28話 皺寄せ
湊は和哉に手を引かれ、木陰のある場所を目指して歩いていた。グラウンドの熱気から少し離れるだけで、空気の重さが変わる気がする。日向と日陰では、体感温度が全然違う。先輩はそういうことをちゃんと知っているのだ。
「あ、自販機で飲み物買って行きませんか?」
言いながら、湊は思い出した。飲み物を買うために自販機に寄ったのに、和哉や涼香のことに気を取られて、買った分をそのまま涼香のお見舞い品にしてしまっていた。おまけにその後、茶道室まで廊下を走ったので、喉がカラカラだ。
「いいね〜、なに飲もうかな」
サイダーかカルピスか〜と呟きながら、和哉は歩きながら悩んでいる。視線は完全に宙を漂っていた。
「先輩、ちゃんと前見ないと……」
転びますよ、と言い切る前だった。
和哉の足が、段差に引っかかった。しかも場所が悪い。階段の上り口だ。前に倒れたらまずい。
「先輩!」
湊は咄嗟に支えようとした。しかし、右手はまだ和哉と繋がれている。勢いを殺しきれず、二人一緒にバランスを崩した。湊一人なら立て直せた。だが、この体勢から和哉ごとカバーするのは、さすがに無理だった。
「うお!っと、あっぶねえー」
和哉の体が前から抱き止められる。もちろん湊ではない。前から来た誰かに、正面からがっしりと受け止められた形だ。
「あ、えっと」
「気ぃつけろよー、綿貫」
「ありがとう」
「いやいや、大丈夫だよ。お? もしや後ろのは今話題の——」
「え? 話題?」
「わー! わー!!」
和哉が急に声を上げた。両手で何かを遮るような仕草をしている。
「ど、どうした……」
「先輩?」
「そ、それより、なんか急いでたみたいだけど大丈夫?」
話を変えようとしているのが丸わかりだったが、相手も察したのか、それ以上は追わなかった。
「え? ああ!! そうだった、そうだった! 急がないとやべぇ!」
「なにかあったんですか?」
相手の男子——三年の体育祭委員だったはず——は、息を整えながら答えた。
「今日の団対抗リレー、七瀬が抜けた分、誰かに走ってもらわないといけなくて。走りに自信のある奴はすでにメンバーだし、大体みんな競技に制限まで入っちまってるんだよ」
「制限?」
「あ、体育祭は一人の選手に負担がかからないよう、一人につき三種目まで、競技への連続参加も禁止っていう制限があるんです。団対抗リレーは各学年五人参加なんで、ほぼ最終のこのタイミングで助っ人を見つけるのは、なかなか大変ですね」
「なんでうちのクラス他より人が少ないんだよ。競技メンバーがカッツカッツだぞ」
「あーー、そうなんだーー」
和哉の目が、泳ぎ始めた。
だって、カッツカッツな理由は自分だ。どの競技にも名前を書かなかったのは、紛れもなく和哉自身だった。体育祭の選手決定の期限になっても、クラスのLINEを確認していなかった。気づいた時には既に手遅れで、涼香に「体育祭、綿貫さんはお飾りですね」と宣告され席に拘束されていたのはまだ記憶に新しい。
(う、さっき助けてもらったから心が痛い)
しかもさっきから湊がじっとこちらを見てくる。バレてる。バレてるよ、自分が原因だって。
「うーん、クラスLINEでも反応ないし……」
LINEか、と和哉は思った。そういえば三年になって最初の頃に、涼香がクラスのグループLINEに追加してくれたのを思い出す。通知がうるさくて、すぐにオフにしていた。
恐る恐るスマホを取り出して確認すると、通知が百六十八件溜まっていた。見たことのない数だ。LINEを開くと、内訳はクラスLINEで百四十四件、湊から十六件。
そして涼香から十八件。
その内容はこうだった。
『今どこですか』
『戻ってますよね?』
『約束しましたよね?』
『私が戻るまでに先にいなければ針千本飲まします』
『せめて、返信なさい』
茶道室から戻ってきて、本当によかった。
画面をスクロールしていると、また新しいメッセージが届いていた。
『既読、なりましたね』
怖い。怖いよ、七瀬さん。
『クラスLINE見なさい。言いたいことわかりますよね?』
『健闘なさい』
出ろということだ。拒否権はない、ということだ。
クラスLINEを開くと、確かに助っ人を求める声が連なっていた。百四十四件の中身のほとんどが、誰か走れる人いないか、という呼びかけだった。
「あ、僕、でます」
和哉の口から言葉が出ていた。
「マジで!? いいの!?」
「う、うん。選手申請とかよくわからないからお願いしていい?」
「おう! 任せとけ! クラスLINEにも解決したって送っとくな!」
体育祭委員の男子は、そう言うなり来た道を全力で戻っていった。その背中が人混みの中に消えるのを、和哉はぼんやりと見送った。
自分で言った言葉なのに、少し現実感がなかった。リレー。自分が、走る。
「先輩、大丈夫ですか?」
「うん、針千本飲むよりマシ」
「針千本?」
湊が首を傾ける。和哉は「なんでもない」と手を振ってスマホを見た。
涼香からまたメッセージが届いていた。
今度は一言だけ。
『よくできました』
和哉はそれを見て、小さく笑った。呆れているのか、安堵しているのか、自分でもよくわからない笑いだった。隣で湊が「先輩?」と覗き込んできたので、和哉はスマホの画面を隠すように胸元に引き寄せた。
「なんでもないよ。それより、飲み物買いに行こっか」
「忘れてましたね」
「忘れてた」
お互い素直に認めると、湊が噴き出した。その笑い声が、グラウンドの歓声の中に混じって消えていく。
日差しはまだ強かった。でも、木陰の入り口は、もうすぐそこだった。




