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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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20/22

17話 雨道の帰路

 「あら、もういい時間ですね。そろそろお開きにしましょう。」


 涼香の声が聞こえて、はっとした。


 気がつけば窓の外はすっかり様変わりしていた。午後の白い光はどこにも残っておらず、街並みはじんわりとした薄紫の翳りに包まれはじめている。


 黄昏時――日没と夜のちょうど狭間に差し掛かった空は、遠くの雲の際だけがわずかに朱色の名残を滲ませていた。勉強に集中するあまり、時間の感覚がすっかり抜け落ちていた。


「そろそろ出ようか」


「はい」


 和哉がシャーペンをそっと置き、ふぅっと息をつく。背もたれに体を預けると、長時間前のめりにしていた肩の緊張がじわりと解けていくのがわかった。


 この時間で基本の公式は一通り理解できた。あとは忘れないようにすることと、応用問題に慣れさえすれば安全圏には届くだろう。とはいえ、一度で完璧に飲み込んだというよりは、なんとか輪郭を掴んだという程度の手応えだったが。


「ん〜、疲れた。」


「まだ、テスト範囲の三分の一くらいしか終わってないよ。綾ちゃん……」


 雪が苦笑い混じりにそう言うと、綾香はあからさまに両手で耳を塞いでみせた。


「あー、あー、聞こえないないないー」


 四人が身支度を整えかけているあいだに、涼香はさりげなく席を立ち、机の端に置かれた細長い筒から伝票を一枚抜き取って、一人静かにレジへと向かっていた。


「……? 七瀬さん?」


 和哉がその背中を追いかけると、涼香はすでに会計を済ませているところだった。


「すみません、お会計お願いします」


「かしこまりました。伝票お預かりします」


「カードでお願いします」


(カードでお願いします?!)


 和哉は思わず目を丸くした。涼香は財布から迷いなく黒いカードを取り出すと、店員の男性へ差し出し、慣れた手つきで暗証番号を入力した。その一連の動作があまりにも自然で、高校生がすることとは思えないほどスマートだ。


 さすが名家『七瀬家』の娘、という言葉が頭をよぎる。


 この辺りには私立のお嬢様学校もあるが、彼女はそこに通っていてもおかしくないほどの家柄だ。それでいて本人の実力も少しも劣っていない――と、和哉はぼんやりと思っている。何故わざわざ公立に来たのだろうか。


「ありがとうございました」


 店員に向かって丁寧にお辞儀をしてから、涼香は和哉のほうへ戻ってきた。


「七瀬さん、お金返すよ。」


「大丈夫ですよ。皆さんバラバラにお会計するのも手間ですし、このくらいお小遣いで払えます」


「えっと、そういう訳にはいかないというか……」


 和哉が返答に困っていると、遅れてやってきた後輩たちが合流した。


「あれ? もう会計済んじゃいました?」


「お金、返します」


「今回は先輩の奢りということでいいですよ。水野さんと村内君は私が頼んだようなものですし」


「え、でも」


「マジっすか! ご馳走さまです!」


「佐野、お前……無遠慮というかノーテンキというか、ほんっとブレないな。ある意味尊敬するわ」


 湊の言葉には半ば呆れが滲んでいたが、その口もとはどこか笑っていた。


「えっと、ご馳走様です」


「っス」


「はい、お粗末さまです」


 礼を述べる後輩たちに、涼香は微笑みで答えた。穏やかで、けれどどこか品のある笑みだ。そして静かに体の向きを変え、和哉のほうへ視線を据える。


「ジー」


 無言のまま、視線だけで何かを訴えてくる。圧がある。


「へ、な、なに、なに」


「ご馳走さまが聞こえないので」


「え! あっと、ご馳走様です!」


「はい、お粗末様です。さっ、こんな所でぼんやり突っ立っていたら他のお客様に迷惑ですので、早く出ますよ」


 涼香に背を向けられかけたとき、和哉は反射的に声をかけた。


「あ、七瀬さん」


「はい?」


「次は……僕に払わせてね?」


 一瞬の間があった。涼香はゆっくりと振り返り、ふっと口もとをほころばせた。


「……ふふ。次は速やかに伝票を取れるといいですね」


「ええぇ……七瀬さん〜」


「ふふっ、あら?」


 涼香の声のトーンが変わった。視線が出入口のガラス扉の向こうへ向けられている。


 その先には、帰宅中であろうスーツ姿の大人たちが、傘を差しながらちらほらと足早に歩いていた。街灯がオレンジ色に滲んで、雨粒がアスファルトの上に小さな波紋をいくつも広げている。いつの間にか、雨が降っていた。


「あれ、もしかして雨降ってる?」


「あー! うっそ、晴れる予報だったのにー!」


「うわ、気づかなかった。折りたたみ持ってきて良かった」


「アタシもってきてないぃー」


「綾ちゃん、私の傘入る?」


「雪、大好き〜」


 水野と佐野がひとつの傘に肩を寄せ合いながら収まろうとしているのを横目に、涼香が村内と湊を振り返った。


「私もカバンに折りたたみ傘を入れていて幸いでした。村内君と久我君は大丈夫ですか?」


「はい、折りたたみあります」


「俺、家が近いんで走って帰りますね!」


 そう言うが早いか、尚弥はカバンを頭上に乗せてガラス扉を押し開け、雨の中へ飛び出していった。


「あ、待ちなさい、そんなことをしたら。カバンに染みができますよ」


 涼香はため息をひとつついてから、手際よく折りたたみ傘を開いて尚弥の後を追いかけていった。


 その背中を見送りながら、湊はなんとなく思った――これは思いの外、涼香は尚弥に対して脈があるのかもしれない。


 いや、あの追いかけ方はむしろ、手のかかる子供に対するソレに近いのだろうか。どちらにしても、七瀬涼香という人間は、不思議なほど面倒見がいい。


 そんなことをぼんやり考えていると、雪と綾香が小さな傘の下で肩を寄せ合いながら手を振ってきた。


「綿貫先輩、久我! バイバイ〜」


「お疲れ様でした」


「ああ、お疲れ様」


「お疲れ様、また部活でね」


 二人の声が夕暮れの雨音に溶けていった。残ったのは、店の軒下と、雨の匂いと、二人だけだ。


「さて、じゃあ俺も……」


「みなとぉ〜」


 湊がカバンのポケットから折りたたみ傘を取り出しかけたとき、背後から泣きそうな声が聞こえた。


 振り向くと、和哉が出入口の軒下に立ち、捨てられた子犬みたいな目でこちらを見ていた。


「はい?」


「傘……忘れた〜」


「はい?!」


*****


 小さな折りたたみ傘の下、二人で肩を寄せ合うようにして歩いた。


 傘のサイズはどう考えても一人用だ。湊が傘を持つほうの腕を和哉側へ精一杯傾けても、和哉の右肩はうっすらと雨に濡れていた。当人は気にした様子もなく、ゆったりとした足取りで濡れた歩道を進んでいく。濡れた石畳が街灯を反射して、二人の足元に薄いオレンジ色の光を揺らめかせていた。


「いやぁー、ごめんね、傘入れてもらっちゃって」


「イエ、ダイジョウブデス。」


 声が、少し上ずった。


(どうしてこうなった!どうしてこうなった!)


 湊は前だけを見て歩いた。和哉の肩の温度が、傘の柄を握る手の緊張が、細い雨音の中でやけに鮮明に伝わってくる。これはまずい、と思った。頭のどこかが警戒を鳴らしていた。

まずいのに、足は止まらなかった。


「は!ごめん湊!今気づいたよ!」


「え」


「傘、僕が持った方がいいね」


 湊と和哉には十五センチ前後の身長差がある。

背の高い和哉が傘を持ったほうが、二人の頭上を均等に覆えて、何より持ち手の腕が楽になる。極めて合理的な申し出だった。


「い、いえ。先輩に持たせる訳には…」


「いいの、いいの。今日勉強教えてもらった御礼だよ。普通逆なんだけどね」


「そう、いう、ことなら」


「はーい、お預かりしまーす」


 和哉はこうなると案外譲らない性格だと見抜いて、湊は変に意地を張らず傘を手渡すことにした。それに正直なところ、傘を傾けようと背を伸ばしたせいで、先輩の顔がかなり近くなっていた。


 傘の受け渡しの瞬間、さらに距離が縮まって、和哉の呼気がほんの少し頬に触れた気がした。これ以上の接近は、心臓に悪い。


(なにか気を紛らさないと……あ、そうだ)


「そ、そういえば。中間テストが終わったらすぐに体育祭の準備に入るんですね。」


「そうだねぇ、毎年この時期は忙しないよ。そういえば湊は何組だったっけ?」


「? 1年1組ですよ?」


「それじゃあ、今年は同じ団だね。団の組み分けは縦割りだから。」


「ええ! 一緒ですか! やった!」


「……すごい喜ぶなぁ」


 和哉がやや目を丸くしてこちらを見た。呆れているのか、それとも少し照れているのか、読み取りにくい表情だった。


「ふひひ、じゃあ頑張らないとですねぇ」


「湊は運動得意そうだもんね、今年は僕もちゃんと出ようかな」


「あー、先輩さては、中学の時みたいに体育祭ズル休みしてたんですかぁ?」


「ズル休みじゃないもん、急な腹痛で和室で休んでたんだもん。」


「そんなこと言って、覚えますからね。俺が見つけた時、和室でお茶とアイス食べてて、『あ、見つかった』って言ったの。」


 和哉の顔がわずかに引きつった。否定できないらしい。


「良く覚えてるねー、でもその後湊もしっかりサボってたじゃん。同罪だよ同罪」


「俺、二年と三年の体育祭はちゃんとでましたからね。」


「あーあ、それまで誰にも見つかったことなかったのに」


「俺、どこにいても先輩を見つける自信ありますよ」


「へ?」


 歩きながら、湊は続けた。

さっきより声が、少しだけ真剣になっていた。


「どんな所でも先輩を一人にさせません!」


「……湊」


「おわ!」


 地面が濡れていた。次の瞬間、和哉の体がぐらりと前に傾いて、湊は反射的に腕を伸ばした。

体を支えようとしたが一歩遅く、前向きに倒れた和哉の顔が、そのまま湊の胸のあたりに埋まり抱きしめられる形になった。


 一秒か、二秒か。


 雨音だけが続いていた。


「先輩!……っと、大丈夫ですか?」


「〜〜〜っ!」


 和哉がガバッと湊から離れ、傘をそのまま押しつけるようにして手渡した。俯いているせいで顔が見えない。


「え」


「ぼ、僕! もうすぐ家だから、もう小雨だし。歩いて帰るね! 傘ありがと!」


「先輩?!」


 返事も待たずに、和哉は傘も差さないまま、少し速足で歩いていってしまった。


「……行っちゃった。」


 追いかけようかとも思った。けれど、和哉の言う通り雨は細くなっていた。少し先の空には水色が覗いている。


 もうきっと、じきに晴れるだろう。



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