第9話 最初の標的
ローゼンベルク公爵領を監査対象に指定する――その決定は、紙の上では一行で済む。だが現実では、その一行が王国中に波紋を広げる。
翌朝、エリシアの執務室には、通常より早い時間から人の出入りがあった。
「財務部より照会です」
「貴族院から抗議文が届いています」
「公爵家側から、“事前説明が不足している”との申し入れが」
書記官が淡々と読み上げるたび、机の上に紙が積み重なっていく。どれも文面は丁寧だ。だが共通しているのは一点。
――やめろ。
エリシアは最後の書類に目を通し、ゆっくりと閉じた。
「想定内ですね」
オスカーが苦い顔をする。
「想定内、で済ませられる規模ではありません。公爵家ですよ」
「だからこそです」
エリシアは立ち上がり、地図の前に立った。
「公爵領は、王国最大の穀倉地帯です。補助金の額も大きい。帳簿が綺麗であれば、何の問題もありません」
「綺麗でなければ?」
「監査するだけです」
その言い方が、逆に重い。
リーゼが静かに口を開いた。
「現地に入る人員は?」
「最小限で」
エリシアは即答した。
「私と、オスカー。補助にリーゼ。記録係を一名」
「危険では?」
「人数を増やすと、情報が漏れます」
敵はすでに警戒している。正面から大軍で行けば、帳簿は“整えられる”。
(整えられる前の数字が欲しい)
エリシアは、そう判断していた。
王城を出る馬車の中で、オスカーは窓の外を見つめたまま言った。
「あなたは……怖くないのですか」
「怖いですよ」
即答だった。
「ですが、恐怖は数値化できます」
「……どういう意味です」
「失敗した場合の損失。成功した場合の利益。どちらも見積もれる」
エリシアは、膝の上の資料を指で押さえた。
「この監査が失敗すれば、私は職を失うでしょう。最悪の場合、命も」
「それを分かっていて?」
「分かっているから、やります」
オスカーは言葉を失った。
公爵領に到着したのは、昼過ぎだった。
立派な領主館。整備された街道。豊かな穀物倉。外から見れば、非の打ち所がない。
「歓迎いたします」
出迎えたのは、公爵家の財務代行だった。柔らかな笑み。だが目は笑っていない。
「突然の監査とは、驚きましたが……公爵様は王国に忠実です」
「承知しています」
エリシアは礼を返した。
「だからこそ、形式的な確認で終わるでしょう」
その一言に、男の笑みが一瞬だけ硬くなる。
案内された執務室で、帳簿が並べられた。新しい。あまりにも新しい。
(……間に合った、という顔)
エリシアは一冊目を開き、二行読んで閉じた。
「この帳簿は、昨日付ですね」
「はい。整理したばかりで」
「では、こちらを」
彼女は別の帳簿を指した。
「三年前の原本を」
財務代行の指が、僅かに止まる。
「……保管庫にありますが、少々時間が」
「待ちます」
短く言い切る。
沈黙が落ちた。
やがて運ばれてきた原本は、紙の色が違った。修正の跡も、隠しきれていない。
エリシアは、ページをめくりながら言った。
「補助金の免除理由が、年度ごとに変わっていますね」
「地方の事情です」
「では、なぜ理由の文言が、全て同じ表現なのでしょう」
財務代行は答えなかった。
オスカーが横から補足する。
「災害年ではありません。収穫量も安定している」
リーゼが記録を取り続ける。
エリシアは、決定打を置いた。
「免除額の端数処理が、王都商会基準です」
男の顔から、血の気が引いた。
「地方の帳簿で、中央基準を使う理由を説明してください」
説明は、なかった。
その瞬間、エリシアは確信する。
(ここは、象徴だ)
公爵家は特別ではない。むしろ“中心”に近いだけだ。ここで起きていることは、他でも起きている。
監査は、始まったばかりだ。
だがこの一日で、十分だった。
王国最大級の貴族の帳簿が、嘘をついている。
それを、王国が公式に確認したのだから。
エリシアは帳簿を閉じ、告げた。
「正式な調査に移行します」
その言葉は、宣戦布告だった。
結婚を断った令嬢は、ついに王国の“聖域”に踏み込んだ。
もう、誰にも止められない。
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