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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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4話 自己紹介

和室の静寂の中、すべての視線が和哉に注がれる。


 障子から差し込む春の陽光が、畳の縁を柔らかく照らしている。湊は息を潜めて、先輩の次の言葉を待った。


「えっと……部長の、綿貫和哉です」


 先輩の声が、静かな和室に響く。いつものふわふわとした口調とは少し違う。

緊張しているのか少し硬い。

丁寧に、一言一言を選ぶような話し方だ。


 それでも、その声は優しくて、聞いているだけで心が落ち着く。春の風が運ぶ花の香りのように、穏やかで心地よい。


「茶道は、中学の頃からやっていました」


 (そうだ、あの時から……)


 湊の記憶が、3年前の春に戻る。


 桜の花びらが舞う和室で、袴姿の先輩がただの迷子の後輩にお茶を点ててくれた、あの日。温かい抹茶の香りと、先輩の優しい微笑み。あの瞬間から、湊の世界は色づき始めた。


 それまで何でもなかった日常が、鮮やかな春の色に染まっていった。


「好きな食べ物は、オムライスです」


 (オムライス……可愛い)


 もっと渋いものを想像していた。懐石料理とか、和菓子とか、そういう高尚なものを。

 

 でも意外と子供っぽい好みなのが、またギャップで愛おしい。ふわふわの卵に包まれた赤いケチャップライス——そんなものを好きな先輩を想像すると、思わず口元が緩んでしまう。


「これから、よろしくお願いします」


 そう言って、和哉は先刻の吉野と同じように、両手の指先を綺麗に揃えた。


 ハの字に床につき、肘を伸ばす。背筋をピンと伸ばしたまま、ゆっくりと肘を曲げて、頭を下げていく。


 その所作は、まるで舞を見ているかのように流れるように美しい。指先の角度、背中の曲線——すべてが計算されたかのように完璧だった。


 畳に映る影さえも、優雅で儚い。


 そして、ゆっくりと上体を起こしていく。窓から差し込む光に照らされて、先輩の横顔が少しだけ輝いて見えた。


 湊は、完全に見惚れていた。


 時間が止まったかのように、先輩の姿だけが視界に焼き付いている。周囲の音が消え、世界が先輩だけになる。心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。


「君、固まっている場合ではありませんよ。お辞儀を返さないと」


 吉野の声で、ハッと我に返る。


 気づけば、湊以外の全員がお辞儀をしていた。水野も佐野も、ちゃんと頭を下げている。湊だけが、ぼーっと先輩を見つめたままだった。


「す、すみません!」


 慌ててお辞儀をする。見様見真似で、両手をハの字に。でも、指先が揃わない。肘の曲げ方もぎこちない。背中も丸まってしまう。


 (くそっ、格好悪い……)


 顔が熱くなる。耳まで真っ赤になっているのが、自分でも分かる。よりにもよって、先輩の美しいお辞儀の直後に、こんな無様な姿を。


 顔を上げたとき、和哉と目が合った——ような気がした。


 先輩は柔らかく微笑んでいる。いつもの、誰にでも向ける優しい笑顔。それでも湊の胸は、理由もなく高鳴った。


「では、続いて七瀬さん、お願いします」


「はい」


 七瀬が、凛とした声で返事をする。


「私は、七瀬涼香(ななせ りょうか)と申します。茶道部は、高校に入ってから始めました。中学の頃は、花道部に所属しておりました」


 花道部出身だから、床の間の水仙があれほど美しく生けられているのか。湊は床の間に目をやった。白い水仙が、シンプルな竹の花器に生けられている。余計な装飾は一切ないのに、凛とした美しさがあった。


「好きな花は、水仙です。これから、よろしくお願いいたします」


 そして、七瀬も美しいお辞儀をした。和哉に負けないくらい、綺麗な所作だ。その完璧さには、厳しい稽古を積み重ねてきた痕跡が見える。


 今度は、湊もちゃんとお辞儀を返した。さっきよりは、少しマシになった。指先を揃えることを意識して、背筋も伸ばした。


「じゃあ、次は俺っすね」


 村内が、明るい調子で言った。その陽気な声が、固くなっていた空気をふわりと和らげてくれる。


「俺の名前は、村内尚弥(むらうち なおや)です。茶道は、高校に入ってからが初めてです。中学の時は陸上やってました」


 確かに、村内は動きが軽快だ。肩幅がしっかりしていて、走るのが速そうな、引き締まった体つきをしている。


「好きな色は……赤っすね」


 そう言って、村内は少しだけ視線を七瀬先輩の方へ向けた。


 一瞬だけ。本当に一瞬だけ。でも、湊には分かった。


 (ああ、この人、七瀬先輩のことが好きなんだ)


 赤——七瀬先輩が今日、髪につけているリボンの色。


 七瀬先輩は何も気づいていない様子だ。村内の視線に気づいた湊だったが、当の本人は相変わらず凛とした表情を保っている。


「よろしくお願いします」


 村内もお辞儀をした。和哉や七瀬ほどではないが、それでも丁寧な所作だ。


「それでは、次は一年生の方……男の子から、どうぞ」


 吉野が、優しく促してくれる。その柔らかい視線が、湊を見つめている。


「は、はい」


 湊は喉が渇いているのを感じながら、声を絞り出した。緊張で口の中がカラカラだ。


「俺は、久我湊です」


 全員の視線が注がれる。和哉も、じっと見ている。その視線が、嬉しいような、恥ずかしいような。心臓が早鐘を打つ。


「中学の時は、部活は無所属で……えっと」


 困った。和哉に再会する以外に、茶道を始めた理由が思いつかない。


 さすがに馬鹿正直に、『先輩と一緒にいたいからです!』とは言えない。そんなことを言ったら、ドン引きされる。それに、先輩も困ってしまうだろう。


 頭の中で、必死に言葉を探す。茶道を始めた理由——。先輩以外の理由——。


 そうだ、さっきの吉野とのやり取りで、何か感じたことがあったはずだ。


「……茶道を通じて、礼儀作法などを身につけたいと思い、入部しました」


 即興だが、なかなかいい理由だ。


 嘘ではない。さっきの挨拶の指導で、自分に足りないもの、茶道で学べる大切なことが見えた。お辞儀一つとっても、こんなに奥が深い。


 礼儀、作法、相手を思いやる心——。それは、きっと先輩に相応しい人間になるためにも、必要なことだ。


「好きな季節は、春です」


 (先輩と出会った季節)


 春——桜の花びらが舞う、あの季節。湊の人生が変わった、特別な季節。


 あの日の温かさ、桜の香り、そして先輩の優しい笑顔。すべてが蘇ってくる。


「よろしくお願いします」


 見様見真似で、お辞儀をした。両手をハの字に。肘を伸ばして。背筋を伸ばして。


 まだぎこちないけれど、さっきよりは少しマシになった。指先を揃えることを意識した。頭を下げる速度も、少しゆっくりにした。


「素晴らしいですね、久我さん。少しずつ上達していますよ。一緒に頑張りましょうね」


 吉野が、優しく微笑んでくれた。


 その言葉に、湊は顔を上げる。そして——また、和哉と目が合った。


 今度は確かに、目が合った。


 先輩の瞳が、湊を見つめている。その視線には、何か温かいものが宿っているように見えた。


 ほんの一瞬の出来事。


 でも、その一瞬で、湊の心臓は跳ね上がった。


「では、お隣のおさげのお嬢さん、よろしくお願いします」


「は! はい!」


 隣の子が、慌てたように返事をする。声が少し上ずっている。手を膝の上で握りしめて、小刻みに震えている。


「ゆ〜き、落ち着きな」


 彼女の隣の女子が、背中をポンッと優しく叩いた。


「う、うん。ありがとう……」


 少女は小さく頷いて、深呼吸をする。そして、意を決したように口を開いた。


「私の名前は、水野雪(みずの ゆき)です。中学の時は……美術部でした」


 確かに、水野は繊細そうな雰囲気を持っている。長いおさげ髪と、少し伏し目がちな表情が、静かに作品と向き合う姿を連想させる。


「おばあちゃんが茶道をしていたので、興味があって……高校でやりたいなって思い、体験に参加しました」


 水野の声に、少しだけ温かさが混ざった。きっと、大好きなおばあちゃんなのだろう。誰かへの憧れや尊敬から何かを始める——湊自身も、そうだったから。


「好きな動物は、犬です。よろしくお願いします」


 そう言って、水野は少しだけ笑顔を見せた。お辞儀をする手が少し震えていたけれど、一生懸命やろうとしている姿が伝わってくる。


「はい、ありがとうございます。お婆様がされていたんですね。素敵なご縁ですね」


 吉野が優しく微笑む。


「は、はい……!」


 水野が、嬉しそうに頷いた。顔が少し赤くなっている。


「では最後に、ショートヘアのお嬢ちゃん、お願いしますね」


「はい! 私の名前は、佐野綾香(さの あやか)って言います!」


 佐野が、元気よく返事をした。さっきまでの緊張した空気を吹き飛ばすような、明るい声だ。


「中学のときは、ソフトテニスをしてました。高校では、運動部じゃなくて文化部に入ってみたくて、雪と一緒に参加しました」


 そう言って、佐野は隣の水野を見た。水野も、小さく微笑み返す。二人の間には、言葉にならない絆がある。


「んーと、好きなもの……好きなものは〜、ランニングです! 毎朝してます! よろしくお願いします!」


 佐野も、お辞儀をした。和哉や七瀬のような優雅さはないけれど、力強さがある。スポーツで培った、真っ直ぐな礼儀だ。


「あら、毎朝だなんて、すごいですね。その健康的な習慣、素晴らしいわ」


 吉野が感心したように言う。


「皆さん、楽しい自己紹介をありがとうございます。それぞれの個性が感じられて、とても良かったですよ」


 吉野が、一人一人の顔を見ながら言った。その視線は温かく、まるで母親のような優しさがある。


「さて、この後は茶道の道具について簡単に説明して、先輩方が点てたお茶とお菓子を楽しみましょう。実際の稽古は、次回からになります」


「「はい」」


 湊たち一年生が、揃って返事をした。


 湊の心臓は、まだ高鳴っている。


 先輩の視線。あの、温かい眼差し。


 それが胸の奥で、じんわりと熱を持ち始めていた。これから始まる茶道の世界。そして、これからの和哉との時間。期待と緊張が入り混じって、胸がいっぱいだった。

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