第7話 後戻りはできない
王城からの使者が来たのは、翌朝だった。
臨時監査補助課にいるはずのない人物――王宮書記官が、名指しでエリシアを呼びに来た。周囲の文官たちが一斉に視線を逸らす。その反応だけで、ただ事ではないと分かる。
「クラウゼ伯爵令嬢。至急、王城へ」
理由は告げられなかった。告げる必要がないほど、皆が察している。
エリシアは机の上を整え、椅子を戻し、静かに立ち上がった。足取りは変わらない。だが、ここから先は“戻れる場所”が変わる。
(ついに、表に出る)
王城の応接間は、第1話で訪れた場所とは別だった。より奥。より静か。逃げ場のない空間だ。
待っていたのは三人。
ローデリヒ国王。ヴィルヘルム宰相。そして、監査局代表として立つオスカー・ラインハルト。
国王は、疲れた顔をしていた。だが目は鋭い。何かを決断する直前の目だ。
「エリシア・フォン・クラウゼ」
「お呼びでしょうか、陛下」
膝を折り、礼をする。だが頭は下げすぎない。卑屈は、交渉の場では不利になる。
「率直に聞こう」
国王は前置きを省いた。
「王国財政に、不正はあるか」
「あります」
即答だった。
宰相の眉が跳ね、書記官が息を呑む。オスカーは、視線を伏せたままだ。
「規模は」
「地方単位ではありません。構造です」
国王は、深く息を吐いた。
「……監査局からも、同様の報告が上がっている」
つまり、もう逃げ道はない。
「なぜ、それが可能だった」
エリシアは、一歩踏み出した。
「帳簿の確認が、形式に留まっていたからです。合計値だけを見て、内訳を横断しない。年度ごと、部署ごとに切り分けることで、全体像が見えなくなっていました」
「意図的か?」
「はい」
断言すると、空気が張る。
「誰が」
「現時点では特定できません。ただし」
エリシアは言葉を選んだ。
「一人ではありません。個人ではなく、複数が関与し、長期にわたって運用されてきた仕組みです」
宰相が口を挟んだ。
「それはつまり、王国中枢に手を入れるということだぞ」
「承知しています」
「貴族も、官僚も、無傷では済まぬ」
「承知しています」
同じ言葉を、三度目に使う。
国王は、しばらくエリシアを見つめていた。その視線は、値踏みだ。能力、覚悟、そして――扱えるかどうか。
「お前は、結婚を断ったな」
「はい」
「なぜだ」
今さらの問いだった。だが、ここでの答えは意味を持つ。
「結婚は、私の人生設計に含まれていなかったからです」
国王は、わずかに口角を上げた。
「ならば聞こう。今、お前に提示できる役目は、さらに重い」
書記官が一歩前に出て、文書を差し出す。
「王国財務監査特別補佐官。直属は、国王」
その肩書きが意味するものを、エリシアは即座に理解した。
権限がある。だが守りは薄い。失敗すれば、すべてを背負わされる立場だ。
「この役目を受ければ」
国王は続ける。
「貴族としての“保護”は期待できぬ。敵も増える。命の保証もない」
「承知しています」
まただ、と宰相が苦笑した。
「断ることもできる」
国王の声は、意外なほど静かだった。
「その場合、この件は段階的に処理し、表には出さぬ。お前は元の部署に戻る」
安全な選択肢。だが、それは“なかったこと”にする選択でもある。
エリシアは、文書に手を伸ばした。
指先が、封印に触れる。
結婚を断った日と、同じ感覚だった。怖さはある。だが、怖さは判断を奪わない。
「お受けします」
即答だった。
宰相が目を細め、国王が小さく息を吐く。
「理由は」
エリシアは、文書から目を離さずに答えた。
「後戻りできない場所に立たなければ、この国は変わりません」
それは、英雄的な言葉ではない。計算結果だ。
国王は頷いた。
「よかろう」
その瞬間、何かが切り替わった。
エリシア・フォン・クラウゼは、もはや“問題のある令嬢”ではない。王国の中枢に触れる存在になった。
王城を出ると、空は高かった。
風が冷たい。だが、足元は不思議と安定している。
(選んだ)
結婚しない人生。依存しない人生。そして――逃げない人生。
それは孤独かもしれない。だが、自分の足で立っている限り、崩れ方は自分で選べる。
王国の帳簿は、これから本気で抵抗してくるだろう。
エリシアは、歩き出した。
第1章は、ここで終わる。
――そして、本当の仕事が始まる。




