表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
結婚は人生のリスク管理に含まれませんので ~結婚を断った令嬢は、王国の帳簿を黙って直すことにした~  作者: 霧島 結衣


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/21

第5話 仕込まれた帳簿

 その帳簿は、古い。


 紙の色が違う。製本の仕方も違う。頁をめくる指先に、湿気を吸った繊維のざらつきが残る。周囲の帳簿が均一な形式で揃えられている中で、その一冊だけが妙に浮いていた。


(意図的)


 エリシアは印を付けた箇所を開き、まずは全体の構造を把握する。見出し、項目、計算方式。古い形式ゆえに、現在よりも記載が粗い。だが粗いということは、隠す余地が少ないということでもある。


 合計額は合っている。


 ――だからこそ厄介だ。


 数字の嘘は、合計を崩さない。内訳だけを歪める。帳簿を読む者が「合っている」で思考を止めた瞬間に勝つ。


 エリシアは、止まらない。


 免除。補填。支払い期日のズレ。端数処理の癖。前に見つけた“同じ癖”が、ここにもある。しかも今回は、より露骨だった。免除額の増減が、理由ではなく「人」に紐づいている。


(管理者の署名……)


 署名の横に添えられた印章が、三度同じ人物のものになっている。担当替えがあったはずの年度にも、同じ印。書類上は別の担当名が記載されているのに、判子だけが同じ。


 つまり、名義貸し。


 エリシアはペン先を紙に落とし、必要な箇所だけを抜き出していく。余計な推測は書かない。書くのは事実だけ。誰が見ても逃げられない形。


 ――そして、ここで重要なのは「どう報告するか」だった。


 前回の件は揉み消された。今回も同じ報告ルートに乗せれば、同じ結末になる。では、どこに投げるべきか。


(上司を飛ばす)


 臨時監査補助課の責任者に出せば、握り潰される可能性が高い。別部署の文官に言えば、「空気」で消される。


 ならば――。


 エリシアは立ち上がり、帳簿と抜粋を抱えたまま廊下に出た。目的地は一つ。財務部内で、書類に“責任を持たざるを得ない”部署。


 監査局。


 扉の前に立つと、衛兵代わりの書記官が怪訝そうな顔をした。


「用件は」


「臨時監査補助課所属、エリシア・フォン・クラウゼです。監査局宛に提出したい資料があります」


「……臨時が?」


「はい」


 書記官は露骨に渋い顔をしたが、エリシアの身分証と提出文書を見て、しぶしぶ通した。王命で出仕している以上、完全には拒めない。


 案内された先にいたのは、若い監査官――オスカー・ラインハルトだった。


 机の上に書類を積み、眼鏡の奥の目は疲れている。だが、その疲れは怠慢ではなく、仕事量のものだ。


「……クラウゼ伯爵令嬢」


 名を呼ばれた瞬間、彼の声音にわずかな警戒が混じった。貴族。しかも王命を断った“例の令嬢”。面倒の匂いがするのだろう。


「何の用ですか」


 エリシアは席に着く前に、資料を差し出した。


「一点、監査局に確認していただきたい帳簿があります」


「臨時監査補助課の案件は、まず課長経由で――」


「経由すると消える可能性があります」


 オスカーの眉が跳ねた。


「……根拠は」


「前例です」


 短く言って、エリシアは抜粋した事実を示す。税免除の処理、署名と印章の不一致、名義貸しの疑い。余計な感情は排し、数字と形式の矛盾だけを並べた。


 オスカーは最初こそ不機嫌そうに目を走らせていたが、三枚目を超えたあたりで、明らかに表情が変わった。


 声が低くなる。


「……これは」


「合計額は整っています。ですが、内訳の処理が意図的です」


「印章が同じ……」


 彼の指が、紙の上で止まる。


「担当替えがあった年に、同じ印が押されている。つまり、権限を持つ者が帳簿を一元的に扱っている可能性がある」


 オスカーは、そこで初めてエリシアを見た。


 貴族令嬢ではなく、提出者として。


「君は……これをどこで」


「配属帳簿の中に混ざっていました」


「混ざっていた?」


「はい。形式が古いのに、意図的に一冊だけ回されてきました」


 オスカーは黙った。視線が一瞬だけ遠くに行く。その沈黙は、理解と警戒の混合だった。


(試し玉、か)


 誰かがエリシアを試した。見つけるか、見逃すか。見つければ「危険人物」と確定し、見逃せば「扱いやすい」と判断される。


 そして彼女は、拾った。


 オスカーは資料を机に揃え、深く息を吐いた。


「……分かりました。こちらで正式に確認します」


「お願いします」


「ただし」


 彼の目が鋭くなる。


「この件に、あなたが関わっていたことは表に出せません。下手をすれば、あなたが消される」


 脅しではない。事実の忠告だ。


 エリシアは静かに頷いた。


「承知しています」


「怖くないのですか」


 オスカーの問いは、半分だけ個人的だった。


 エリシアは即答しなかった。怖さがないわけではない。だが怖さは、理由にはならない。


「怖いです」


 正直に言う。


「ですが、怖いからといって見ない理由にはなりません」


 オスカーは一瞬だけ目を細め、そして表情を戻した。


「……合理的ですね」


「はい」


「あなたの“合理”は、時に命取りになります」


「承知しています」


 同じ言葉を繰り返す。逃げないための言葉。


 提出を終えて廊下に出た瞬間、背筋に視線が刺さった。振り返っても誰もいない。だが“見られている”感覚は消えない。


 午後、臨時監査補助課に戻ると、課の責任者の男が珍しく慌ただしくしていた。机の上の書類が散り、額に汗が浮いている。


 エリシアが席に着く前に、男が呼んだ。


「クラウゼ伯爵令嬢!」


「はい」


「君は……どこに何を出した」


 声が震えている。苛立ちではない。焦りだ。


 エリシアは、淡々と答えた。


「監査局に、確認資料を提出しました」


「……勝手なことを!」


 男は机を叩いた。周囲が息を呑む。


「報告の手順があるだろう!」


「手順が機能していない前例があります」


 事実を置くと、男の顔がさらに歪んだ。


「君は自分が何をしたか分かっているのか。監査局が動けば、こちらに照会が来る。誰が責任を取ると思っている!」


「責任は、記載した担当者が取るべきです」


 男の目が見開かれる。


 その言葉は、臨時監査補助課の空気にとって禁句だった。ここでは責任は回避されるもの。誰も背負わない。背負った人間から消える。


 だが、エリシアは背負わない。背負わせる。正しい場所に戻す。


 男は唇を震わせ、低い声で吐き捨てた。


「……貴族の癖に、正義感でも気取っているのか」


「正義感ではありません」


 エリシアは静かに首を振った。


「帳簿は嘘をつきません。嘘をつくのは、人です」


 その瞬間、男の背後の扉が開いた。


 現れたのは、監査局の書記官だった。硬い表情で紙を一枚差し出す。


「臨時監査補助課責任者殿。監査局より照会です。至急、対象帳簿の原本提出を」


 男の顔から血の気が引いた。


 空気が止まる。


 エリシアは、その様子をただ見ていた。


 ざまあ、ではない。


 ただ、数字が当然の帰結を連れてきただけだ。


 だが読者にとっては、胸の奥で小さな火が灯る瞬間でもある。


 ここは“何もしないことで生き残る場所”だと教えた空気が、初めて揺らいだ。


 そしてエリシアは確信する。


 ――仕込まれた帳簿は、罠ではなかった。


 罠に見せかけた「入口」だ。


 王国の歪みは、思ったよりも深い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ