2話「茶道部へようこそ」
湊と和哉は誘導の仕事を切り上げ、校舎二階の奥へと歩を進めていた。廊下を曲がると、そこだけ空気が変わったような気がした。
ざわついた放課後の喧騒が嘘のように遠のき、静謐な雰囲気が漂っている。
「ここだよ」
先輩が指を差した先には、廊下よりも一段高くなった場所があった。木材でできているその段差の上には、繊細な草花の模様が描かれた襖が並んでいる。
薄紫と金色で描かれた四季折々の花々が、まるで本物のように艶やかだ。
段差の隅には年季の入った木製の靴箱が設置されており、最も手前の襖が少しだけ開かれている。
そこには『茶道部体験入部 本日開催』と達筆な筆文字で書かれた張り紙が貼られていた。張り紙の周りには、小さな桜の花びらのイラストが添えられている。細やかな配慮が感じられる装飾だ。
「じゃあ、入ろうか」
先輩はそう言うと、自然な動作で靴を脱ぎ始めた。ただ脱ぐだけではない。靴を脱いだ後、くるりと向きを変えて、つま先を廊下側に向けて丁寧に揃える。その所作の一つ一つが流れるように美しい。
「あ、靴は向きを変えて揃えるんだよ。茶道では、次に履く人のことを考える心が大切だから」
先輩が優しく教えてくれる。俺も慌てて靴を脱ぎ、先輩の真似をして向きを変えて揃えた。不格好だったかもしれないが、先輩は「うん、いいね」と微笑んでくれた。
その笑顔だけで、湊の心臓はいとも簡単に大きく跳ねる。
先輩は襖に手をかけ、ゆっくりと開けていく。片手ではなく、両手を使って丁寧に。
襖の開け方一つとっても、茶道の作法が息づいているようだ。
「失礼します」
先輩が小さく一礼して中に入る。俺もそれに倣い、「失礼します」と声を出してから和室に足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間、畳の香りがふわりと鼻をくすぐった。イ草の清々しい香り。
和室は大きく二つの空間に分かれていた。
手前の大部屋は十二畳ほどの広さがあり、窓際には古い欅材の棚が設置されている。その棚には様々な茶道具が整然と並べられていた。
見たことはあるが名前がすぐには出てこない道具たちだ。中学の時、和哉が使っていたのを見ていたはずなのに、改めて見ると分からないものばかりだ。
そして奥には、六畳ほどの小部屋がある。
そこは本格的な茶室になっているようだ。
小部屋と大部屋の境界には、低い段差があり、まるで舞台のように一段高くなっている。茶室特有の厳かな雰囲気が、その段差一つで演出されていた。
「あそこが実際にお点前をする茶室だよ。今日は体験入部だから、こっちの大部屋で基本を教わることになると思う」
和哉の説明を聞きながら、湊は茶室の方へ目をやる。
茶室の中央には風炉が据えられ、その上には黒く煤けた鉄の茶釜が置かれている。湯気こそ立っていないが、今にも湯が沸きそうな佇まいだ。茶釜の周りには、茶碗や茶筅、柄杓といった道具が丁寧にセットされている。
壁の一角、一番目立つ場所には床の間がある。そこには達筆すぎて正直読めない掛け軸が掛けられていた。墨の濃淡が美しく、力強い筆致で何かの言葉が書かれている。
きっと深い意味があるのだろう。
掛け軸の下には、白い水仙が飾られている。艶やかな花びらが、和室の落ち着いた色調の中で鮮やかに映えていた。
床の間の隣には床脇という一段高くなった棚があり、そこには青磁の茶碗が飾られている。
釉薬の色が美しく、見るからに高価そうだ。照明の光を受けて、淡い青色が幻想的に輝いている。触れるのが怖いくらいの存在感だ。
「すごい……」
思わず呟いた。中学の時に忍び込んだ和室も素敵だったが、ここはさらに本格的だ。空気そのものが違う。背筋が自然と伸びるような、凛とした空間だった。
「ね、いい雰囲気でしょ? 僕もここが大好きなんだ」
先輩が嬉しそうに言う。先輩のこういう無邪気な笑顔を見ると、心がぎゅっと掴まれたような気持ちになる。
和室の内装を観察していると、背後の出入り口の方から、凛とした声が響いた。
「あら? もしかして体験入部の方ですか?」
澄んだ、それでいてどこか涼やかな声。ハッと振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
透けるような白い肌に、艶のある黒髪。髪は肩のあたりで綺麗に切り揃えられ、一房も乱れていない。切れ長の瞳は涼しげで、どこか古風な美しさを感じさせる。制服のブレザーを着ているはずなのに、まるで着物を着ているかのような凛とした佇まいだ。
「大和撫子」という言葉がこれほど似合う人がいるだろうか。思わず息を呑んでしまうほどの美しさだった。
「あ、はい!」
思わず背筋を伸ばして、緊張した声で答えてしまう。自然と敬語になってしまうほどの気品がある。
「よしっ、今年も一人″は″来てくださいましたね!」
女性——おそらく茶道部の先輩だろう——の後ろから、明るい声が響いた。彼女の後に続くように、もう一人の人物が姿を現す。
茶髪で幼さの残る顔立ちの男子生徒だ。上履きの色は青。二年生か。元気そうな雰囲気で、さっきの女性先輩とは対照的だった。にこにこと笑顔を浮かべながら、「よろしくー!」と手を振ってくる。
この学校では上履きの色で学年が区別されている。一年生は赤、二年生は青、三年生は緑。だから誰がどの学年なのかは一目で分かるシステムだ。
ちなみに湊と和哉の上履きの色は赤と緑。この色の違いが、今は少しだけ切ない。
「ふふん! 僕が連れてきましたからね!」
和哉は自信ありげに胸を張り、「どうだ!」と言わんばかりのポーズを取ってみせる。少し得意げな表情で、子供っぽさすら感じさせる仕草だ。
(あぁ、可愛い……)
思わず心の中で呟いてしまう。こんな無防備な笑顔を見せられたら、ますます好きになってしまう。
「誘導兼勧誘係なんですから当たり前です。それに、和哉さんが連れてきたというより、その様子だと久我さんが自分の意志で来たんでしょう?」
女性の先輩——
七瀬さんというらしい——が、やや呆れたような口調で言う。でもその声には、どこか優しさが滲んでいた。
「ささ、一年生さん、そちらにお座りください」
七瀬先輩が大部屋の畳を指し示す。
「は、はい」
湊は慌てて指示された場所へ向かった。正座で座ろうとしたが、膝の位置や手の置き方がこれで合っているのか自信がない。
「もうすぐ他の体験入部の方と顧問の先生がいらっしゃいますので、それまで『それ』とお待ちくださいね」
そう言って七瀬は、和哉の方へ視線を向けた。その目には、明らかに「お願いしますよ」というプレッシャーが込められている。
「辛辣だなぁ、七瀬さん」
和哉が少し拗ねたような声で言う。
「私と村内は諸々の準備を済ませますので、一年生さんの対応、お願いしますね」
「えー、僕も手伝うのに〜」
先輩が不満そうに言うが、七瀬先輩は即座に首を横に振った。
「やめてください。それで去年、大惨事になったじゃないですか。大人しくここで待っててください」
「えぇ……」
先輩の声が更に弱々しくなる。七瀬先輩はそんな先輩を無視するように襖に手をかけた。出て行く直前、もう一度振り返り、綿貫先輩をじっと見つめる。
「……いいですね?」
念を押すような、有無を言わさぬ迫力がある。
「はーい……」
先輩が観念したように返事をする。
その様子がまるで、お母さんに叱られた子供のようで、少し可笑しかった。
七瀬先輩は満足そうに頷くと、村内先輩と共に襖を閉めて出て行った。
静寂が戻った和室で、先輩は「たはは」と苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「戦力外通告されちゃった〜」
「あの……去年の大惨事って、一体何があったんですか?」
思わず気になって尋ねた。あの見るからにお淑やかそうな七瀬があそこまで念を押すということは、相当なことがあったに違いない。
「あー、それはね……」
和哉は少しバツが悪そうに視線を逸らした。それからゆっくりと、当時のことを語り始める。
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時は一年前に遡ります――
今日みたいに体験入部の日でね、茶具や茶碗を机にセットしてたんだ
僕はお茶を淹れるためのお湯を沸かそうと思って、ポットに水をなみなみと注いで運んでいたんだよ
「よいしょ……結構重たいな」
満タンに入れすぎちゃったんだよね。
それで手に重たいものを持ってたから、足元が疎かになっちゃったんだ
そしたら――道具をセットしている机の足に、僕の足の小指をガンッてぶつけちゃって
「いったぁ!」
その瞬間、激痛が走ってさ。
思わず手に持ってたポットがぐらついて――
両手で持ってたはずなのに、バランス崩して机の上にドンッ! て落ちちゃったんだ
幸い茶碗は無事だったけど、机はポットの重みで「ミシッ」って音を立てて歪んじゃって……
それでポットの蓋が外れて、水が――ジャバァァァァっ! て
畳の上も、机の上も、あたり一面水浸し
その上、さっき開けたばかりのお抹茶の缶が倒れて、中身がバサァッ! って……
緑の粉末が水と混ざって、もう、ぐちゃぐちゃのどろどろで
その音を聞いて飛んできた七瀬さんが、その光景を見て――
「きゃああああああああっ! 和哉さん、何やってるんですかぁぁぁ!」
七瀬さんは絹を裂くような悲鳴を上げてね
和室は文字通りの大惨事になっちゃったんだ
結局、体験入部は中止になって、一日中片付けをすることになってね
畳に染み込んだ水を拭いて、お抹茶の粉を掃除して、机を元に戻して……
七瀬さんはずっとため息をついてたし、吉野先生には厳しく叱られたし
本当に反省したよ……
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「それで、入ってきてくれたのは、さっきいた村内尚弥君だけだったんだ」
先輩は遠い目をして言った。
「先輩は、もう重たいもの絶対に持たないでください! 俺が持ちます!!」
湊は思わず力強く宣言していた。大切な先輩に、もう怪我をさせたくない。と言う少し和哉を贔屓した思惑で。
そういえば、中学の時にも似たようなことがあった。
襖を通る見本を見せようとしてくれた時だ、こちらばかり気にして柱の角に小指をぶつけ蹲っていた。
「わぁ、あの時の七瀬さんみたいなこと言ってる」
まるで他人事のように和哉がくすくすと笑う。
「じゃあ、湊は僕の用心棒だね」
「はい! 任せてください!」
湊は真剣に頷いた。
先輩の役に立てるなら、何でもする。
それが例えどんな小さなことでも、先輩のためになるなら喜んでやりたい。
「ありがとう、湊」
和哉が優しく微笑む。その笑顔に、また心臓が高鳴った。
(やっぱり、先輩が好きだ)
改めてそう思う。この想いを、いつか必ず伝えよう。今はまだ、その時ではないかもしれない。でも、いつか――和哉と同じ茶道部で時間を過ごしながら、その時を待とう。
和室の静けさの中、俺と先輩の穏やかな時間が流れていく。
もうすぐ、他の体験入部者たちがやってくる。
新しい学校生活の始まりが、すぐそこまで来ていた。




