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ふたりのフツウ  作者:


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5話 お手前

「では、実際に先輩方にお茶を点ててもらいながら、道具の説明をしていきます」


 吉野が、穏やかな口調で言った。


「三人とも、よろしくお願いしますね」


「「はい」」


 和哉、七瀬先輩、村内先輩が、揃って返事をする。


「まずは、私のためにお茶を点ててもらいますね。本来は先にお菓子をいただくものなのですが、今回は体験入部ということで、順序を変えて後回しにします」


 吉野の説明に、一年生たちは「はい」と小さく頷いた。


 和哉がゆっくりと立ち上がった。その動きは、急ぐこともなく、ちょうどいいテンポだ。


「では、失礼します」


 小さく一礼をして、茶室の方へと向かう。一歩一歩が丁寧で、足音もほとんど立てない。


 湊は、固唾を呑んで見守る。


 これから、本物のお点前が見られる。中学の時、先輩が点ててくれたあのお茶が、どんな風に作られていたのか——その過程を、今から目の当たりにできる。


 胸が高鳴る。


 和哉は、茶室の隅に置かれていた、茶碗よりも大きい器を両手で持ち上げた。


「あれは建水けんすいと言います。お茶を点てる際に使った水を捨てるための器ですね」


 吉野が、静かに解説を加える。


 深い青色の陶器だ。シンプルだが、眺めているだけで心が落ち着く。


 和哉は建水を持ったまま、茶室の中央へと進み、正座で座った。背筋がピンと伸びている。指先まで神経が行き届いているのが分かる。


「それでは、お点前を始めます」


 静かに宣言される。


 その声には、普段のふわふわした雰囲気とは違う、凛とした響きがあった。茶道をする時の先輩は、いつもとは違う顔を見せる。


 それが、また魅力的で——湊は、ますます惹かれていく。


 和哉は、腰のベルトに挟んでいた布を左手で取り出した。紫色の、絹のような光沢のある布。


帛紗(ふくさ)は、茶道具を清めるための布です」


 吉野が説明する。


 先輩は帛紗を手に取ると、それを広げ始めた。その動作は、まるで手品のように滑らかだ。布を持ち、折りたたみ、また広げる。

布を撫でるように白い指先がしなやかに動く。


 一つ一つの動きが正確で、無駄がない。まるでダンスを見ているかのように、リズミカルで美しい。


「帛紗を捌くことで、心を整え、道具を清める準備をします」


 吉野の言葉に、湊は深く頷く。ざわついていた気持ちが、静かに沈んでいく。これが、茶道の持つ力なのだろうか。


 帛紗を捌き終えた先輩は、次に小ぶりな容器を手に取った。大体、飲食店の台の隅にある爪楊枝入れのようなサイズ感だ。


なつめは、抹茶を入れる容器です」


 黒い漆塗りで、表面には金色の蒔絵が施されている。松と鶴の模様だ。


 それを片手で包むように持ち帛紗で、棗の蓋を丁寧に拭う。上に、下に。ひらがなの『こ』を描くように、ゆっくりと。その手つきが、まるで赤ん坊を撫でるかのように、優しい。


 次に、茶杓ちゃしゃくを清める。竹でできた、細長い匙だ。


 和哉は帛紗を縦に折り、茶杓の柄を拭う。

先端から根元へ。一度で、綺麗に。その動きに一切の迷いがない。


 そして最後に、茶碗を清める。


 白地に、薄い青の模様が入っている。波のような、雲のような、抽象的な模様だ。シンプルだが、見れば見るほど味わい深い。


 先輩は茶巾ちゃきんと呼ばれる白く薄い布で、茶碗の内側を拭う。くるくると、円を描くように。


 湊は、完全に見入っていた。まばたきすることすら、惜しい。


 道具を清め終えた先輩は、茶杓で棗から抹茶をすくい取った。鮮やかな緑色の粉末が、茶碗の中に落ちていく。


 一杓、二杓。


 次に、柄杓ひしゃくで湯を汲んだ。


 柄杓は竹でできた、長い柄のついた杓だ。

簡単に言えば、神社の手水舎にある、あの柄杓と同じような形だ。ただ、茶道用のものは、もっと小柄な印象だ。


 茶釜から湯を汲み上げる。湯気が立ち上る。その湯気が、その真剣な顔を柔らかく包んでいた。


 和哉は柄杓を傾け、茶碗に湯を注ぐ。静かに、ゆっくりと。


 トポトポトポ——。


 湯が茶碗に注がれる音が、和室に響く。その音さえも、心地よい。


 そして、茶筅ちゃせんを手に取った。竹を細かく裂いて作られた、泡立て器のような道具だ。


 茶筅を茶碗に入れ、手首を使って素早く動かし始めた。


 シャカシャカシャカシャカ——。


 リズミカルな音が響く。茶筅が細やかにM字を描くように動き、抹茶と湯が混ざり合っていく。


 緑色の液体が、少しずつ泡立っていく。


 その手は速いのに、ブレない。指先は力強いのに、優しい。凛とした横顔は真剣なのに、穏やかだ。


 湊の心臓が、また大きく跳ねる。


「どうぞ」


 茶碗の正面を吉野に向けて、先輩は点て終わった茶碗をそっと置いた。


「お点前、頂戴いたします」


 吉野が、丁寧に言った。茶碗を手に取り、一口、二口、三口——。そして最後に、ズズッと音を立てて飲み干した。


「美味しゅうございました」


 吉野が、満足そうに微笑む。


「ありがとうございます」


 先輩も、嬉しそうに微笑み返した。その笑顔が穏やかで、また眩しい。


「それでは、次は一年生の皆さんにお茶を点てましょう」


 吉野が、厳かな声で告げた。


「その前に、お茶をいただく際の作法を教えますね」


 七瀬が立ち上がり、丁寧に説明を始めた。


「まず、お茶が出されたら『お点前頂戴いたします』と挨拶をします。次に、右手で茶碗を取り、左手の手のひらに乗せます」


「そして、右手で茶碗を時計回りに二度回します。これは、正面を避けるためです。正面は一番美しい部分なので、そこに口をつけるのは失礼にあたります」


 美しいものを大切にする心——それが、茶道の精神なのだ。


「三口半で飲みます。最後の半口でズズッと音を立てて飲み干します。飲み終わったら、飲み口を右手の指先で拭い、反時計回りに二度回して、正面を元に戻します」


「最後に、茶碗をじっくりと拝見します」


 七瀬の説明は、とても分かりやすかった。一つ一つの動作に、ちゃんと意味がある。


 でも、実際にやるとなると——難しそうだ。中学の時、先輩から教わったことはあるが、ちゃんと覚えているだろうか。


「では、綿貫さん、七瀬さん、村内さん、三人でお茶を点ててください」


 吉野の指示で、三人の先輩がそれぞれ茶碗を手に取った。


 一年生は、誰のお茶をいただくのだろう。


 心の中で、必死に祈る。先輩のお茶がいい。他の誰でもなく、先輩が点てたお茶を飲みたい。


「水野さんには七瀬さん、佐野さんには村内さん、久我さんには綿貫さんが点てましょう」


 湊の祈りが通じた。


 三人の先輩が、それぞれお点前を始める。茶室に、三つの茶筅の音が響く。


 シャカシャカ、シャカシャカ、シャカシャカ——。


 心地よいリズムだ。三つの音が重なり合って、まるで音楽のようだ。


 手元に、思わず視線が吸い寄せられる。茶筅を持つその手つきは、とても丁寧で、優しい。


 そして、お茶が完成した。


「どうぞ」


 先輩が、湊の前に茶碗を差し出す。


 受け取ろうとした瞬間、指先が触れそうになって——湊は慌てて手を引いた。先輩は気づいていないようで、穏やかに微笑んでいる。


 だが湊の心臓は、さっきから暴れ通しだった。


 緑色の、細かい泡が立った、美しいお茶。先輩が、俺のために点ててくれた。


「お点前、頂戴いたします」


 湊は、教わった通りに挨拶をした。声が少し震えている。


「はい、どうぞ」


 先輩が、優しく微笑む。その笑顔に、またドキリとする。


 右手で茶碗を取り、左手に乗せる。重い。そして、ちょっと熱い。温度が手のひらに伝わってくる。


 右手で、時計回りに二度回す。


 そして、口をつける。


 一口目。


 苦い。やっぱり、苦い。抹茶の濃厚な苦味が、舌に広がる。


 でも——。


 二口目。


 この苦さが、心地よい。不思議と、嫌じゃない。むしろ、もっと味わいたいと思う。


 三口目で、少し音を立てる。そして最後に、ズズッと。


 飲み干した。


「……美味しいです」


 本心から、そう言った。


 苦いけれど、美味しい。中学の時と同じ、あの「心地よい苦さ」だ。あの時の記憶が、鮮明に蘇ってくる。


 動作は、意外と体が覚えていたようだ。


「そう? 良かった」


 先輩が、にこりと微笑んだ。


「湊、上手だね。作法を丁寧に覚えてる」


 先輩が褒めてくれた。


 顔が、熱くなる。耳まで、真っ赤になっているのが分かる。


 嬉しさで、胸がいっぱいだ。顔を伏せて、必死に笑みを噛み殺す。


 隣では、水野が緊張で手を震わせながらお茶を飲んでいる。


「あの……これで、合ってますか?」


 不安そうに、七瀬に尋ねる。


「大丈夫ですよ、水野さん。とても丁寧にできています」


 七瀬が優しく微笑む。


「雪、上手だよ!」


 佐野が、力強く励ます。


 その隣では、村内が意外としっかりした手つきでお茶を点てていた。真剣な表情で茶筅を動かすその姿は、普段のチャラい雰囲気とは全く違って見える。


「村内さん、なかなかいいですね」


 七瀬が、感心したように言う。


「ありがとうございます!」


 村内が、嬉しそうに笑った。その顔が、あまりにも分かりやすくて、少し微笑ましい。好きな人に褒められるのは、嬉しいものなのだ。


 お茶を飲み終わった後、吉野が「少し休憩しましょう」と言ってくれた。


 お茶菓子、落雁らくがんが配られる。

白くて、固い、砂糖菓子だ。表面には、梅の花の模様が刻まれている。


 口に入れると、ほろほろと崩れて、優しい甘さが広がる。苦いお茶の後だからこそ、この甘さが余計に美味しく感じる。


「さて、ここまでで何か気になることはありますか?」


 吉野が、湊たち一年生に問いかける。


「あ!はい!」


 すると佐野が元気よく手を挙げた。


「はい、なんでしょう?」


「えっと、最初の挨拶で先生が言っていた『裏千家』ってなんですか?」


「ああ、いい質問ですね」


 吉野が、満足そうに頷く。


「茶道には主に三つの流派があります。裏千家と表千家、武者小路千家というものです。武者小路千家はあまり経験がないので説明は避けますが、裏千家と表千家では歩き方やお茶の点て方が少し違います」


すると、吉野はふと、和哉の方を見た。


「綿貫さんは表千家の方も経験があるのですよね。どんなところが違いましたか?」


「そうですね」


先輩が、少し考えるように目を細める。その仕草が、また可愛い。


「裏千家はお茶をしっかり泡が立つまで混ぜますが、表千家はあまり泡を立てません。また、裏千家では左足から入り右足で出ますが、表千家では右足から入り左足から出ます」


「なるほど、ありがとうございます」


吉野が頷く。


「こんなふうに細かいところが違っているのですが、表千家と裏千家の違いは、表千家は古来の形式を大切にし、裏千家は時代に合わせた工夫を取り入れてた、という違いがあると言われますね」


「こんなところですが、大丈夫でしょうか」


「はい!ありがとうございます」


 佐野が、元気よく答える。


   *   *   *


 しばらくして、お点前の練習が続く。


「綿貫さん、また帛紗落としてましたよ」


 七瀬が、呆れたように言った。


「あ、ごめん……」


 和哉が、バツが悪そうに笑う。その顔は、子供が叱られた時のようだ。


 でも、そんなところも可愛い。完璧じゃないところが、また先輩らしい。


 七瀬は、ため息をつきながらも、落ちた帛紗を拾ってあげていた。完全に、お母さんのようだ。


「さすが、綿貫先輩! お点前はすごかったっす!」


 村内が、目を輝かせて言う。


「私たちにも、できるようになりますか?」


 水野と佐野が、不安そうに尋ねる。


「大丈夫、みんな最初は初心者だから」


 和哉が、優しく微笑む。


「練習すれば、絶対にできるようになるよ。僕も最初は、失敗ばかりだったから」


 その言葉に、二人は安心したように頷いた。


「久我さん、どうでしたか?」


 吉野が、湊に尋ねてきた。


「入部します。茶道、やってみたいです」


 迷わずに答えた。先輩と同じ時間を過ごせる。それだけで、十分すぎる理由だ。


「良いですね。その目、真剣ですね」


 吉野が、満足そうに頷いた。


「一緒に頑張ろうね、湊」


 先輩が、嬉しそうに言ってくれる。


「はい!」


 力強く答えた湊の視線の先で、和哉が微笑んでいる。


 この想いを、いつか——。


 まだ、その時じゃない。でも、いつか必ず。先輩の隣に、当たり前のようにいられる存在になりたい。

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