第13話 合意という壁
貴族院の会合から三日が経った。
王城の廊下は、何事もなかったかのように静かだ。噂はある。囁きもある。だが公式な動きはない。まるで、あの会合自体が存在しなかったかのように。
それが、結論だった。
エリシアは執務室で、机に積まれた書類を一枚ずつ整理していた。新しい仕事は減っている。明確に、減らされている。
(干され始めた)
露骨ではない。だが確実だ。重要案件は回ってこない。照会も減った。報告を求められることもない。
仕事を奪うことは、最も穏便な排除だ。
扉がノックされた。
「入って」
入室してきたのは、オスカーだった。いつもより表情が硬い。
「……動きがありました」
「貴族院ですか」
「ええ。非公式ですが」
彼は声を落とす。
「あなたの権限を整理すべきだ、という話が出ています。監査対象の選定を、事前に“合意”させろと」
「合意」
エリシアはその言葉を反芻した。
「つまり、監査される側の同意を得ろ、ということですね」
「そういう言い方はされていませんが……実質的には」
オスカーは言葉を濁した。
「それでは監査になりません」
「分かっています」
彼は、苦い顔をする。
「ですが、彼らは“混乱を防ぐため”と言う」
混乱。安定。秩序。便利な言葉だ。すべてを正当化できる。
「国王は?」
「……板挟みです」
それも、予想通りだった。
エリシアは、ペンを机に置いた。
「合意というのは」
静かに言う。
「誰もが、少しずつ不正を許すことですね」
オスカーは答えなかった。
昼過ぎ、呼び出しがかかった。
場所は、宰相府。応接室には、宰相ヴィルヘルムと、もう一人の人物が待っていた。
アーデルハイト・フォン・ケンプナー。
貴族院重鎮。あの会合で、はっきりと「正しいが公表しない」と言った女だ。
「座りなさい」
宰相が言う。
エリシアは椅子に腰を下ろした。背筋は伸ばしたまま。
「今日は、あなたにとって悪い話ではないわ」
アーデルハイトが、微笑みながら切り出した。
「そうでしょうか」
「ええ。あなたの能力は、誰も否定していない」
それは事実だ。否定できないほど、結果を出している。
「だからこそ、国として“活かしたい”の」
エリシアは、何も言わずに続きを待った。
こういう前置きの後に出る話は、大抵一つしかない。
「あなたは、危険なのよ」
アーデルハイトは、穏やかに言った。
「正しすぎる」
宰相が咳払いをする。
「言い換えれば、扱いづらい」
「光栄です」
皮肉ではなく、事実として受け取る。
アーデルハイトは続けた。
「だから、提案がある」
来た、とエリシアは思った。
「あなたが矛を振るう役目から、一歩引く。その代わり、象徴になってもらう」
「象徴、ですか」
「ええ」
彼女は、はっきりと言った。
「結婚しなさい」
室内の空気が、音を立てて止まった。
エリシアは、驚かなかった。ただ、確認しただけだ。
「政治的象徴として、ですね」
「もちろん」
アーデルハイトは頷く。
「あなたが公爵家、あるいはそれに準ずる家に嫁げば、貴族院は安心する。あなたは“内側の人間”になる」
「その代わり、監査の矛は鈍る」
「ええ」
隠さない。そこが彼女の誠実さだ。
「ですが、あなたの立場は守られる。権限も、名誉も」
宰相が補足する。
「国王も、その案なら飲める」
エリシアは、数秒、沈黙した。
感情が動いていないわけではない。だが感情は、判断材料の一部にすぎない。
彼女は、静かに口を開いた。
「その案は」
一呼吸。
「最も簡単で、最も効率的です」
アーデルハイトが、満足そうに微笑む。
「そうでしょう?」
「はい」
エリシアは、続けた。
「ですが、採用しません」
今度こそ、完全な沈黙が落ちた。
宰相が、目を見開く。
「……即答か」
「即答です」
エリシアは、視線を逸らさない。
「私は、誰かの妻になることで、問題を覆い隠す役目を引き受けません」
アーデルハイトの笑みが、わずかに消えた。
「代案は?」
「あります」
エリシアは言った。
「ですがそれは、“合意”ではなく“制度”の話です」
宰相が、頭を抱える。
「今は、その話をしている余裕はない」
「余裕がないのは、時間を先送りしてきたからです」
その一言で、場の温度が下がった。
アーデルハイトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……残念ね」
「私もです」
嘘ではない。
「では、覚悟なさい」
彼女の声が、冷たくなる。
「あなたは、守られない」
「承知しています」
同じ言葉を、エリシアは何度でも使う。
応接室を出た瞬間、足元が少しだけ重く感じられた。
だが、後悔はない。
合意という壁は、厚かった。
そして彼女は、それを正面から壊す道を選んだ。
第2章は、いよいよ折り返しを迎える。




