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マニュアルキラー 第5部 ~戦争を止める仕様書~  作者: 早野 茂


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第23話「パブリッシャーの認証」

数千キロ離れたパブリッシャーの本部。

無機質で冷たい白で統一された巨大な幹部室の中心に、織部悟はただ一人、静かに立っていた。

彼を取り囲む円滑な大理石の円卓には、パブリッシャーの最上層部を担う最高幹部たちがずらりと並んでいる。

部屋の空気は重く、肌を刺すほどに張り詰めていた。

壁一面の防弾ガラスの向こうには、この巨大な情報組織が密かに支配するメガロポリスの煌びやかな夜景が広がっているが、幹部室の中にその都市の熱気は一切届かない。

織部は自らの論理回路を、極限まで冷静に保っていた。バルカシア地域での独断専行。

本部からの作戦中止命令の明示的な無視。

そして何より、巨大な軍産複合体であるエイレス・コンソーシアムとの関係を決定的に破綻させたこと。

組織の絶対的なルールに照らし合わせれば、織部の行動は完全な「契約違反」であり、システム全体を危機に晒した致命的な「エラー」だ。

いかなる重い処分——組織からの永久追放、あるいは存在そのものの物理的な消去——が下されようと、彼に論理的に反論する余地はない。

織部は無表情のまま、感情のスイッチを切り、彼らの下す最終的な判決(出力)を待っていた。


長い、息が詰まるような沈黙を破ったのは、円卓の中央に座る議長——幹部の筆頭だった。

「エイレス・コンソーシアムとの取引は、完全に破綻した」

議長の低く重厚な声が、冷え切った幹部室に響き渡った。

「奴らの法務チームは我々を公然と非難し、あらゆる水面下での報復措置をチラつかせている。サイバーネットワークへの攻撃の兆候もすでに数十件確認された。我々が被る短期的な損失は、莫大なものになるだろう」

白髪の幹部が、苦虫を噛み潰したような顔で織部を睨みつけた。

織部は何も答えない。

視線を落とすことも、瞬きすらせず、真っ直ぐに前方を見据えている。

それが自分の引き起こした現実のデータだからだ。

「だが」

議長は言葉を区切り、手元のコンソールを静かに操作した。

幹部室の壁面を覆う巨大なメインモニターに、一枚の世界地図が映し出される。

地図の右下、バルカシア地域を中心として、力強い「緑色の光」が明滅していた。

「エイレスとの関係破綻による損失は、すでに計算済みだ。しかし、今回の任務において、お前がもたらした成果はそれをはるかに上回るものだった」

議長が手をかざすと、バルカシアの緑色の光が、世界各地の特定のポイント——現在進行形で泥沼の紛争が続いている地域——へと波及し、連鎖的に点灯していく様子が拡大表示された。

東部の密林地帯、南部の資源紛争地域、北部の国境地帯。

絶望的なまでに赤く染まっていた紛争の火種が、次々と緑色の光に飲み込まれていく。

「バルカシアでの停戦成立は、『決して終わらないはずの戦争が、終わった』という決定的な事実エビデンスを世界に突きつけた。その波及効果は、我々の予測値を完全に凌駕している」

モニターのデータが次々と切り替わる。

各国のニュース映像、国際機関の緊急声明、SNSの解析データ、そして裏社会の巨大な資金の動き。

「『停戦は可能だ』という事実が、他の地域の停戦交渉に連鎖的な影響を与え始めている。エイレス・コンソーシアムが三十年かけて密かに設計し、各地に輸出していた『停戦不可能システム』の構造的欠陥が、バルカシアでの一件をトリガーとして世界中に露呈したのだ。現在、同様の手口でコントロールされている世界中の紛争地域において、各国のメディアや人権団体が一斉にシステムの調査を開始している」

初老の幹部が、感嘆と畏怖の入り交じった息を漏らした。

「エイレスの株価は暴落し、彼らの『戦争ビジネス』の根幹が大きく揺らいでいる。世界を裏側からコントロールする我々パブリッシャーにとっても、これほどまでに強大な社会の『デバッグ』は創設以来初めてのことだ。それは、世界に対する不可逆的な変化だ」

議長はゆっくりと立ち上がり、織部を鋭く見下ろした。

「織部。お前の独断行動は明確な規則違反だ。本来ならば、組織の秩序を乱した罪として、最も重いペナルティが科されるべき事案だ」

織部は一切怯むことなく、議長の目を見返した。

「しかし、お前が出力した結果は、パブリッシャーの歴史上、最大の成果の一つとして認定された」

幹部たちの間に、静かな、だが確かな同意の波が広がっていく。

利益と保身を第一とする彼らでさえ、一人のデバッガーがわずか七十二時間で成し遂げた、このあまりにも巨大な世界の書き換えを前にしては、ひれ伏すしかなかったのだ。

議長は、厳かに、最終的な宣告を下した。

「お前の仕様を、我々は正式に認証《承認》する」

織部の処分は免除され、彼の行動は「正解」としてシステムに深く刻み込まれた。

織部は静かに、一度だけ深く一礼した。

「承知しました」

無機質な声で短くそう答え、織部は踵を返して幹部室を後にした。

それだけだった。

賞賛への喜びも、死の恐怖からの解放への安堵も、彼の歩みや表情には一切表れていなかった。


その夜。

織部は自身の無機質で飾り気のない私室に戻り、一人で暗闇の中に座っていた。

モニターの電源は落とされ、部屋には壁にかかった時計の秒針の音だけが微かに響いている。

パブリッシャーから正式な「認証」を受けた。

彼が組み上げた三つの文書は完璧に機能し、設計通りに戦争を止めた。

自らの命を懸けた任務は百パーセントの成功を収め、世界は次のフェーズへと移行したのだ。

すべてが論理の通りに、完璧に終了した。

だが。

「……何かが、足りない」

織部は自分の手を見つめながら、静かに呟いた。

システムは完全に最適化されたはずなのに、彼の中枢のどこかに、処理しきれない奇妙な「空白」がある。

バルカシアの地で、ダニールやライラと共に命を懸けてシステムと闘っていた時、彼の内側には確かな「熱」が脈打っていた。

巨大な構造を破壊し、彼らの未来を取り戻すための、痛いほどに強く、説明のつかない推進力。

しかし、任務が完了し、安全な本部に戻った今、その熱の行き場が失われてしまったかのような、ぽっかりと穴の空いたような欠落感が彼を包み込んでいた。


脳裏に、朝霧の中でアレクセイ・ヴォルコフが残した呪いのような言葉が静かに蘇る。

『あなたは文書を書き換えるかもしれない。停戦を成立させるかもしれない。だが六ヶ月後、一年後、誰かがまた欠陥を仕込む。人間の欲望は終わらない。……あなたも、いつかそれを知る』

ヴォルコフの言葉は、冷酷な現実のデータだ。

エイレス・コンソーシアムは深手を負ったが、組織として完全に消滅したわけではない。

彼らの莫大な資本と権力は依然として存在している。

人間の欲望と権力というバグが存在する限り、世界は再び「終わらない戦争の仕様書」を書き上げるだろう。

……。

織部は目を閉じ、バルカシアの空を思い浮かべた。

永遠に鳴り止まないと思われた砲声が止み、深い静寂が訪れたあの瞬間。

「……それでも今日は、止まった」

織部の口から、微かな声がこぼれ落ちた。

半年後、どうなるかは計算できない。

一年後、また誰かが欠陥を仕込むかもしれない。

だが、ダニールが泥まみれの手で敵兵の手を握った。

ライラが安堵の涙を流して老人の心音を聴いた。

マリアの子供たちが、銃声のない空の下で笑い合った。

あの不確実な変数たちが自らの意志でもぎ取った「今日」という奇跡のような結果を、自分たちは確かにシステムに出力させたのだ。

もし、そのちっぽけな「今日」を一つずつ積み重ねていくことができれば、いつかシステム全体に、不可逆的な大きな変化をもたらすことができるのかもしれない。

織部は胸の奥にそっと手を当てた。

そこには、かつて「エラー」として処理しようとした、あの小さな微熱が、消えずにまだ静かに燻っていた。

パブリッシャーは自分の行動を最大の「成果」として認証した。

だが、織部自身の中にある、あの名もなき人間たちの「熱」に触れて芽生えたこの感覚だけは、パブリッシャーのどんな仕様書にも定義されていない。

この「何か」の名前が、今の織部にはまだわからなかった。


冷徹なデバッガーは、暗闇の中で静かに目を開いた。

言語化できないものは、処理できない。

処理できないものは、残り続ける。

自分が完璧な機械から、バグを抱えた一つの不完全なシステムへと変容してしまったことを、織部は静かに受け入れていた。

それが何を意味するのかを探るため、彼は次の世界コードを待ち受けるように、深く静かな呼吸を繰り返した。

【マニュアルキラーシリーズ】

マニュアルキラー 第1部

 〜その「説明書」を信じてはいけない〜

https://ncode.syosetu.com/n4289lo/

マニュアルキラー 第2部

 ~校正なき改竄~

https://ncode.syosetu.com/n4641ls/

マニュアルキラー 第3部

 ~不適切な運用に関する修正履歴~

https://ncode.syosetu.com/n4150lw/

マニュアルキラー 第4部

 ~源流…~

https://ncode.syosetu.com/n7895mb/

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