第8話 監査という名の戦場
王国財務監査特別補佐官――その肩書きが、どれほど危うい立場かを、エリシアは就任初日の朝にはっきりと思い知った。
王城内に新たに割り当てられた執務室は、広くも豪奢でもない。だが位置が問題だった。財務部と監査局の中間。どちらにも近く、どちらにも完全には属さない。
(逃げ場がない配置)
机の上には、すでに積み上げられた書類の山。王国各地の収支報告、補助金の申請書、過去十年分の監査要約。量だけで言えば、臨時監査補助課の比ではない。
扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、オスカー・ラインハルトだった。今日は監査官としての制服を着ている。だが表情は硬い。
「……改めて。就任、おめでとうと言うべきか、分かりませんが」
「お祝いの言葉は不要です」
エリシアは椅子に腰掛けたまま答えた。
「状況説明をお願いします」
オスカーは一瞬だけ苦笑し、資料を差し出した。
「すでに反応が出ています。財務部から三件、貴族院から二件。『監査権限の越権ではないか』という照会です」
「早いですね」
「あなたが思っている以上に、敵は多い」
それは忠告というより、事実報告だった。
エリシアは資料に目を通しながら、淡々と言う。
「越権ではありません。国王直属ですから」
「理屈では、そうです」
オスカーは声を低くした。
「ですが政治は、理屈で殴ると反撃されます」
「反撃されない距離まで、近づく必要がありますね」
オスカーは、何も言い返さなかった。
そこへ、もう一人の人物が入室した。
「失礼いたします」
女性文官――リーゼ・バウマン。書類を抱え、姿勢は落ち着いている。
「本日より、監査補佐として配置されました」
「よろしくお願いします」
エリシアは視線を上げた。
「既婚で、子が二人おります。ですが仕事は続けています」
リーゼは、少しだけ微笑んだ。
「結婚が人生の全てではありませんので」
その一言に、オスカーがわずかに驚いた顔をする。
エリシアは、静かに頷いた。
「心強いです」
――チームは、最小限。
だが、それでいい。数は増やせるが、信頼は増やせない。
「最初の案件ですが」
オスカーが切り出す。
「監査局としては、地方七地区の免除処理を同時に洗うのは危険だと考えています。反発が――」
「一点に絞りましょう」
エリシアは即答した。
「象徴になる場所を」
「象徴?」
「はい」
彼女は、地図を広げた。王都から北西に位置する一領地。
「ローゼンベルク公爵領です」
室内の空気が、凍りついた。
オスカーが息を呑み、リーゼが一瞬だけ目を伏せる。
「……正気ですか」
オスカーの声が低くなる。
「最初に手を出す相手ではありません」
「だからです」
エリシアは、淡々と答えた。
「最初だからこそ、象徴になる」
小物を摘んでも、構造は変わらない。だが象徴を揺らせば、全体が動く。
「公爵家は、財務・交易・補助金のすべてに関与しています。ここを監査対象に指定すれば、王国全体に波及します」
「敵に回せば、あなたは終わる」
「終わらせないために、王直属なのです」
その言葉に、リーゼが小さく息を吐いた。
「……筋は通っています」
「リーゼ?」
「反発が大きい分、成功すれば効果も大きい」
彼女は、はっきりと言った。
「中途半端な改革は、現場を疲弊させるだけです」
オスカーは二人を見比べ、やがて観念したように頷いた。
「……分かりました。ですが条件があります」
「何でしょう」
「証拠は、完璧に揃える。感情論を一切挟ませない」
「同意します」
エリシアは言った。
「感情は、敵に使わせればいい」
その瞬間、外で鐘が鳴った。
王城の時を告げる音。だがエリシアには、それが開戦の合図に聞こえた。
結婚を断った令嬢は、いまや王国最大級の貴族を監査対象に据えようとしている。
誰もが言うだろう。
――無謀だ、と。
だがエリシアは知っている。
無謀かどうかを決めるのは、感情ではない。
数字だ。
第2章は、静かに、しかし確実に動き出した。




