第16話 静かな場所から
経済記録整理室は、朝が早い。
正確には、人が早く来るわけではない。紙が、早くから待っている。棚に並ぶ帳簿も、箱に詰められた報告書も、誰かに開かれる日を、ただ静かに待っている。
エリシアは、誰よりも早く席に着いた。
窓は小さく、光は弱い。だが不満はなかった。ここでは、余計なものが入ってこない。視線も、噂も、政治も。入ってくるのは数字だけだ。
最初に手を伸ばしたのは、二十年前の地方補助金台帳だった。
(制度改正前……)
紙の質が違う。記載の粒度が違う。理由の書き方が違う。何より、“迷い”がある。まだ不正が洗練されていない頃の数字だ。
エリシアは、ノートに小さな印を付けていく。
年度。地区。補助理由。支払先。
時間が経つにつれ、傾向が見えてくる。最初は単発だった循環が、ある時期を境に制度として定着している。
(始点は……)
昼過ぎ、扉が静かに開いた。
「……ここに来ると思っていました」
リーゼだった。書類を一抱え抱えている。
「正式な業務ではありません」
「承知しています」
エリシアは視線を帳簿から離さずに答えた。
「ですが、誰かがやらなければならない仕事です」
リーゼは、棚を見回した。
「静かですね」
「ええ」
「だから、色々なものが残っています」
リーゼは、机に書類を置いた。
「現場からです。正式なルートでは上げられない、と」
エリシアの手が止まる。
「内容は?」
「補助金の遅延。理由不明の差し戻し。帳簿と実態の乖離」
どれも、聞き覚えのある言葉だ。
「あなたが表から外れてから、露骨になったそうです」
リーゼの声が低くなる。
「……牽制ですね」
「はい」
エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。
権限を失った人間は、利用される。だが同時に、油断もされる。
(こちらを見ていない)
それは、最大の利点だ。
「リーゼ」
「はい」
「非公式で構いません。情報の窓口になってください」
「……いいのですか」
「責任は、私が持ちます」
リーゼは、迷わなかった。
「承知しました」
その返事に、エリシアはわずかに目を細めた。
夕刻、もう一人の来訪者があった。
オスカーだ。監査局の制服ではなく、普段着に近い装い。
「……今は、監査官としてでは来ていない」
「分かっています」
「ただの、一人の官僚としてだ」
エリシアは、ようやく帳簿を閉じた。
「それで十分です」
オスカーは、周囲を見渡す。
「ここは……危険だな」
「そうでしょうか」
「情報が集まりすぎる」
「だから、安全です」
エリシアは言った。
「誰も、ここから王国が動くとは思わない」
オスカーは、小さく笑った。
「君らしい」
彼は、低い声で続けた。
「他国が、動き始めている」
「予想通りです」
「ローゼンベルク公爵領の件だ。内部是正と聞かされているが、数字の揺れは外にも見える」
エリシアは頷いた。
「結婚外交の代わりに、経済で結ぶ案を考えています」
「……王は、それを嫌う」
「承知しています」
それでも必要だ。
「人を差し出さない同盟は、時間がかかる」
「ですが、壊れにくい」
オスカーが言った。
エリシアは、初めてはっきりと笑った。
「その通りです」
夜、最後の灯りが消える前に、エリシアはノートを閉じた。
線は、さらに広がっている。
そして今度は、彼女一人ではない。
権限はない。だが、静かな場所から、確実に繋がりが生まれ始めている。
依存しない同盟の、最初の芽だった。
第3章は、ここから静かに牙を研ぐ。
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