第4話 評価しないという評価
税免除の一時停止から三日が経った。
臨時監査補助課の空気は、微妙に変わっていた。目に見えるほどではない。だが、確実に何かが違う。視線が増え、会話が減り、書類の受け渡しが慎重になる。
エリシアはそれを、淡々と観察していた。
(反応が早い)
王国という組織は鈍重だが、利害に触れた部分だけは異様に敏感だ。小さな免除の停止。それだけで、これだけの緊張が走る。
つまり――。
(触れてはいけない場所だった)
朝の業務連絡の後、課の責任者である男がエリシアを呼び止めた。
「クラウゼ伯爵令嬢」
「はい」
執務室に入ると、男は書類を机に広げたまま、視線だけを向けてくる。
「先日の件だがな」
「はい」
「再確認の結果、問題なしという判断になった」
予想通りだった。
表向きは不問。誰も責任を取らない。誰も不正とは言わない。ただ“問題なし”という言葉で、すべてを曖昧にする。
「承知しました」
エリシアは頷いた。それ以上は言わない。
男は、少しだけ拍子抜けしたような顔をした。反論されると思っていたのだろう。
「……君は、納得しているのか」
「判断が下った以上、従います」
それは従順ではない。ただの事実確認だ。
男は咳払いをし、話題を変えた。
「それとだ。君には今後、帳簿の横断確認は任せない」
来た。
「理由を伺っても?」
「効率が悪い」
即答だった。理由はそれだけ。
「君は、単年度の確認に集中してくれ。他の業務は、こちらで振り分ける」
つまり、視野を狭める。繋がりを見せない。点だけを追わせる。
「分かりました」
エリシアは静かに答えた。
男の目が、僅かに細くなる。
「……聞き分けがいいな」
「業務命令ですので」
それ以上の感情は、どちらからも出なかった。
席に戻ると、机の上に新しい帳簿が積まれていた。単年度、単地区。切り分けられた数字たち。
(評価しない、という評価)
成果を認めない。だが追い出しもしない。使い潰すには、十分すぎる環境だ。
エリシアは帳簿を開いた。
――問題はない。
正確に言えば、“この一冊だけ見れば”問題はない。数字は整い、端数処理も自然だ。昨日まで見ていた歪みは、ここにはない。
(手直しが入っている)
誰かが、帳簿を“学習”した。
彼女は、ペンを止めた。
(つまり、見られている)
臨時監査補助課という辺境の席であっても、完全な死角ではない。むしろ、ここを気にする者がいるという事実が、何よりの収穫だった。
昼休憩。
食堂で席を探していると、背後から声がした。
「……あんたが、例の伯爵令嬢か」
振り返ると、別部署の文官らしき男が立っていた。年齢は三十代半ば。表情は友好的とは言い難い。
「そうですが」
「余計なことをするな」
直球だった。
「上が困る。現場が混乱する。結果として、あんたの立場も悪くなる」
善意を装った忠告。だが、内容は脅しに近い。
エリシアは一拍置いて答えた。
「業務範囲内の確認しかしておりません」
「境界線は、空気で決まる」
男は低い声で言った。
「読めないなら、ここでは長くない」
言い捨てて去っていく背中を、エリシアは追わなかった。
(空気で決まる、か)
曖昧で、便利な言葉だ。だがそれは、責任を持たない者の論理でもある。
午後、帳簿を確認していると、年配の文官がそっと近づいてきた。
「……気をつけろ」
「はい」
「ここはな、何もしないことで生き残る場所だ」
「存じています」
「それでもやるなら……覚悟がいる」
エリシアは、視線を上げた。
「覚悟なら、最初から持っています」
結婚を断った時点で、後戻りはない。安全な道は選ばなかった。
その日の業務終了間際、別の部署から一冊の帳簿が回ってきた。単年度。だが、なぜか形式が古い。
(……これは)
違和感が、再び指先に走る。
同じだ。癖が同じ。修正されていない、古い形式。意図的に混ぜられた可能性が高い。
(試されている)
見逃すか。拾うか。
エリシアは、迷わなかった。
帳簿の端に、小さく印を付ける。
評価されなくてもいい。敵視されてもいい。
数字が嘘をついている限り、見る。
それが、彼女の選んだ人生設計だった。
その夜、王国財務部のどこかで、誰かが小さく舌打ちをした。
臨時監査補助課に送ったはずの伯爵令嬢は、思ったより静かで、思ったより厄介だった。




