多様性を武器にするのは、いつも健常者な気がするんだ
私はその発言を、夜のタイムラインで知った。
画面の向こうで、障害者手帳を持っているというインフルエンサーが、
「障害者同士で子どもを作ったら“バケモノ”が生まれる」
そう言ったらしい。
言葉だけを切り取れば、あまりにも強烈で、乱暴で、誰かを深く傷つける表現だ。
実際、すぐに炎上した。
「差別だ」「優生思想だ」「不謹慎だ」
正義の言葉が、正義の顔をして並び始めた。
けれど、奇妙な光景がそこにあった。
その発言を「間違っている」と声を上げていたのは、主に健常者だった。
一方で、「分かる」「綺麗事を言える立場じゃない」と擁護していたのは、別の障害者たちだった。
いつもこうだ。
当事者の中で苦しみながら発せられた、歪で、醜くて、どうしようもない言葉ほど、
被害を受けていない人間たちが、いちばん綺麗な言葉で叩く。
「そんな言い方はおかしい」
「言葉を選ぶべきだ」
「多様性の時代なのに」
そのどれもが、正しい。
正しいからこそ、空っぽに聞こえる。
生まれてくる子どもが、どんな目で見られるか。
親の障がいが、どれだけ人生に影を落とすか。
支援が足りず、制度が追いつかず、
「理解されているふり」だけが増えていく日常を、
彼らは想像できるだろうか。
「バケモノ」という言葉は、確かに残酷だ。
だが、あれは誰かを傷つけるための刃というより、
自分自身に突き立てられた鏡だったのではないかと思う。
自分がそう呼ばれてきた。
社会に、制度に、視線に。
だから、先に言ってしまう。
自分の口で、いちばん酷い言葉を。
それを見て、何も被害を被っていない人たちが、
「それは違う」と声を張り上げる。
安全な場所から、多様性を語る。
傷ついたことのない声は、いつだってよく響く。
当事者が「これは地獄だ」と言っている横で、
当事者ではない人間が「希望を持とう」と言う。
そのズレに、私は苛立つ。
誰もが優しくあるべきだ、という正論は、
誰かの絶望を黙らせるための布になることがある。
覆って、見えなくして、
「もう問題は解決した」という顔をする。
多様性を語る前に、
その言葉が生まれるまでの痛みを、
一度でも想像したことがあるのだろうか。
画面を閉じても、胸の奥にざらつきが残った。
きっと明日も、同じ構図が繰り返される。
被害を受けていない人が怒り、
傷を負った人が沈黙するか、過激な言葉でしか語れなくなる。
その現実を見ないまま、
「正しさ」だけが更新されていく。




