第10話 聖域は崩れる
正式調査への移行を告げた瞬間、公爵領の空気が変わった。
それまで表面を保っていた礼儀が、薄く剥がれ落ちる。財務代行の男は深く一礼したまま顔を上げず、周囲の使用人たちの動きが明らかに速くなった。誰かが走り、誰かが伝令を出す。
(連絡が行く)
当然だ。ローゼンベルク公爵家は、王国の端にある地方領ではない。ここで起きたことは、即座に王都へ届く。
「調査範囲を明確にしていただけますか」
財務代行は、声を低く抑えて尋ねた。これは確認ではない。制限をかけるための言葉だ。
「過去十年分の補助金、税免除、交易補填」
エリシアは即答した。
「関連する商会との契約書も含みます」
男の肩が、わずかに強張る。
「……それは、公爵家の中枢に触れます」
「承知しています」
その返答は、もはや儀礼だった。
調査はその日のうちに始まった。倉庫、金庫、記録室。公爵家の「表向き整っている」部分を一つずつ剥がしていく。
最初は、抵抗はなかった。形式上は協力的だ。だが、資料は微妙に欠けている。頁が抜けている。数字の整合性だけが、妙に保たれている。
(整えすぎている)
リーゼが小声で言った。
「まるで、見せる前提で作られたようです」
「ええ」
エリシアは頷いた。
「“見られる帳簿”と“使われていた帳簿”は、違う」
オスカーは黙って、それを記録していく。監査官としての顔だ。
夕刻、ついに“使われていた帳簿”が出てきた。
倉庫の奥。鍵のかかった棚。形式は古く、更新も不十分。だが、数字の流れは正直だった。
「……これは」
オスカーの声が、掠れる。
「補助金が、一度商会に流れ、そこから戻っている」
循環だ。正当な理由を装い、金を動かす。
エリシアは、指で線をなぞる。
「商会は、王都にあります」
つまり、地方だけの問題ではない。
その夜、公爵領から王城へ、緊急報告が上がった。
翌朝、エリシアの元に、王命が届く。
――調査継続を命ずる。
短い文面だったが、意味は重い。国王は、引くつもりがない。
だが同時に、別の動きもあった。
王城に戻る馬車の中で、オスカーが低く言った。
「貴族院が動きました。あなたを“越権”として告発する準備をしています」
「想定内です」
「公爵家が、全面対決の構えです」
「それも」
エリシアは窓の外を見つめた。
麦畑が広がっている。豊かな土地だ。だからこそ、守られてきた。守られすぎた。
「彼らは、聖域だと思っていた」
リーゼが、静かに言った。
「はい」
エリシアは答えた。
「だからこそ、崩れた時の反動は大きい」
王城に戻ると、空気はさらに張り詰めていた。廊下で交わされる視線。囁き。避けられる気配。
そして、呼び出し。
国王ではない。宰相、ヴィルヘルムだった。
「……やってくれたな」
宰相の声音は、責めるでも褒めるでもない。
「事実を確認しただけです」
「その事実が、王国を揺らす」
「揺らさなければ、直せません」
宰相は、深く息を吐いた。
「貴族院は、君を危険視している。結婚を断っただけの令嬢が、ここまで踏み込むとは思っていなかった」
「私も、ここまで来るとは思っていませんでした」
それは本音だった。
「だがもう、後戻りはできない」
宰相は、はっきりと言った。
「君は今や、“象徴”だ。結婚せず、誰の庇護も受けず、それでも権力に触れた存在としてな」
エリシアは、静かに受け止めた。
「利用されますか」
「される」
「切られますか」
「可能性はある」
それでも、と宰相は続ける。
「今は、君が必要だ」
エリシアは、頷いた。
「必要とされる間は、仕事をします」
「仕事が終わったら?」
「その時、考えます」
宰相は、苦笑した。
執務室に戻ると、机の上に新たな書類が積まれていた。ローゼンベルク公爵領以外の、六地区分。
点だったものは、完全に面になりつつある。
(王国全体だ)
エリシアは、椅子に腰を下ろし、ペンを取った。
結婚を断った令嬢は、今や王国の聖域を崩す役目を担っている。
それが孤独でも、構わない。
人生設計に、後悔は含まれていない。
第2章は、ここから本格的に牙を剥く。




