第3話 偶然ではありません
臨時監査補助課の朝は静かだ。
正確には、活気がない。紙をめくる音、咳払い、遠くで鳴る鐘の音。誰も急いでいないし、誰も期待されていない。ここに配属された時点で、半ば“終わった人間”として扱われる。
エリシアに割り当てられた机も、窓際ではなかった。光の届きにくい場所。書類の山に囲まれ、外界から切り離されたような席だ。
だが、彼女にとって環境は問題ではなかった。
(静かで、いい)
集中できる。感情に割り込まれない。数字の声だけが聞こえる。
前日から目を通している地方税の帳簿は、すでに三年分。表向きはどれも「問題なし」とされている。実際、合計額は合っている。報告書も整っている。
それでも、違和感は消えなかった。
エリシアは紙の端に小さな印を付けながら、同じ項目を横断的に比べていく。徴税額。免除額。補填金。年ごとの変動。
(免除の基準が、揺れている)
自然災害があった年なら分かる。戦費増大の年も理由になる。だが、何もない年に限って免除が増えている地区がある。しかも、その地区は毎年同じ。
偶然ではない。
ペン先が止まったところで、背後から声がした。
「まだ真面目に見てるのか」
振り返ると、昨日案内してきた年配の文官が立っていた。呆れと、少しの気遣いが混ざった顔だ。
「真面目に見ても、ここは変わらんぞ。報告しても、上は読まん」
「承知しています」
エリシアは視線を帳簿に戻したまま答えた。
「ですが、見ない理由にもなりません」
文官は肩をすくめた。
「若いな」
それは評価ではなく、諦めの言葉だ。
昼過ぎ、エリシアは一枚の紙をまとめ上げた。数字は少ない。指摘も一件だけ。だが内容は明確だった。
――特定地区における不自然な税免除。
金額は小さい。王国全体から見れば、誤差と切り捨てられる程度。だが、継続性がある。そして何より、帳簿の付け方が意図的だ。
エリシアはそれを持って、課の責任者である男の机の前に立った。
「失礼します」
男は顔を上げ、露骨に眉をひそめた。
「……君か。クラウゼ伯爵令嬢」
肩書きを外さないのは、距離を示すためだ。
「何か?」
「確認していただきたい点があります」
差し出された紙に、男は一瞥をくれただけで鼻を鳴らした。
「免除額? それなら前からそうだ。地方の事情だろう」
「理由の記載がありません」
「いちいち書かん」
「記載しない理由は?」
男の視線が、ゆっくりとエリシアに戻る。
「……君は監査補助だ。判断はしなくていい」
「では、判断できる方に回してください」
一瞬、沈黙が落ちた。
周囲の文官たちが、様子を窺うように視線を向けてくる。新参が、余計な仕事を持ち込んでいる。その空気は明確だった。
男は紙を取り、乱暴に目を通す。
「……金額が小さすぎる。これを問題にするなら、他にも山ほどある」
「はい」
エリシアは即答した。
「ですので、まずはこれを一例として扱ってください。構造が同じなら、他も同様に確認できます」
「構造?」
男の声に、苛立ちが混じる。
「偶然ではありません。この免除は、同一形式で処理されています。年度ごとの担当が違うにも関わらずです」
男は舌打ちし、紙を机に置いた。
「……君は、何が言いたい」
「不正の可能性です」
はっきり言った瞬間、空気が凍った。
誰かが小さく息を呑む音がした。
男は笑った。乾いた、嘲るような笑いだ。
「不正? この程度で?」
「可能性の話です」
「若いな」
二度目だ。だが今度は、軽蔑が混じっている。
「いいか。君は貴族だ。政治が分かっていない。数字だけ見て、世界が動くと思うな」
エリシアは、反論しなかった。代わりに一つ、事実を置く。
「この免除を受けている地区の徴税管理者は、全員同じ商会と取引しています」
男の笑みが、止まった。
「偶然ですか?」
問いは短い。だが鋭い。
男は紙を取り直し、今度は真剣に目を走らせた。顎の筋肉が強張る。
「……誰に言った」
「あなたが最初です」
しばらくの沈黙の後、男は深く息を吐いた。
「……報告書を出せ」
「はい」
それだけだった。謝罪も、評価もない。
だが十分だ。
夕方、エリシアが席に戻ると、年配の文官が近づいてきた。
「……通ったのか」
「一件だけですが」
「奇跡だな」
奇跡ではない。だが、説明する必要はなかった。
翌日、その地区の税免除は一時停止された。理由は「再確認」。表向きは穏当だ。だが裏では、小さな波紋が広がっている。
エリシアは、自分の名前が議事録に載らないことを知っていた。功績は上のものになる。それでも構わない。
(評価はいらない)
必要なのは、事実だ。
帳簿は今日も山積みだ。歪みは一つ潰しても、まだ無数に残っている。
だが、確信は得た。
ここは罰の席ではない。
王国が、自分で見ないふりをしてきた場所だ。
エリシアは次の帳簿を開いた。
これは偶然ではない。
そして――一つ潰せるなら、次も潰せる。
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