16話 歓喜の村内
「湊、落ち着いた?」
和哉は相変わらず穏やかな笑顔で湊を見つめている。その優しい声が湊の耳に届き、少しだけ心が落ち着く。和哉の表情には湊の蛮行を咎める気は全くなく、むしろ微笑ましいものを見るような温かさがあった。
眼鏡の奥のサファイアは優しく細められ、まるで湊の動揺を全て受け止めてくれるかのような包容力を感じさせる。
その眼差しは、まるで慌てる子供を優しく諭す大人のようだ。和哉の声には魔法がかかっているのではないかと思うほど、湊の心を落ち着かせる力がある。激しく鼓動していた心臓も、徐々に普段のリズムを取り戻していく。
「綿貫先輩…」
湊は涙目で和哉を見上げる。
その姿は、まるで捨てられた子犬のようだった。和哉の優しさが逆に胸に沁みて、余計に恥ずかしさが増す。頬はまだ熱く、赤みが引く気配はない。
「村内君も、後輩をからかいすぎだよ」
和哉は壁際で倒れている村内に視線を向ける。その声には優しい叱責が含まれていた。
決して強い口調ではないが、確かに注意の色が込められている。
「いてて…久我、お前、思ったより力あるな…」
村内は体を起こしながら呻く。腰をさすり、痛みに顔を歪めている。畳に転がった時の衝撃はかなりのものだったようだ。
それでも村内は笑っており、湊を恨んでいる様子は全くない。まるで悪戯がバレた子供のような顔で、むしろこの状況を楽しんでいるようにさえ見える。
「すみません、村内先輩…」
湊は申し訳なさそうに謝る。いくら咄嗟のこととはいえ、あそこまで突き飛ばす必要はなかった。先輩に怪我をさせてしまったかもしれないという罪悪感が胸を締め付ける。でも、和哉先輩に誤解されたくないという思いが強すぎて、体が勝手に動いてしまったのだ。
「いやいや、俺も悪かった。ごめんな」
村内は笑いながら手を振る。その表情は既にいつもの明るさを取り戻していた。痛みよりも、この賑やかな雰囲気を楽しんでいるようだ。
立ち上がりながら「まぁ、久我が綿貫先輩のこと好きなのは知ってるしな」と小声で呟いたが、幸い他の者の耳には届かなかった。
「まったく、テスト前になると村内君は毎回こうなんですから」
涼香は呆れたように言いながらも、その口調には優しさが滲んでいる。綺麗に整えられた黒髪を揺らし、淡い桃色の瞳で村内を見つめる。
「あ!じゃあ今日はみんなで勉強会しない?」
「「え?」」
和哉が右手の人差し指をピンっと立て、声を弾ませて提案してきた。その突然の提案に、周りの者は驚きの表情を浮かべる。
周りの驚きを他所に彼の瞳の宝石はキラキラと期待に輝いている。
涼香は一寸の間を空けて、ふむっと白く健康的な華奢な顎に手を当て、和哉以外を見回す。その視線は部員一人一人の表情を確認するように動き、特に勉強が苦手そうな面々に長く留まった。
「それはいいかもしれませんね」
思案の結果、涼香は整った口の端を綻ばせて答えた。和哉の『勉強会』の提案に乗り気のようだ。確かに、中間テストまで時間がない今、部活動よりも勉強を優先すべきかもしれない。だが湊を含め下級生には気掛かりなことがある。
「でも、今日は部活の日ですよね。吉野先生もいらしてるのでは…?」
先陣を切り疑問を呈したのは雪だ。
小柄な体を少し前のめりにし、先輩への敬意を忘れずに慣れない言葉を探す。
左右のお下げと眼鏡の奥の瞳が不安そうに揺れている。
「そうっすね、勉強会はありがたいですけど。さすがに…」
続いて尚弥も雪の言葉に賛同する。吉野先生の厳しさは部員全員が知っている。無断で稽古を休むなど、許されるはずがない。
「ふっふっふ〜、大丈夫。なにも吉野先生に帰ってもらうという話じゃないよ」
和哉は得意げに笑う。その笑顔には何か秘策があるような自信が満ちていた。
「今日は、急用でお休みになるようです。なので、今日は器具の配置と順番の復習でも…と考えていましたが、勉学優先ですね」
涼香が状況を説明する。その声には納得の色が混じっていた。確かに、顧問がいない日に無理に稽古をするよりも、迫りくるテストに備える方が賢明だろう。
「それは、渡りに船って感じですね」
尚弥が嬉しそうに声を上げる。その表情は明らかに安堵していた。勉強は苦手だが、それでも赤点は避けたい。そんな切実な思いが滲んでいる。
「それに、次期部長候補が赤点塗れでは示しがつきませんしね」
涼香の言葉に、尚弥がぎくりと体を固くする。
「う、手厳しい…」
尚弥は頭を掻きながら苦笑する。
現在二年生は尚弥1人、三年の和哉と涼香の二人が卒業すれば繰り上がり式で尚弥が部長となる。
「ふふふ」
和哉は楽しそうに笑う。その表情には悪意などなく、ただ純粋に部員たちとの時間を楽しんでいるようだった。
「……綿貫さんも、理数系、危ないんでしたよね?」
七瀬の冷静な一言が、和やかな空気を一瞬で凍りつかせた。
「え、あ……」
和哉の笑顔が固まる。その表情は、まるで自分だけは安全地帯にいると思っていた人が、実は崖っぷちに立っていたことに気づいた時のようだった。眼鏡の奥の瞳が波打ち、額にうっすらと冷や汗が浮かぶ。
そう。和哉は茶道の技術は部内一だが、数学と化学は壊滅的だ。前回のテストでは化学が赤点ギリギリ、数学は赤点を僅かに上回る程度だった。いや、正確には赤点すれすれで辛うじて回避したというレベルだ。
「あはは、じゃあ茶室じゃ勉強できないから何処か移動しようか」
和哉は話題を逸らすように明るく言う。その声は少し上ずっており、動揺が隠し切れていない。天然パーマの黒髪が少し震えているようにも見える。
「あ、はいはい!アタシおすすめの場所あります!」
綾香が元気よく手を挙げる。その瞳は期待に輝いており、何か良い場所を知っているという自信に満ちていた。
「じゃあ、そこに行きましょうか」
「…綾ちゃんのおすすめの場所?」
雪は少し不安そうに呟く。親友のことをよく知る彼女には、何となく予想がついていた。
きっと、静かな図書館のような場所ではないだろう。
*****
「佐野のおすすめの場所ってココかよ!」
湊は店内に入るなり、思わず大声を上げてしまった。目の前に広がるのは、平日の放課後で賑わうファミリーレストラン。制服姿の学生たちがあちこちのテーブルを囲み、教科書やノートを広げている。まさに定番中の定番、高校生の勉強会の聖地とも言える場所だ。
「湊?余り大きな声だと他のお客さんに迷惑だよ?」
和哉が優しく注意する。その声は穏やかで小さな子供に諭すような響きがあった。湊は慌てて口を押さえ、周囲を見回す。幸い、他の客はこちらを気にしている様子はない。
「そーだ、そーだ。コーキョウの場所だぞぉ」
綾香が茶化すように言う。しかしその「コーキョウ」という発音が微妙におかしく、雪が小さく「公共…?」と呟いた。
「綾ちゃん、何で此処なの。もっと図書館とかいろいろあったでしょ!?」
雪は親友を問い詰める。
予想通り彼女らしい提案とはいえ、やはり突っ込まずにはいられない。
「高校生が放課後集まって勉強会って言ったらココが定番でしょ!」
綾香は胸を張って答える。その表情には一片の迷いもない。むしろ、何故こんな当たり前のことを聞くのかと言わんばかりだ。
「うーん、まぁ確かによく見るシチュエーションではあるね」
和哉が苦笑しながら頷く。確かに、青春ドラマや漫画では定番の場面だ。むしろ、こういう場所で勉強することに憧れていた時期もあったかもしれない。
「まぁ、勉強さえできればいいです。…さすがにソフトドリンクくらいは頼みましょうか…」
涼香が現実的な提案をする。その声には、このメンバーを纏めなければという責任感が滲んでいた。
「っすね、ピンポン押します」
尚弥が呼び出しボタンを押す。
電子音が軽快に鳴り響いた。
「ご注文をお伺い致します」
若い女性店員が笑顔で手にはオーダー端末を持ちやってくる。
「ソフトドリンクを6つお願いします」
涼香が代表して注文する。その声は丁寧で、店員への配慮も忘れていない。
「あと!季節の果物盛りだくさんパフェお願いします!!」
綾香が突然割り込んで叫ぶ。その声は大きく、周囲のテーブルからも視線が集まった。
「綾ちゃん…」
雪は頭を抱える。
「おいこら、佐野ぉ」
湊も呆れたように言う。
今日の目的は勉強のためなのだだというのにこれでは和哉に呆れられてしまう…
「あ、僕もお願いします!」
和哉が無邪気に声を上げる。その表情は子供のように輝いており、パフェへの期待が隠せていない。
「せ、先輩?!」
湊は驚いて和哉を見る。部長である和哉先輩が、こんな子供っぽいことを言うなんて。でもその無邪気な笑顔を見ていると、何だか微笑ましくなってくる。
「えへへ、僕も食べたくなっちゃった。湊も食べようよ」
和哉が湊に向かって笑いかける。その笑顔はあまりにも無防備で、あまりにも優しくて、湊の心臓がまた跳ねる。
「はい!食べます!」
湊は反射的に答えていた。和哉先輩に誘われたら、断れるはずがない。むしろ、一緒にパフェを食べられるなんて、これは夢なのではないか。この前のカフェのリベンジだろうか。
「久我君?!」
雪が呆れた声を上げる。しっかりしていると思っていた湊まで、和哉に流されてしまった。
「はぁ、すみません。パフェも6つお願いします」
溜息をつきながら店員に注文する。その表情には諦めと、でも少しだけ楽しそうな気持ちも混じっていた。実は涼香も、パフェは嫌いではない。
「かしこまりました。ソフトドリンク6つと季節果物盛りだくさんパフェ6つですね。少々お待ちください」
店員は笑顔で復唱し、オーダーを確認してから去っていく。その背中を見送りながら、七瀬は小さく溜息をついた。
「ごめんなさい、村内君、水野さん。勝手に頼んでしまったけどアレルギーは大丈夫かしら?」
涼香が気遣いの言葉をかける。その表情には本当に心配している様子が滲んでいた。副部長として、そして先輩として、後輩の安全には気を配らなければならない。
「だ、大丈夫です」
雪が小さく頷く。その声は少し緊張していたが、嬉しそうな気持ちも混じっていた。
「俺も大丈夫です」
尚弥も笑顔で答える。むしろパフェが楽しみで仕方ないという表情だ。
「まったく、一年生は兎も角、三年の部長がこれでは示しがつきませんよ。久我君まで唆して」
和哉を睨む。その視線は厳しいが、どこか優しさも含んでいた。
「だって美味しそうだったんだもの」
和哉は子供のように言い訳する。その表情はまったく反省していない。むしろ、パフェが来るのを楽しみにしている様子だ。
「まぁ、いいです。糖分を補給したのですから、勉強に身が入るでしょう。ね?佐野さん?綿貫さん?」
副部長の視線が鋭くなる。その目には「勉強しなければ許しませんよ」というメッセージが込められていた。
「「はい…」」
綾香と和哉は揃って小さく返事をする。その声には、逃げられないという諦めが滲んでいた。
*****
糖分補給後、テーブルの上にはパフェの空グラスが並んでいる。そして今、机を並べ、即席の勉強会が始まろうとしていた。
六人はテーブルを二つ繋げ、向かい合うように座っている。和哉と湊が隣同士、その向かいに七瀬と村内、そして端に雪と綾香が座る配置だ。テーブルの上には教科書、ノート、参考書が広げられ、それぞれがペンやシャーペンを手にしている。
「えっと……これ、なんでこうなるの?」
和哉が数学の問題を前に首をかしげる。その表情は困惑に満ちており、眼鏡の奥の瞳が問題用紙を睨んでいる。天然パーマの黒髪が少し揺れ、その仕草がどこか可愛らしい。
「先輩、それは公式当てはめるだけみたいですよ」
湊が身を乗り出す。距離が近い。和哉の隣に座っているため、肩が触れそうなほど接近している。和哉の体温が感じられ、ほのかに香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。湊の心臓が高鳴るが、今は勉強を教えることに集中しなければ。
「久我君、これ三年の範囲ですけどわかるんですか?」
七瀬が疑問の声を上げる。まだ一年生の湊が、三年の数学を理解しているとは思えない。
「あ、いえ、教科書を見せてもらって何となくやり方は分かったので」
湊は少し照れくさそうに答える。
実は、湊は特段勉強が苦手という訳ではない中学生の時はモチベーションがなかったのと純粋に行雲高校のレベルが高かったのだ。
湊は中学一年の時、授業をサボったり、部活にも入っていなかったので内申点がすこぶる悪かったため、入試テストで高得点を取る必要があった。
それに加えて、和哉先輩の役に立ちたい一心で、三年生の数学も予習していたのだ。毎晩、和哉のことを考えながら勉強していた成果が、今ここで発揮される。
「え、読んだだけで?」
和哉が驚いた表情で湊を見る。その瞳には尊敬の色が浮かんでいた。
「な、村内…嘘だろ?」
尚弥が信じられないという顔で呟く。自分は教科書を何度読んでも理解できないのに、湊は一度読んだだけで分かるなんて。
「この裏切り者ぉ!久我はコッチ側だと思ってたのに!!」
綾香が大袈裟に嘆く。その声には本気の悲しみが混じっていた。勉強苦手組の仲間だと思っていたのに、っと裏切られた悲劇のヒロインのようだ。
「どういう意味だ」
湊はジト目で綾香をみる。
「こ、こう……?」
和哉がペンを動かして問題を解こうとする。しかし途中で手が止まり、眉間に皺を寄せる。
「違います違います、ここマイナスです」
湊が和哉の手を取り、正しい式を書いていく。その手の温かさに、二人の顔が自然と近づく。和哉の黒髪の天然パーマが、ふわりと揺れた。湊の鼻先が和哉の髪に触れそうなほど接近し、心臓が激しく跳ねる。
それを、村内がニヤニヤしながら見ている。その表情には「青春だなぁ」という感慨が滲んでいた。
「なんか青春って感じっすねー」
村内が感慨深げに呟く。その声には羨ましさと、でも祝福の気持ちも混じっていた。
「うるさいですよ、あなたは古文やりなさい」
七瀬の鋭い一撃が村内に飛ぶ。その声には容赦がない。
「……次期部長は久我君の方がいいかもしれないわね」
涼香が小さく呟く。その視線は湊に向けられており、評価するような色が浮かんでいた。茶道の技術はまだまだだが、人柄や頭の良さ、そして和哉への献身的な態度。もしかしたら、将来的には良い部長になるかもしれない。
一方、机の隅では。
雪が静かに綾香へ英語を教えている。その表情は真剣そのもので、親友の成績を何とか上げようと必死だ。
「ここは受け身だから……」
雪が丁寧に説明する。その声は優しく、綾香が理解しやすいようにゆっくりと話す。
「うわ、やっぱりわからん!」
綾香が頭を抱える。その声は大きく、周囲のテーブルから「静かにして」という視線が飛んでくる。
「綾ちゃん、声…」
雪が慌てて綾香の口を押さえる。その仕草はまるで母親が子供をたしなめるようだった。
賑やかな声と、机に広がる空のグラスと教科書。ファミレスの一角で、茶道部の勉強会は続いていく。
それぞれの関係性が、それぞれの形で、ゆっくりと深まっていく。
そして湊にとっては、和哉先輩と隣で勉強できるこの時間が、何よりも幸せな瞬間だった。




