第1話 結婚は人生設計に含まれません
※本作は、恋愛・結婚を主軸にしない物語です。
主人公は恋に落ちませんし、政略結婚もしません。
代わりに、数字と制度と仕事で問題を解決していきます。
ざまあ要素はありますが、感情的な復讐ではなく、
「当然の結果」として描写されます。
静かな内政譚がお好きな方に、楽しんでいただければ幸いです。
王城の応接間は、やけに整いすぎていると思った。磨き抜かれた床。壁に掛けられた歴代国王の肖像。季節の花を飾った花瓶。どれもが「ここでは失態を見せるな」と無言で告げてくる。
エリシア・フォン・クラウゼは、その圧を静かに受け流しながら背筋を伸ばした。緊張していないわけではない。ただ、緊張の使い道を知っている。余計なことを言わないための緊張。呼吸を乱さないための緊張。感情を、判断の外側に置くための緊張。
向かいの長椅子には、王宮侍従長が座っている。隣に控えるのは書記官。卓上には封蝋の押された文書が一通――いかにも「拒否は想定していない」とでも言いたげな、正式な体裁だ。
「クラウゼ伯爵令嬢、エリシア殿」
侍従長は丁寧に名を呼んだ。丁寧だが、親しみはない。礼儀の衣をまとった圧力である。
「本日お呼び立てしたのは、王命のご通達のためです」
王命。つまり、選択の余地は限りなく狭い。そう理解して、エリシアは小さく頷く。
「承りました」
侍従長が文書を開き、書記官が羽根ペンを構えた。儀式のような間が置かれてから、朗読が始まる。
「――クラウゼ伯爵家令嬢エリシア・フォン・クラウゼに対し、ローゼンベルク公爵家嫡男ハインリヒ・フォン・ローゼンベルクとの縁談を命ずる」
心臓が一拍遅れて鳴った。ローゼンベルク。王国でも指折りの大貴族。財と権力の象徴。噂だけなら、いくらでも耳に入る。政務に口を出し、交易に口を出し、軍備にも口を出す。王の懐を支えると言いながら、王の首輪にもなりうる家。
(……なるほど)
思ったより大きな球が投げられた。それだけのことだ。驚きはする。だが驚きが判断を奪うことはない。
「条件は以下の通り」
侍従長は淡々と続けた。
持参金の免除。クラウゼ伯爵家の負債整理に対する支援。伯爵領の税の猶予。住居は王都。形式上は「嫁ぐ」だが、生活の裁量はある程度保証――。
書記官がさらさらと音を立てるたび、エリシアの頭の中に数字が並んでいく。救済。延命。面子の回復。利害の一致。すべてが整然と積み上がり、「この縁談は合理的だ」と言っている。
世間はこう言うだろう。
没落寸前の伯爵家の令嬢が、公爵家に嫁げるのは僥倖だと。女としてこれ以上の上がりはないと。感謝して、泣いて、頭を垂れて、幸福を噛みしめろと。
(幸福、ね)
幸福とは、誰の定義だろう。
侍従長が朗読を終え、文書を畳む。応接間の空気が少しだけ緩む。ここからは「受諾」を前提とした話になるはずだ。祝いの言葉。日程。衣装。挨拶。王に対する謝辞。
エリシアは、その流れが始まる前に口を開いた。
「お伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
侍従長の眉が僅かに動く。質問が出るのは想定内。だが、その質問が「いつ挨拶に伺えばよろしいか」ではない可能性に、わずかな警戒が滲む。
「この縁談は、どのような目的で?」
侍従長は一瞬、言葉を選んだ。王命に目的など不要、と言いたげな表情を抑え、形式的な答えを用意する。
「両家の結びつきを強め、王国の安定に資するためです。クラウゼ伯爵家にとっても……非常に良い条件であることは、殿もご理解でしょう」
「理解しております」
エリシアは頷いた。理解はしている。理解した上で、問いを続ける。
「では、私という個人に対する期待は何でしょう。ローゼンベルク公爵家は、私に何を求めているのですか」
書記官のペン先が止まった。応接間の空気がひとつ、張る。
侍従長は「令嬢らしくない問いだ」と言いたげな目を一瞬だけ向け、それでも答えた。
「……公爵家の次代を担う嫡男の妻としての役目。子を成し、家を支え、社交においても相応の振る舞いを――」
つまり、産むこと、支えること、飾ること。
エリシアはその三つを、頭の中で小さな表にして並べた。必要経費。期待される成果。リスク。代替可能性。
(代替可能性は高い。私である必要は薄い)
そして何より。
(不可逆だ)
契約の解除は難しい。結婚とは、個人の人生を他者の家に組み込む制度だ。善意があっても、争いがあっても、後戻りが利かない。しかもこの相手は、ローゼンベルクだ。王国の内側にある巨大な圧力そのもの。嫁いだ瞬間、クラウゼ家は救われるかもしれない。だがその救いは、永遠に首輪と同居する。
エリシアの視線が文書へ落ちた。封蝋は美しい。けれど封蝋が美しいからといって、中身が安全とは限らない。
「……殿?」
侍従長が促す。そろそろ「ありがとうございます」と言え、と。
エリシアは、短く息を吸った。緊張を、判断の外側に置く。感情を、声音の外側に置く。
「申し訳ありません」
まず謝罪を置く。礼儀は盾になる。
侍従長の目が細くなる。謝罪は受諾の前置きであることが多い。だからまだ、期待の余韻が残っている。
エリシアは言った。
「そのご提案は、私の人生設計には含まれておりません」
沈黙が落ちた。
書記官のペンが、空中で固まったまま微動だにしない。侍従長の口元が、わずかに引きつる。
「……クラウゼ伯爵令嬢」
侍従長の声が低くなる。丁寧さはそのままに、温度だけが下がる。
「王命です」
「承知しております」
エリシアは目を逸らさなかった。怖くないわけではない。だが怖さは、判断の根拠にはならない。
「そのうえで、お断り申し上げます」
侍従長の指が文書の端を強く押さえた。封蝋の赤が、やけに鮮やかに見えた。
「理由を」
「はい」
エリシアは、用意してきた言葉を選ぶ。言葉を間違えれば、ただの反抗になる。反抗は潰される。だが合理的な提言は、潰しにくい。相手が王宮であるほど、理屈の形をしていれば無視しづらい。
「結婚は、不可逆の契約です。成功した場合の利益は理解できます。しかし、破綻した場合の損失が大きすぎます。損失は私個人に留まらず、クラウゼ家、ローゼンベルク家、ひいては王国にも影響します」
侍従長の眉がぴくりと動く。「破綻」という単語が、この場の禁句に触れたのだ。
だからこそ、続ける。
「そして、私が公爵家に嫁ぐことが王国の安定に資するというならば――それは王国が、個人の婚姻に安定を依存しているということになります。私はその設計を、健全だとは思いません」
書記官がごくりと喉を鳴らした。
侍従長は、しばらくエリシアを見つめた。怒りというより、理解不能に対する困惑が混ざっている。これほどの条件を提示されて断る令嬢など、想定していない。
「……殿は、クラウゼ伯爵家の状況を理解しているのですか」
「もちろん」
借金。領地の不作。税の滞納。屋敷の人員整理。母の治療費。帳簿の一枚一枚が、エリシアの脳裏にある。
「理解した上で、なお、お断りします」
「なぜだ」
侍従長の声に、ついに苛立ちが混じった。
エリシアは、静かに答えた。
「救済が首輪とセットであるなら、私は救済を選びません」
その言葉が落ちた瞬間、応接間の空気が冷えた。
侍従長は、ゆっくりと文書を閉じる。封蝋がこちらに向けられたまま。まるで赤い目で睨まれているようだった。
「……よろしい」
声音だけは丁寧だった。だが「よろしい」は許しではない。処罰の前口上だ。
「殿の意思は承った。だが王命を退けた以上、相応の――いや、合理的な処置が必要となる」
合理的、という単語がここで出るのが皮肉だった。権力はいつでも、自分を合理的と呼ぶ。
「近く、改めて通達があるでしょう」
「承知しました」
エリシアは立ち上がり、礼をした。足は震えていない。心臓はまだ速い。だが、その速さは生きている証拠だ。恐怖はある。けれど恐怖が、自分の人生の舵を奪うことはない。
扉が開けられ、廊下の冷たい空気が流れ込む。
出ていく背中に、侍従長の声が追いかけた。
「クラウゼ伯爵令嬢。殿は賢い。しかし――賢さが、必ずしも身を救うとは限らぬ」
エリシアは立ち止まらなかった。
救われるために結婚しない。救われるために誰かに依存しない。自分の人生を、自分で引き受ける。それだけだ。
廊下の窓から差す冬の光が、白く床に伸びている。王城の外は寒いだろう。だが寒さは、計算できる。
問題はこれからだ。
(さて。罰は何が来る)
エリシアは唇の端をほんの少しだけ上げた。
不利な局面ほど、数字は正直になる。
そして彼女はまだ知らない。
この拒絶が、王国の帳簿の奥に沈んだ「歪み」と、真正面から出会う入口になることを。
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当面の間は、1日に3話を投稿予定です。
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