第17話 切れなかった線
王城の外では、何も変わっていないように見えた。
貴族院は静かで、財務部は忙しそうに動き、商会はいつも通り取引を続けている。公爵家の名も、表の場では口にされない。すべてが「適切に処理された」後の空気だ。
だが、数字は嘘をつかなかった。
経済記録整理室の奥で、エリシアは一枚の帳簿を閉じた。五年前の交易補填記録。理由欄は簡潔で、承認印は正規。だが、補填金の振り込み先が、別の年度の免除処理と一致している。
(切ったつもりで、切れていない)
表で是正しても、裏の線までは消えない。むしろ、隠すために別の線が引かれる。
エリシアは、机の端に置いた紙束を見た。リーゼが集めてきた非公式の報告。どれも、同じ匂いがする。
――理由不明の遅延。
――急な規定変更。
――特定商会の優遇。
現場は、正直だ。だが声を上げると、潰される。それを、皆知っている。
扉が、控えめに叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、見慣れない若い文官だった。制服の着こなしがまだ硬い。
「失礼します。……あの、こちらで、帳簿の確認をしていただけると聞きまして」
「どなたから?」
「直属の上司です。正式な照会ではありません」
その言い方で、すべて分かる。
エリシアは、椅子を勧めた。
「内容を」
若い文官は、紙を差し出す。地方都市の公共工事費用。数字自体は妥当だが、支払先が分割され、迂回している。
「……これが、気になって」
「正しい感覚です」
エリシアは言った。
「この処理は、三年前にも見ました」
若い文官の目が、見開かれる。
「やはり……」
「あなたの感覚は、間違っていません」
それだけで、彼の表情が少し緩んだ。
人は、正しいと言われると救われる。
「ただし」
エリシアは続けた。
「今、あなたが公式に動けば、止められます」
「……では」
「ここに置いていってください」
彼女は、紙を指した。
「名前は出しません。記録として扱います」
若い文官は、深く頭を下げた。
人が去った後、リーゼが言った。
「……増えていますね」
「はい」
エリシアは頷いた。
「切れなかった線が、こちらに集まっています」
オスカーも、非公式に顔を出すようになっていた。
「監査局では、これ以上動けない」
彼は、苦々しく言った。
「だが、現場は限界だ。君が表から消えたことで、逆に――」
「油断した」
「そうだ」
エリシアは、静かに考える。
結婚というカードを切らなかったことで、彼女は“象徴”にはならなかった。だが同時に、“制御対象”からも外れ始めている。
(管理しにくい存在)
それは、力になる。
「オスカー」
「何だ」
「記録整理室は、公式には何をする部署ですか」
「過去資料の整理、保存、参照だ」
「では」
エリシアは言った。
「過去の失敗例を、参照可能な形にまとめることも、業務ですね」
オスカーの目が、細くなる。
「……なるほど」
「制度として失敗した事例を整理します。再発防止のために」
「それなら、誰も止められない」
リーゼが、息を呑む。
「それって……」
「はい」
エリシアは頷いた。
「公表ではありません。ですが、消えません」
誰かが見ようとした時、必ず辿り着く資料になる。
その夜、エリシアは新しい箱にラベルを貼った。
――制度運用上の問題事例集。
曖昧で、無難で、だが危険な名前だ。
切られたはずの線は、まだ生きている。
そして今、それは静かな場所で、一本に束ねられようとしていた。
誰にも気づかれないまま、確実に。
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