連絡しようとして、端末を取り出し、そしてぴたりと指を止める。
小鞠がメッセージを送れば、彼はいつものように小鞠に「どうしたの? 大丈夫?」と様子を聞いて、慰めてくれるだろう。
けれども、それこそは彼女たちが言った「子ども扱い」なのではないか、と小鞠は思ったのだ。
──小鞠はもう子どもじゃ、ないもん。
小鞠は端末をしまうと、膝の上でぎゅっと制服のスカートを握りしめる。
それはまるで小鞠自身の欠点を指摘されているような、今までそうやって生きてきた小鞠の存在を否定されているような、そんな気がしたのだ。
***
小鞠はそれから、キリルと会う頻度を少しずつ減らしていった。
勉強が忙しいのだと言い、それなら僕が教えるのに、と優しい言葉をかけてくれるキリルの誘いを断って、学校が終わるとまっすぐ家に帰った。
ほとんど毎日のようにキリルに会いに行っていたというのに、今では月に会うのは一度あるかないか程度。
心配したのであろうキリルが何度も「小鞠ちゃん大丈夫?」と連絡してくれたが、それにも「大丈夫!」と短く返事をしていた。
──子ども扱いされたら、恥ずかしい。
罪悪感はあったものの、これまでがずっとべったりだったのだから、お互いのためにもそのほうがいいだろうと言い聞かせ、数か月も経つ頃には、キリルにほとんど会わない生活というのにも慣れていった。
そんな中、小鞠が告白されたのは彼女が高校一年生になってすぐのことであった。
相手は二つ隣のクラスの男の子。委員会が一緒で、お互いが委員長と副委員長を務めていたのがきっかけでたまに話すような仲。
告白されたのも、委員会が終わって二人で片づけをしている際に、ポッと頬を赤らめた少年から「付き合ってほしい」と告げられたのだ。
正直、小鞠は彼に対して恋愛感情自体は全く持ってはいなかった。
けれども、真面目で優しそうな相手であったし、何しろ初めての『彼氏』というものを、小鞠も持ってみたかったというのが一番の理由で付き合うことを決めた。
──やった! もうこれで子どもだなんていわれないもん!
自分を馬鹿にしてきたクラスメイト達のことを思い出して小鞠はにんまりとほくそ笑む。
そんな彼から、「明日楽しみだね」というメッセージが届いていて、それに「わたしも!」と返信をしながら、小鞠は鏡の前に立つ。
なにをかくそう、今日はそんな『初彼氏』とのデートの前日であった。
そんな中、明日着ていく服を選んでいたがなかなか決まらず、小鞠は考え込む。
以前母親に買ってもらったワンピースがいいかと思って鏡の前で着てみたはいいものの、初めてのことで悩んでしまってなかなか決めきることができずにいた。
しばらく考えこんでいた小鞠であったが、ふといい考えが思い浮かび、「あ」と思わず声を出した。
──そうだ! おにいちゃんにこの姿を見てもらおう。
親と同じか、むしろそれ以上といってもいいほど信頼している相手のことを思い出し、変なところがないか見てもらおうと決めた小鞠はすぐさまカバンを持って外に飛び出す。
距離にするとおよそ五分ほどの距離にあるキリルの家へと駆けて行く。
今では目を瞑ったって行けるとさえ確信しているその場所にたどり着くと、小鞠は躊躇なくインターホンを押した。
少しすると、「はい」と声が聞こえて、黒いタートルネックを着たすらりとした背の高い男がドアを開いてひょっこりと顔を出す。
大学生になったキリルはこの時期、比較的家にいることが多い。小鞠もそれをわかっていて、その時間を狙って訪ねることにしていた。
キリルも、この時間に家にやってくるのは小鞠だということはわかっているのか、「やぁ小鞠ちゃん」と彼女の顔を見て小さく笑みを浮かる。
「なんだか久しぶりだね。こうやって会うの」
「ね! おにいちゃんは元気だった?」
「うん、元気だけど……」
そこまで続けたキリルは、言葉を止めて小鞠の姿を上から下まで眺めてからぱちぱちと数度瞬きをする。
「あれ、どうしたのその服……?」
「うふふ、あのねーおにいちゃんに相談したいことがあるの! ね、入ってもいい?」
「もちろんそれはいいけど……」
不思議そうな表情を浮かべたキリルの後ろで、彼の長いグレーの尾がゆらゆらと揺れる。
小鞠は待ちきれないとばかりにドアを開けて家に入って、二階にある行き慣れたキリルの部屋へと向かう。
「ところで相談ってどうしたの? あ、わかった。数学の試験の結果がよかったんでしょ」
下からお茶と小鞠の好きなお菓子を持ってきたキリルは、それをテーブルの上に起きながら小鞠に声をかける。
どうやら今日は彼の両親も、そしてメイドたちもいない日のようだった。
「えーっと、それはその~……別の日に追々ね! それとはまた違うこと!」
今日の報告を聞いたらきっと驚くだろうな、と早く言い出したいという気持ちを抑えながら、わざとらしく咳払いをして小鞠は話題を逸らした。
ぽすん、と音をたててベッドに座り込むと、小鞠は部屋を見回す。
広いキリルの部屋は昔から物が少なく、殺風景だ。
昔から趣味といったら、本を読んだり勉強したりすることばかりのようで、そのあたりのキリルの性格は出会った頃から変わらないなと小鞠は思う。
どこか不自然な態度をとる小鞠に、キリルは「え、じゃあなあに?」とこてんと首を傾げてみせる。
普段はクールに見えるキリルが、小鞠の前いる時はどこか無防備な表情を見せるの。それが彼女は好きだった。
そんな彼の顔を見て、せっかくかっこいいんだから彼女でも作ればいいのに、なんて小鞠は思うけれど、その昔、大好きなお兄ちゃんを独占しようと小鞠が駄々を捏ねたことをまだ覚えているのか、小鞠に気を遣っているのか、キリルがあれから新たな恋人を作る気配はない。
──きっと小鞠のことまだまだ子どもだと思って心配してるんだろうなぁ。安心させてあげないと!
小鞠にも恋人ができたのだから、キリルも作ればいいのにな、なんて彼女は思う。
将来はダブルデートなんていうのもおにいちゃんとできるのかな、なんて想像すると、小鞠はとても楽しみで仕方がなかった。
「ね、この服どう思う? 似合う?」
「え?」
「ねえどう!?」
キリルの問いかけに、小鞠はベッドから立ち上がり、その目の前でくるりと一回転してみせる。
カーペットの上に座り込んでいたキリルは目を丸くしながら尻尾をピンッと立ち上がらせる。
「え、あ……えっと、かわ、いいよ……? いや小鞠ちゃんはなんでも似合うけど……」
「ほんと!? おにいちゃんのこと信じるからね!?」
「もうどうしたのさ。なんだかこっちが恥ずかしいんだけど……」
キリルは少し頬を赤らめながら膝にクッションを置いて、そこに顔を埋めながら上目遣いに小鞠を見遣る。
そんな様子を見て、小鞠はにんまりと笑みを浮かべると、ずっと言いたくて我慢していた言葉をキリルに告げる。
「あのね、小鞠に彼氏ができたの!」
「……彼氏?」
「それでね、明日デートでこの服を着て行こうと思うんだけど、変じゃないかおにいちゃんに見てほしくて!」
でもおにいちゃんがそう言ってくれるなら安心した! と小鞠は着ているワンピースの裾を自慢げに持ち上げる。
クリーム色で裾が広がったそれが、ふわりとキリルの前で揺れた。
「……そっかぁ。小鞠ちゃんに彼氏ができたんだ」
「うん、そうなの! だからおにいちゃんもさ、彼女作ったら? 小鞠のクラスメイトもおにいちゃんのことかっこいいって言ってたよ〜」
興奮気味につげる小鞠に、キリルは驚いたように目を一瞬見開いたあと、にこにこといつものように微笑み返す。
「……相手はどんな人?」
「隣のクラスの人! 告白されたの! でもおにいちゃんのほうがかっこいいよ!」
「へえ、そうなんだ」
「あ、そうだ! 写真見せてあげるね!」
上機嫌の小鞠はカバンからスマートフォンを取り出そうと別の方向を向いてしゃがみ込む。
けれどもその耳に、がちゃり、という音が聞こえてきて、小鞠は後ろを振り返る。
そこにはキリルがいつの間にかドアの前に立っていて、ドアノブに手をかけ部屋の中から鍵をかけている姿があった。
「……おにいちゃん? 鍵なんて閉めて、」
どうしたの? と小鞠が続けようしたと同時に、ドアノブに手をかけていたキリルはドアのすぐ横の壁に黙って手を置く。
──バリバリバリッ、と何かを引き裂くような大きな音がした。
いや、実際に引き裂かれたのだ。
シミひとつない綺麗な白い壁紙。
それが猫科の獣人特有の鋭い爪で、無惨に引き裂かれて文字通り大きな爪痕を残してペロリと垂れ下がる。
昔からのキリルは「すぐ伸びちゃうし、鋭いから服に引っかかっちゃうんだよね」と自分の爪を見ながらよく言っていた。
その鋭利な爪が、壁を無残にも引き裂き、惨たらしい傷跡を残している。
「別れて」
けれども、そんなことをしながらもゆっくりと顔をあげたキリルはいつも通りの穏やかな笑みを彼女に向けていた。
「え……?」
──優しいキリルお兄ちゃんは、きっと彼氏報告を一番に喜んでくれると、小鞠は心からそう思っていたのだ。
寂しそうな顔をして驚きながらも、よかったねと小鞠に言ってくれると、彼女はそう思っていた。
キリルがゆっくりと小鞠に近づいてきて、思わず小鞠は後ずさるけれど、すぐに背中が壁にぶつかる。
それはいつも彼が勉強していた机の横。
大きな窓があり、小さい頃の小鞠が登った木がすぐそこから見えている。
ものの数歩で彼女の目の前に立ったキリルは、彼女の両肩にゆっくりと手を置いた。
高校の頃から一気に身長が伸びて、大学生となり、今では百八十センチを越えた長身のキリルと小柄な小鞠では、三十センチ以上の身長差がある。
小鞠の位置からだと、それは完全にキリルを見上げる形となり、その表情を詳しくうかがい知ることはできなかった。
「ねぇ、別れてよ」
ぐっ、と鋭い何かが小鞠の華奢な肩に食い込む。
それが何かなんて、言われなくたってすぐにわかる。
その気になれば小鞠の薄い肌なんてすぐに切り裂けてしまうであろう、キリルの鋭い爪。
「今すぐに」
服の上から少しずつそれが食い込んでいくけれども、小鞠の口からはひゅうひゅうと息が漏れるばかりで、痛いなんて声も出てこない。
「さよならして」
小鞠が恐る恐る見上げた先。薄いグレーの髪の下、半分ほど隠れたエメラルドの瞳が彼女を静かに見下ろしている。
尻尾がゆらゆらと彼の背中で蠢いて、小鞠の顔に時折影を作っていた。
「……僕の言うこと、聞いてくれるよね?」
──ずっと、キリルは小鞠の言うことを聞いてくれた。
小さい頃からずっと、小鞠がどんなわがままを言っても「仕方ないなぁ」と言いながら、小鞠に付き合ってくれたのだ。
だから、これからも、ずっと、ずっと、小鞠の言うことを彼は聞いてくれるのだと思っていた。
「あ……ぁ、あ……っ」
何を言えばいいか、どうしたらいいか。
小鞠は頭が真っ白になってしまって、動けない。
そんな彼女を見たキリルは、何も言わずに小鞠の手にあったスマートフォンを取りあげる。
「ねえ、」
そしてその画面を明るくして、それを再び彼女に差し出した。
キリルは目を細めながら、首をゆっくりと横に傾ける。その目だけは、瞬き一つせずに小鞠だけを見つめながら。
「僕は今まで、小鞠ちゃんの言うことを聞いてきたんだけどなあ」
ひゅう、と心臓が凍り付くような心地がして、息が止まるような感覚を小鞠は覚えた。そのエメラルドから目を逸らすことができなかった。
視界の端に、刻まれた壁の傷が見えている。片方の方には、キリルの手が未だ乗せられていた。
小鞠は数秒で済むところを、数十秒ほど時間をかけながら震える手でスマートフォンの連絡先を開き、明日デートに行く予定の『彼氏』の番号をタップする。
「も……もし、もし……」
すぐに相手との通話が始まった。突然かかってきた電話にも、「あれ、どうしたの?」なんて優しい声で訊いてくれた相手に、小鞠は黙り込む。
「小鞠ちゃん」
頭の上で、キリルが静かな声で彼女の名前を呼ぶ。影がかかった顔から、その目だけがじっと、小鞠を見下ろしている。
「ご、」
小鞠はスマートフォンを握りしめる。そして、息継ぎをせずに一気に電話口の相手に言葉を繋げた。
「ごめん、もう会えない。別れよう。さよなら──」
言い終わる前に、スマートフォンがキリルの手で奪われて通話が切られた。そして乱暴にスマートフォンを床に投げ捨てる。
「よくできたね。偉いね、小鞠ちゃん」
キリルは小鞠の身体を優しく抱き寄せると、その頭を撫でた。
それは昔、小鞠が駄々を捏ねていると「今度はどうしたの?」と困った顔をしながら泣きじゃくる小鞠を撫でてくれた手つきと同じもの。
けれども、その頃のキリルはもういない。戻ってこないのだということを、小鞠は初めて知った。
「う、ぅ……キリル、おに、ちゃ……」
男の腕の中で、小鞠はその服の裾をそっと掴む。足に力が入らなくてガクガクと小さく震えて、涙が止まらなかった。
キリルが抱き留めていなければ、いますぐ床にずるずるとへたりこんでしまっていただろう。
そして、自分がなぜ泣いているのか、彼女自身にもにもよくわからなかった。
彼女の雫でぼやけた視界の中に入っていたのは、壁に残った無残な爪痕と、床に乱暴に投げ捨てられて画面にヒビの入ったスマートフォン。
「……僕が一番好きなのは小鞠ちゃんなんだから、」
そして、抱き寄せられた兄のような男の少しだけ低い体温だけ。
「小鞠ちゃんが一番好きなのも僕じゃなきゃ駄目だよね?」




