第5話 仕込まれた帳簿
その帳簿は、古い。
紙の色が違う。製本の仕方も違う。頁をめくる指先に、湿気を吸った繊維のざらつきが残る。周囲の帳簿が均一な形式で揃えられている中で、その一冊だけが妙に浮いていた。
(意図的)
エリシアは印を付けた箇所を開き、まずは全体の構造を把握する。見出し、項目、計算方式。古い形式ゆえに、現在よりも記載が粗い。だが粗いということは、隠す余地が少ないということでもある。
合計額は合っている。
――だからこそ厄介だ。
数字の嘘は、合計を崩さない。内訳だけを歪める。帳簿を読む者が「合っている」で思考を止めた瞬間に勝つ。
エリシアは、止まらない。
免除。補填。支払い期日のズレ。端数処理の癖。前に見つけた“同じ癖”が、ここにもある。しかも今回は、より露骨だった。免除額の増減が、理由ではなく「人」に紐づいている。
(管理者の署名……)
署名の横に添えられた印章が、三度同じ人物のものになっている。担当替えがあったはずの年度にも、同じ印。書類上は別の担当名が記載されているのに、判子だけが同じ。
つまり、名義貸し。
エリシアはペン先を紙に落とし、必要な箇所だけを抜き出していく。余計な推測は書かない。書くのは事実だけ。誰が見ても逃げられない形。
――そして、ここで重要なのは「どう報告するか」だった。
前回の件は揉み消された。今回も同じ報告ルートに乗せれば、同じ結末になる。では、どこに投げるべきか。
(上司を飛ばす)
臨時監査補助課の責任者に出せば、握り潰される可能性が高い。別部署の文官に言えば、「空気」で消される。
ならば――。
エリシアは立ち上がり、帳簿と抜粋を抱えたまま廊下に出た。目的地は一つ。財務部内で、書類に“責任を持たざるを得ない”部署。
監査局。
扉の前に立つと、衛兵代わりの書記官が怪訝そうな顔をした。
「用件は」
「臨時監査補助課所属、エリシア・フォン・クラウゼです。監査局宛に提出したい資料があります」
「……臨時が?」
「はい」
書記官は露骨に渋い顔をしたが、エリシアの身分証と提出文書を見て、しぶしぶ通した。王命で出仕している以上、完全には拒めない。
案内された先にいたのは、若い監査官――オスカー・ラインハルトだった。
机の上に書類を積み、眼鏡の奥の目は疲れている。だが、その疲れは怠慢ではなく、仕事量のものだ。
「……クラウゼ伯爵令嬢」
名を呼ばれた瞬間、彼の声音にわずかな警戒が混じった。貴族。しかも王命を断った“例の令嬢”。面倒の匂いがするのだろう。
「何の用ですか」
エリシアは席に着く前に、資料を差し出した。
「一点、監査局に確認していただきたい帳簿があります」
「臨時監査補助課の案件は、まず課長経由で――」
「経由すると消える可能性があります」
オスカーの眉が跳ねた。
「……根拠は」
「前例です」
短く言って、エリシアは抜粋した事実を示す。税免除の処理、署名と印章の不一致、名義貸しの疑い。余計な感情は排し、数字と形式の矛盾だけを並べた。
オスカーは最初こそ不機嫌そうに目を走らせていたが、三枚目を超えたあたりで、明らかに表情が変わった。
声が低くなる。
「……これは」
「合計額は整っています。ですが、内訳の処理が意図的です」
「印章が同じ……」
彼の指が、紙の上で止まる。
「担当替えがあった年に、同じ印が押されている。つまり、権限を持つ者が帳簿を一元的に扱っている可能性がある」
オスカーは、そこで初めてエリシアを見た。
貴族令嬢ではなく、提出者として。
「君は……これをどこで」
「配属帳簿の中に混ざっていました」
「混ざっていた?」
「はい。形式が古いのに、意図的に一冊だけ回されてきました」
オスカーは黙った。視線が一瞬だけ遠くに行く。その沈黙は、理解と警戒の混合だった。
(試し玉、か)
誰かがエリシアを試した。見つけるか、見逃すか。見つければ「危険人物」と確定し、見逃せば「扱いやすい」と判断される。
そして彼女は、拾った。
オスカーは資料を机に揃え、深く息を吐いた。
「……分かりました。こちらで正式に確認します」
「お願いします」
「ただし」
彼の目が鋭くなる。
「この件に、あなたが関わっていたことは表に出せません。下手をすれば、あなたが消される」
脅しではない。事実の忠告だ。
エリシアは静かに頷いた。
「承知しています」
「怖くないのですか」
オスカーの問いは、半分だけ個人的だった。
エリシアは即答しなかった。怖さがないわけではない。だが怖さは、理由にはならない。
「怖いです」
正直に言う。
「ですが、怖いからといって見ない理由にはなりません」
オスカーは一瞬だけ目を細め、そして表情を戻した。
「……合理的ですね」
「はい」
「あなたの“合理”は、時に命取りになります」
「承知しています」
同じ言葉を繰り返す。逃げないための言葉。
提出を終えて廊下に出た瞬間、背筋に視線が刺さった。振り返っても誰もいない。だが“見られている”感覚は消えない。
午後、臨時監査補助課に戻ると、課の責任者の男が珍しく慌ただしくしていた。机の上の書類が散り、額に汗が浮いている。
エリシアが席に着く前に、男が呼んだ。
「クラウゼ伯爵令嬢!」
「はい」
「君は……どこに何を出した」
声が震えている。苛立ちではない。焦りだ。
エリシアは、淡々と答えた。
「監査局に、確認資料を提出しました」
「……勝手なことを!」
男は机を叩いた。周囲が息を呑む。
「報告の手順があるだろう!」
「手順が機能していない前例があります」
事実を置くと、男の顔がさらに歪んだ。
「君は自分が何をしたか分かっているのか。監査局が動けば、こちらに照会が来る。誰が責任を取ると思っている!」
「責任は、記載した担当者が取るべきです」
男の目が見開かれる。
その言葉は、臨時監査補助課の空気にとって禁句だった。ここでは責任は回避されるもの。誰も背負わない。背負った人間から消える。
だが、エリシアは背負わない。背負わせる。正しい場所に戻す。
男は唇を震わせ、低い声で吐き捨てた。
「……貴族の癖に、正義感でも気取っているのか」
「正義感ではありません」
エリシアは静かに首を振った。
「帳簿は嘘をつきません。嘘をつくのは、人です」
その瞬間、男の背後の扉が開いた。
現れたのは、監査局の書記官だった。硬い表情で紙を一枚差し出す。
「臨時監査補助課責任者殿。監査局より照会です。至急、対象帳簿の原本提出を」
男の顔から血の気が引いた。
空気が止まる。
エリシアは、その様子をただ見ていた。
ざまあ、ではない。
ただ、数字が当然の帰結を連れてきただけだ。
だが読者にとっては、胸の奥で小さな火が灯る瞬間でもある。
ここは“何もしないことで生き残る場所”だと教えた空気が、初めて揺らいだ。
そしてエリシアは確信する。
――仕込まれた帳簿は、罠ではなかった。
罠に見せかけた「入口」だ。
王国の歪みは、思ったよりも深い。




