7話 クラスメイトと委員会
「五世紀の朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国が鼎立し……」
六限目の歴史の授業。担当の烏丸先生の眠たくなるような抑揚のない声が、午後の倦怠感に包まれた教室に静かに響いている。
いつもなら、こんな単調な講義に耐えきれず睡魔に襲われるところだ。実際、窓際の席では既に数名が机に突っ伏している。しかし今日の湊はそんな単調な講義も物ともせず、ソワソワと落ち着かない気持ちで教室前方の時計ばかり見ていた。ノートの上で無意識にシャープペンシルを回し続けている。
今日の放課後は茶道部の活動日だ。
週二回、火曜日と木曜日だけ。先輩と過ごせる貴重な、貴重すぎる時間。
(あと、5分……)
時計の針が進むのが、やけに遅く感じられる。いつもの三倍、いや五倍は長い気がする。教科書のページをめくる音さえ、時間を引き延ばしているように聞こえてくる。烏丸先生の声も、まるで時を止める呪文のようだ。
湊は小さく息を吐いた。またシャープペンシルを回す。カチカチと芯を出したり引っ込めたりする。
キーンコーンカンコーン
(よし! 終わった!)
待ちに待った終業のチャイムが鳴り響く。その音が、まるで解放の鐘のように湊の胸に響いた。
「あ、チャイムなったな。じゃあ今回はここまで。次回は新羅の仏教伝来について扱うから、しっかり復習しておくように」
烏丸先生が教科書を閉じた瞬間、湊は急いで荷物をまとめ始めた。ノートもペンケースも適当に鞄へ放り込む。一秒でも早く茶道室へ向かいたい。先輩の穏やかな笑顔を思い浮かべながら、そんな気持ちで立ち上がり、教室を出ようとしたその時だった。
「あの、久我?」
「んあ?」
声をかけてきたのは、黒縁のスクエア型メガネをかけた男子生徒だった。
前髪はさっぱりと切り揃えられ、形の良い眉がレンズの向こうに覗いている。制服は几帳面に着こなされていて、ネクタイの結び目も完璧だ。
一見地味な印象だが、よく見ればメガネを外して髪を上げたりしたら、結構化けそうな整った顔立ちをしている。鼻筋も通っているし、輪郭もシャープだ。いわゆる隠れイケメンというやつだろう。
「もしかして、このまま帰ろうとしてる?」
レンズ越しに眉を顰め、やや呆れたような口調で彼が聞いてくる。その表情には、少しばかり心配そうな色も混じっていた。
「そうだけど」
当然だろう、と湊は答えた。
茶道部の活動が待っているのだから。今日は先輩が新しいお菓子を用意してくれると言っていた。それに、もしかしたらまた二人きりでお茶を点てる練習ができるかもしれない。
「ショートホームルームあるよ?」
「しょーとほーむるーむ……」
一瞬、何のことだか分からなかった。湊の頭の中は既に茶道室のことでいっぱいで、学校行事のことなど完全に抜け落ちていた。
「うん、ショートホームルーム。今日はクラスから委員会活動の役員を出す話し合いだって、朝、担任の宇佐美先生が言ってただろ? 聞いてなかったの?」
ああ、そういえば。朝のホームルームで何か言っていたような気もする。でも正直、頭に入っていなかった。朝は朝で、今日先輩に会えたことばかり考えていたから。ずっと、先輩からの「おはよう、湊」という声を脳内で反芻していた。
「そうだっけ? あー、ありがとう、えっと……」
礼を言おうとして、ハタと気づく。名前が出てこない。顔は見覚えがあるし、確か席も近かったはずなのだが。
「ごめん、なんて名前だっけ?」
「え?! もしかして忘れたの?」
彼の声が裏返った。
メガネの奥の目が驚きで見開かれている。まるで信じられないものを見たかのような表情だ。
「ごめん、三十人分は覚えきれない」
正直に答えると、彼は信じられないといった表情でこちらを見つめてくる。その視線には、ショックと落胆が混ざり合っているように見えた。
「中学一緒ですけど? 2年間、テスト前に勉強教えましたけど? 数学と英語、何回も放課後に付き合いましたけど?」
彼の声には、明らかに傷ついたような響きが含まれていた。
「……は! ああ! でもテストに夢中で、その……覚えてなかった」
言い訳がましいが、本当なのだから仕方ない。当時は成績のことで頭がいっぱいで、周りのことなんてほとんど見えていなかった。
とにかく点数を取ることしか考えていなかった。
「そんなことある?」
彼の声には、諦めと呆れが混ざっていた。
「あのときはありがとな、佐藤清くん!」
せめて感謝の気持ちだけでも、と精一杯の笑顔で名前を呼んだつもりだったのだが。
「笹木響也! 絶妙な間違い方しないでくれ!」
彼――笹木の声が教室に響いた。クラスメイトの何人かが、こちらを振り返って笑っている。
湊は居たたまれない気持ちで、バツが悪そうに頭を掻いた。
ガララッ
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
「はぁーい、皆さん。ホームルームを始めます」
力のない、どこか投げやりな声が聞こえてくる。発言主は我らが担任、宇佐美 佳澄先生だ。
30代くらいのショートヘアで、ダウナーな雰囲気を纏った女性だ。切れ長の目には生気というものがまるで感じられない。いつ見ても、この世の終わりを見てきたかのような表情をしている。目の下には隈があり、どことなく疲れた印象を与える。
確か、担当教科は生物だったはずだ。今日も白衣を着ている。ポケットからは何やらプリントがはみ出していて、全体的にだらしない印象だ。
「まず、話をまとめるクラスの代議員を決めます。どうせ誰もやりたがらないのでくじ引きでーす。はい、一列に並んでー」
教室のあちこちから「えー」という声が上がる。他の生徒たちは「当たりませんように」「神様お願い」と願いながら、仕方なく列に並び始めた。湊も急いで列に加わる。笹木も隣に並んだが、まだ少し不満そうな顔をしている。
「はーい、どんなに願っても当たるもんは当たるぞ。神は非情だ。むしろ願えば願うほど当たる気がするね。それが人生ってもんだ」
宇佐美先生は、必死に願いを込めてくじを引く生徒たちを一瞥して、とんでもないことを平然と言い放つ。その表情には、一切の感情が読み取れない。
この人は本当に教師なのだろうか。生徒を励ますとか、そういう概念が存在しないのだろうか。
*****
「では、クラスの代議員は天野さんと森くんだー。1年間頑張っていただこう。ご愁傷様」
くじ引きの結果が淡々と発表される。当たった二人は「マジか」「嘘でしょ」という表情を浮かべている。周囲からは同情の視線が注がれた。
「では次に委員会を決めてもらう。代議員の二人にはさっそく、この紙に書かれているように進めてくれ。私は疲れたからもう何もしない」
そう言って宇佐美先生は、教室内の隅に置いてある教卓へとゆっくり歩いていく。そして椅子に座ると、もう動かないという強い意志を感じさせる姿勢で固まった。完全に傍観者モードだ。むしろ、すでに意識が遠のいているようにも見える。
森と天野は「えぇ……」と顔を見合わせ、観念したように前へ出てきた。
「……えっと、じゃあ。紙を確認するので少々お待ちを」
当然だろう。急に紙だけ渡されて「はいどうぞ」とされても、それを完璧に成し遂げられる人間は少ないはずだ。二人とも真面目そうだから、余計に困っているように見える。肩を落として、重い足取りで教壇へと向かう。
森と天野は小声で何やら話し合っている。時々、宇佐美先生の方をチラリと見ては、ため息をついている。
森は短髪で、野球部らしい爽やかな笑顔が印象的な男子だ。日焼けした肌が健康的で、クラスでも人気がある。天野はポニーテールが似合う、明るい性格の女子。休み時間はいつも楽しそうに誰とでも話している。二人とも社交的で、クラスの雰囲気を明るくしてくれる存在だ。偶然なのか、クラスをまとめるには二人ともピッタリな人選だと思う。
「じゃあ、僕が説明するね」
「あ、うん……うん、わかった。私は黒板に書くね」
役割分担が決まったらしい。天野はチョークを手に取り、黒板の前に立った。
「はい、じゃあ委員会役員を決めます」
森が黒板の前に立ち、手元のプリントを確認しながら必要事項を告げ始める。天野は後ろでチョークを持ち、丁寧な字で黒板に委員会名を書き始めた。
「風紀委員、図書委員、放送委員、環境・美化委員、保健委員、体育委員、選挙管理委員。あと、まだ先な気もしますが文化祭委員と体育祭委員も今のうちに決めてしまうみたいです。それぞれ二人ずつ必要です」
委員会の数は全部で9個。各2人ずつということは、18人が必要ということになる。このクラスは30人だから、ほぼ三分の二が選ばれることになる。結構な確率だ。逃げ切れる可能性は低い。
ちなみに湊はお断りだ。
委員会なんてやっていたら、放課後に仕事が入るはずだ。そんなことになれば、数少ない先輩との時間が減ってしまう。ただでさえ学年が違うのに、これ以上会える時間が減るなんて冗談じゃない。
週二回の活動日すら、湊にとっては少なすぎるくらいなのだ。できることなら、毎日先輩と一緒にいたい。
「入りたい委員会がある人いますか〜? 早い者勝ちです」
森が呼びかける。少し期待を込めた表情で、クラスメイトを見回している。
シーン……
残念ながら、誰も反応しない。教室は静まり返っている。みんな目を合わせないように、下を向いたり窓の外を見たりしている。
「まぁ、そうだよなぁ」
森が困ったように頭を掻いた。予想通りの展開だったようだ。その様子を見て、教卓で目を閉じていた宇佐美先生が、追い討ちをかけてくる。
「今日は決められるまで帰れないぞー。最悪、日付が変わっても居残りだからな。覚悟しとけ」
教室のあちこちから「えー」「マジすか」という不満の声が響く。さすがにそれは冗談だろうと思いたいが、この先生なら本気で言っているかもしれない。
「あー、じゃあ俺、体育祭委員やるわ。どうせ体育祭まで暇だし」
重たい空気を破ったのは、おそらく森と同じ野球部であろう坊主頭の男子だった。体格も良く、いかにもスポーツマンという雰囲気を漂わせている。
「しゃーない、俺も体育祭委員でいいわ。一緒にやろうぜ」
もう一人、同じく野球部らしき男子が手を上げる。二人は顔を見合わせてニヤリと笑った。
「ありがとう、渡部、磯貝。助かる」
森が嬉しそうに二人の名前を呼ぶ。ホッとした表情を浮かべた。
「私たち二人、文化祭委員いきまーす。お揃いで」
続いて、仲の良さそうな女子二人組が手を上げた。いつも一緒にいる二人で、放課後もよくショッピングに出かけているらしい。
その後、先の四人に続き、続々と手が上がり始める。誰かが動き出すと、みんな安心するのか次々と立候補していく。「じゃあ俺も」「私もそれでいいかな」という声があちこちから聞こえてくる。
しかし、少しするとその流れは止まってしまった。
枠が埋まったのは、体育祭委員、文化祭委員、放送委員、保健委員、選挙管理委員。やはり比較的楽そうな委員会から埋まっていく。
イベント系は楽しそうだし、放送委員は昼休みにアナウンスするだけだ。保健委員も保健室の手伝い程度。そして面倒そうな委員会だけが残る。
残っているのは、風紀委員、図書委員、環境・美化委員、体育委員の四つ。どれも地味で、しかも確実に時間を取られそうなものばかりだ。
(ちっ、これは失敗したな……)
湊は心の中で舌打ちをした。
これの正解は、楽そうな委員会を早々に手に入れることだったのだ。後に残れば残るほど、面倒なものが当たる確率が高くなる。完全に戦略ミスだ。先輩のことばかり考えて、状況判断を誤った。
(今、まだ行けそうなのは……)
残っている委員会を頭の中で整理する。どれも嫌だが、選ばなければならないなら、少しでもマシなものを選ぶべきだ。
環境・美化委員は――休み時間も放課後も潰されそうだ。ゴミ拾いとか掃除とか、絶対に時間を取られる。
図書委員は――上に同じ。本の整理とか貸し出し業務とか、地味に時間がかかる。でも室内作業だし、静かな環境だから、まだマシかもしれない。
体育委員は――体育の授業で道具の準備とか、体育祭の運営とか。体操のお手本とかだ。運動は嫌いじゃないが面倒が勝つ。
風紀委員は――早朝から校門に立って挨拶
運動なんて….朝イチで先輩と会えると考えたら……先輩も校門を通るわけだし……うーん、それはそれで……
(は! そうだ、先輩なら?!)
突然、良いアイデアが閃いた。まるで天啓のように、頭の中に光が差し込んだ気がした。
委員会は各クラスから二人ずつ選ばれる。もちろん三年生のクラスからも選ばれるのだ。ということは、ワンチャン先輩と同じ委員会になる可能性があるのでは?!
そうだ、そうに違いない。これは運命かもしれない。もし同じ委員会になれたら、放課後の部活だけでなく委員会活動でも先輩と一緒にいられる。時間が倍になる。いや、もっとかもしれない。
先輩がなりそうな委員会は――
和哉先輩は真面目で、几帳面で、礼儀正しい。そして本が好きだと言っていた。茶道の本をよく読んでいるし、文学作品も好きだと聞いたことがある。ということは……
(ここだー!)
確信を持って、湊は勢いよく手を上げた。椅子から腰を浮かせるくらいの勢いだった。
*****
放課後、茶道室にて。
「へー、湊。図書委員になったんだ。なんだか意外かも……湊って、あんまり本読むイメージなかったから。え? 僕? 入ってないよ?」
和哉は首を傾げながら、あっさりとそう言った。その穏やかな笑顔には、一片の曇りもない。
「そう、なんすか……」
湊の声が、明らかに落胆に満ちていた。
(なん、だと……)
頭の中が真っ白になる。いや、真っ白どころか、何か暗い霧のようなものが立ち込めてきた気がする。
「僕、一年と二年の時に風紀委員と環境・美化委員に入ってたから、今年は免除してもらったんだぁ。三年生は受験もあるしね」
和哉は何でもないことのように、穏やかな笑顔でそう告げる。その笑顔が、今の湊には眩しすぎて直視できない。
(しかも……三分の二も外したー……)
避けた二つの委員会に、先輩は既に入っていたという事実。つまり、風紀委員か環境・美化委員を選んでいれば、過去の先輩と何かしらの接点があったかもしれないのだ。
そして今年は、どれを選んでも正解だったのに、唯一先輩がいない委員会を選んでしまったということだ。
完全なる、悲劇だった。
湊は力なく茶碗を見つめた。その表面に映る自分の顔が、酷く間抜けに見えた。
「でも、図書委員も良いと思うよ。静かな環境で落ち着いて作業できるし、本に囲まれるのも悪くないでしょ?」
和哉が優しく慰めてくれる。でも湊の心には、まったく響かなかった。
(俺の、一年間……)
図書室で本を整理する自分の姿が、ぼんやりと脳裏に浮かんだ。そこに先輩の姿はない。
完全に、裏目に出た。




