6話 二人の時間
体験入部が終わり、片付けの時間になった。
使った茶碗を手に取り、水で軽くすすぐ。抹茶の緑色が、水の中でふわりと広がり、ゆっくりと流れていく。
その色が消えていくのを見ながら、湊は今日のことを反芻していた。先輩の優しい笑顔、お茶の苦味、畳の上に正座した時の緊張感——そのすべてが、まだ胸の中で温かく息づいている。
「手伝います」
湊は、率先して動いた。先輩の役に立ちたい。その一心だった。少しでも、先輩に認めてもらいたい。そばにいる理由が欲しかった。
たとえそれが、ただの雑用であったとしても。先輩と同じ空間にいられるなら、それだけで十分だった。
「ありがとう、湊。助かるよ」
先輩が、嬉しそうに微笑む。その笑顔が、少年の胸を熱くさせる。
その笑顔が見られるなら、どんなことでもする。どんな大変なことでも、苦にならない。
むしろ、もっと何か手伝えることはないかと探してしまう自分がいる。先輩のためなら、どこまでも頑張れる気がした。
「茶道は、準備と片付けも大切な修行です」
吉野が、静かに、でも確かな声で言った。
その言葉には、長年茶道を続けてきた人の重みがある。真剣な眼差しで、新入部員たちを見回している。
茶道は、ただお茶を飲むだけじゃない。
その前後の、すべてが大切なのだ。心を込めて準備し、心を込めて片付ける——そのすべてが、茶道なのだと吉野は言う。
一期一会の精神は、こうした些細な所作にこそ宿るのだと。
一つひとつの所作に意味があり、一つひとつの動作に心を込める。それが、茶道の本質なのだと、湊は少しずつ理解し始めていた。先輩の背中を見ながら、茶碗を丁寧に拭く。
その手つきを真似しながら、自分もいつか、こんなふうに自然に動けるようになりたいと思った。
*****
片付けが終わり、他のメンバーが帰った後。和室には、湊と和哉だけが残っていた。
静寂が戻ってくる。
でも、それは寂しい静けさではなく、心地よい静けさだ。外の喧騒が嘘のように遠く、ここだけが別世界のような感覚に包まれる。
校舎の他の場所では、まだ運動部の掛け声や音楽部の演奏が聞こえているはずなのに、この和室だけは時間の流れが違うようだった。
畳の匂い、お茶の香り、そして先輩の存在——それらすべてが、この空間を特別なものにしている。
湊は、この静けさが好きだった。先輩と二人きりでいられる、この時間が好きだった。
「湊、もう一服どう?」
先輩が、優しく尋ねてくれる。その声が、静かな和室に響いて、湊の鼓動を早くさせる。
「はい、お願いします」
嬉しくて、すぐに頷いた。声が少し上ずってしまったかもしれない。でも、先輩は気づかないふりをして、もう一度お茶を点ててくれた。
シャカシャカという音が、静かな和室に響く。その音が、心地よい。リズミカルで、でもどこか温かみがある。先輩の手の動きは、流れるように美しい。
見惚れてしまうほどに、洗練されている。
茶筅を動かす手首の角度、茶碗を回す指先の繊細さ——どれもが絵になる。湊は、その一挙一動から目が離せなかった。
「あ、俺も先輩に淹れます!」
思わず声を上げた。先輩にお茶を点てたい。その想いが、自然と口をついて出た。先輩がいつも自分に点ててくれるように、今度は自分が先輩のために。
和哉は少し驚いた顔をした。蒼い目を丸くして、「え?」という表情だ。その反応が可愛くて、湊は思わず笑いそうになるのを堪えた。
「じゃあ、先輩が教えてあげよう」
そう言って、先輩は優しく微笑んだ。
その笑顔に、湊は救われる。断られるかもしれないと思っていたから、この言葉が本当に嬉しかった。
二人きりの、静かな時間。
和哉が隣に座り、手取り足取り教えてくれる。先輩の体温が、すぐそばに感じられる。その距離が、たまらなく嬉しい。
袖が触れ合うほどの近さで、先輩の香りが漂ってくる。心臓が早鐘を打つのを、先輩に気づかれないよう必死で平静を装った。
「茶杓は、こう持って……」
好きな人の声が、耳に心地よく響く
「茶筅は、手首を使ってね」
その声を、ずっと聞いていたい。
「そうそう、上手だよ」
指導は丁寧で、優しくて、湊はその一言一言を心に刻み込んでいく。
和哉の手が、湊の手に軽く触れる。
そのたび、その感触が電流のように体を駆け巡る。先輩の手は、思っていたより少し冷たくて、でも不思議と温かく感じた。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
和室が、薄紅色に染まっていく。
畳も、壁も、床の間の掛け軸も、先輩の横顔も——すべてが、優しい色に包まれていく。まるで、この世界が二人だけのものになったかのような錯覚を覚える。
時間が止まってしまえばいいのに、と思う。
このまま、永遠にこの瞬間が続けばいいのにと、心の底から願った。
「どうぞ」
先輩が、茶碗を差し出してくれる。その仕草が、丁寧で、美しい。正客に出すときと同じ、真摯な所作で。
「お点前、頂戴いたします」
教わった通りに茶碗を手に取り、もう一度お茶をいただいた。少し震える手で、茶碗を持ち上げる。
やっぱり、苦い。
でも、やっぱり、美味しい。先輩が点ててくれたお茶だから、特別に美味しい。この苦味も、この香りも、すべてが愛おしかった。
「やっぱり、先輩の点てるお茶、好きです」
本音を口にした。心の底から、そう思う。
これは、お茶への想いでもあり——先輩への想いでもある。先輩のすべてが、好きだ。
その優しさも、天然なところも、真摯に茶道に向き合う姿勢も。そのすべてが、湊にとってかけがえのないものだった。こんな感情を抱いたのは、生まれて初めてだった。
「そう言ってもらえると、嬉しいな」
和哉が、天然な笑顔で微笑む。その無防備な笑顔が、無垢な少年をさらに虜にする。
その笑顔は、夕日に照らされて、少しだけ赤く染まっている。まるで、照れているかのように——そんな風に見えて、胸が高鳴る。
先輩は気づいているのだろうか。俺の、この想いに。いや、きっと気づいていない。先輩は、そういう人だから。誰にでも優しくて、誰にでも平等で、だからこそ、自分だけが特別だなんて思えない。
次は、俺が点てたお茶を、先輩が飲んでくれる。
「お点前、頂戴いたします」
和哉が、丁寧に、そして少し嬉しそうに言ってくれる。
俺が点てたお茶を、先輩が飲んでくれる——それだけで、胸がいっぱいになる。先輩の唇が、俺の点てたお茶に触れる。
それが、何だかとても特別なことのように感じられて、顔が熱くなる。でも、その事実が、たまらなく嬉しかった。
和哉は、ゆっくりと、丁寧に、お茶を口に運ぶ。その所作が、本当に美しい。茶碗を両手で包み込むようにして、二口半で飲み干す。正式な作法通りに。
「うん、湊のも美味しいよ」
「えへへ、ホントっすか? よかったです」
思わず頬が緩むのを感じる。ただこの人に褒められる。それだけで、世界が輝いて見える。周りの景色が、さっきまでとは違って見えた。同じ和室なのに、同じ夕日なのに、すべてがキラキラと輝いているような気がした。
(この時間が、ずっと続けばいいのに)
心からそう思った。
先輩と二人きりで、お茶を飲む。静かな和室で、夕日に照らされながら、ただ隣に座っている。
それだけで、幸せだ。
この幸せが、ずっと続きますように——。
俺は、静かに祈った。神様がいるなら、この時間を永遠にしてほしい。この瞬間を、心に焼き付けておきたい。先輩の横顔も、夕日の色も、お茶の香りも、すべてを忘れたくなかった。
*****
「にひひ」
部活終了後、湊は喜びを抑えきれなかった。
帰路、頬は緩みっぱなしだ。道行く人に変な顔をされても、気にならない。今日のことを思い出すだけで、自然と笑みがこぼれる。駅までの道のりも、いつもより短く感じた。足取りが軽くて、スキップでもしたい気分だった。
先輩と二人きりで過ごした時間。先輩が淹れてくれたお茶。先輩の笑顔。あの優しい声。隣に座った時の距離感。すべてが、宝物のように輝いている。何度思い出しても、胸がときめいて、頬が熱くなる。
「たっだいまー」
玄関のドアを開けると、家の匂いが俺を包む。夕飯の匂いがする。いつもの、安心する匂い。
「あら、湊おかえり、ご飯出来てるわよ」
母が、エプロン姿で出迎えてくれる。優しい笑顔だ。湊の様子を見て、少し不思議そうな顔をしている。
「はーい」
「んふふ」
また、笑みがこぼれる。止まらない。幸せすぎて、顔の筋肉が勝手に動いてしまう。
「おかーさん、お兄ちゃんが気持ち悪い」
小5の妹が、容赦ない暴言を吐く。テレビを見ながら、冷ややかな視線を向けてくる。でも、今日は気にならない。何を言われても、この幸せは揺るがない。妹の言葉なんて、今は耳に入らなかった。
「なにか、いいことがあったのね。小さな頃からの癖みたいなものよ、嬉しいことがあると、ああやって笑っちゃうの」
母が、優しく言う。懐かしそうに、湊の小さい頃を思い出しているようだった。
「えぇ…キモ」
妹の蔑むような、ドン引くような声が聞こえた気がした。でも、そんなことはどうでもよかった。今の湊は、世界で一番幸せな気分だったのだから。
*****
ガチャ
薄暗い廊下。
リビングまで歩いていく。足音だけが、静かな家に響く。誰もいない玄関。誰も出迎えてくれない、いつもの帰宅。
「……ただいま」
和哉は、小さく言った。誰に聞かせるでもなく、ただ習慣で。この言葉を言わないと、家に帰った気がしないから。
「ああ、和哉、帰ったのね。おかえりなさい。ご飯出来てるわよ」
母が、いつもの調子で言う。その声には、温かみというより、義務的な響きがある。リビングから顔も出さずに、そう告げるだけ。和哉は、それに慣れていた。
「ありがとうございます、着替えてから食べます」
そう言って和哉は自室に入り、ポスっとベッドに腰掛け、手近のクッションを抱きしめる。そのクッションが、唯一の安らぎのような気がする。柔らかい感触に、少しだけ心が落ち着いた。
「ふぅー」
深く息を吐く。今日の疲れが、どっと押し寄せてくる。体というより、心の疲れだった。
今日はいろいろあった。入部体験では細々としたミスはあったが、大きなミスはなかった。昔から自分の気質には悩まされている。
どうしても、どこか抜けてしまう。完璧にはなれない。どれだけ気をつけていても、必ず何かを忘れる。それが、和哉の悩みだった。
気をつけているつもりでも、どっか抜けがある。気をつけてない時は、とんでもないことになる。母によく叱られる。「どうしてそんなに注意力がないの」と。その言葉が、いつも胸に刺さる。
茶道のように一定の動作を、落ち着いてできるのは性に合う。
長年続けていると体に染みつくので、無心でできる。考えなくても、体が動く。それが、心地よい。茶道の時間だけは、自分が自分でいられる気がする。何も考えず、ただ所作に集中する。その時間が、和哉にとっての救いだった。
和哉はコテンっとベッドに倒れる。
制服のままなのでお行儀が悪いし、母に見つかればコテンパンに叱責されるだろう。「何度言ったらわかるの」「だらしない」——そんな言葉が聞こえてきそうだ。
でも、今は動きたくない。このまま、ぼんやりしていたい。少しの間だけ、何も考えずにいたかった。
(まさか、あの子が入ってくるとは)
思わず笑みが溢れる。自然と、頬が緩む。
中学の後輩。三年前の、ちょうどこの時期に会ったのを覚えている。あの時も、今と同じ季節だった。桜が散り始めた頃だった。迷子になって泣きそうな顔をしていた、小柄な後輩。
あの時、優しく声をかけてあげたら、ぱっと顔を輝かせて笑ってくれた。その笑顔を、今でも覚えている。
(変わってなかったな)
小柄でタレ目の男の子。迷子の子犬のような顔をしていたのを覚えている。不安そうに、でもどこか懸命に、僕を見上げていた。あの時から、可愛い後輩だと思っていた。まさか、また会えるとは思わなかった。しかも、同じ部活で。
今日もあいも変わらず、撫でやすそうな頭だった。さすがに良くないと思い自制したが。機会があれば、撫で回してみたい。あの柔らかそうな髪を、優しく撫でてみたい。
きっと、気持ちいいだろうな。あの子、喜んでくれるだろうか——そんなことを考えて、和哉は自分で自分に呆れた。
コンコン
(っ!)
和哉は、反射的に体を起こす。背筋が伸びる。条件反射のように。
「和哉ー? 何してるの、早くご飯食べちゃいなさい」
母の声が、ドア越しに響く。その声には、苛立ちが混じっている。ああ、怒らせてしまった。また、余計なことをした。
「ご、ごめんなさい。すぐ行きます」
そう言って和哉は、慌てて制服から部屋着にさっさと着替え、階段を降りて行った。母を怒らせないように。これ以上、機嫌を損ねないように。
普通に、普通に生きるために。でも、心の中では、まだあの子の笑顔が残っていた。
それだけが、今日の救いだった。あの笑顔を思い出すだけで、少しだけ心が軽くなる。明日も、また会えるだろうか。そんなことを考えながら、和哉は階段を降りていった。




