第11話 結果は正しい
ローゼンベルク公爵領の帳簿は、整っていた。
整っている――という言い方は正確ではない。整って“見える”ように作られていた。合計値は完璧で、欄外の注釈も丁寧で、形式の瑕疵はない。監査の素人が見れば、感心して終わるだろう。
だが、エリシアにとって重要なのは、見た目ではなかった。
(流れ)
金の流れ。書類の流れ。承認の流れ。そこに人の意思が混ざると、必ず矛盾が残る。どれだけ丁寧に整えても、完全には消せない。
王城の執務室で、エリシアは資料を机に並べた。リーゼが記録をまとめ、オスカーが監査局側の確認印を揃える。三人とも顔色は良くない。夜更かしのせいではない。内容のせいだ。
「……これで、足りますか」
オスカーが最後の頁を閉じながら言った。
「足ります」
エリシアは即答した。
「言い逃れの余地は残しません。残すと、そこから逃げます」
リーゼが小さく頷いた。
報告書は、簡潔だった。だが簡潔であるがゆえに強い。
――補助金が商会を経由し、形式上の支出と収入を繰り返している。
――免除理由の記載が年度ごとに揺れ、表現が中央基準で統一されている。
――印章と署名の不一致が複数年度で確認され、帳簿の実質管理者が一元化されている可能性が高い。
――取引先商会は王都に集中し、地方の自律性を超えた介入が示唆される。
数字は嘘をつかない。
そして、この報告書に書かれた事実もまた、嘘ではない。
扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは宰相府の使者だった。礼儀正しいが、声に急ぎがある。
「陛下が、至急のご報告を求めておられます」
「分かりました」
エリシアは報告書を閉じ、封をする。指先が落ち着いているのは、怖くないからではない。怖さが役に立たないと知っているからだ。
国王ローデリヒの執務室には、すでに宰相ヴィルヘルムがいた。さらに数名の高官。監査局長の姿もある。皆、揃って黙っていた。
空気が重いのは、内容を知っているからだ。
「エリシア」
国王が名を呼ぶ。
「報告を」
「はい、陛下」
エリシアは一歩前に進み、報告書を差し出した。国王はそれを受け取り、頁をめくる。
沈黙。
数行読むごとに、国王の眉が深くなる。宰相は横から覗き込み、監査局長は目を伏せたまま耐えている。誰も驚いていない。驚けない。薄々分かっていたのだ。
ただ、紙に落ちた瞬間、現実になる。
「……確認は取れているのか」
国王の声は低い。
「監査局と照合済みです。原本の提出も受けています」
オスカーが一歩前に出て補足する。
「偽造や単独の誤記で説明できる範囲を超えています。少なくとも、体系的な処理が存在します」
国王は報告書を机に置き、しばらく目を閉じた。
「ローゼンベルク……」
その名が口から落ちるだけで、部屋の温度が下がる。
宰相が咳払いをして言った。
「陛下。公爵家は王国の柱です。ここを正面から折れば、王国が揺れます」
「揺れているのは、帳簿の中だけではない」
国王が返す。
「既に揺れている」
エリシアは、そのやり取りを静かに聞いていた。政治の会話は、結論を遅らせるために行われることが多い。だが今は違う。結論は出ている。ただ、その結論に伴う損失を、誰が引き受けるかを決めている。
国王が視線を上げた。
「エリシア。君の意見を聞く」
「はい」
「公爵領の処理は、どうあるべきだ」
エリシアは即答した。
「是正です。補助金と免除の基準を統一し、商会経由の循環を停止させ、印章管理を中央で監査してください」
「公爵家の反発は必至だ」
「反発は、予算で抑えられません」
そう言った瞬間、数名の高官の眉が動く。言い方が強い。だが事実だ。
「反発を抑える方法は二つです」
エリシアは続けた。
「力か、合意です。私は力を持ちません。ですから、合意を作る必要があります」
「貴族院の合意か」
宰相が言う。
「はい」
その一言で、また空気が重くなる。
貴族院。合意。つまり政治闘争。エリシアが一番嫌う領域だ。
国王は短く言った。
「よし。貴族院に、報告する」
その瞬間、宰相がわずかに身を強張らせた。
「陛下……」
「隠すには、規模が大きすぎる」
国王は言い切った。
「そして隠せば、次は王国全体が壊れる」
エリシアは、静かに息を吐いた。
(ここまでは、勝った)
数字では勝った。報告も通った。国王も動く。
だが、ここから先は数字だけでは勝てない。
“合意”という名の壁が立ち塞がる。
それでも、エリシアの表情は変わらない。
正しいものは正しい。
結果は、正しい。
それが通らないなら――通る形を作るだけだ。




