15話 嘆きの村内
「はぁーい、朝のショートホームルームを初めまぁーす」
教壇に立つのは我らが1-1の担任、宇佐美佳澄だ。担当教科は化学である。いつも通りノリの効いていないダルっとした白衣を身に纏い、黒曜石のような黒々とした瞳で教室内を一瞥する。その表情には朝からすでに倦怠感が滲んでおり、昨夜遅くまで起きていたのだろうか、目の下には薄っすらとクマさえ浮かんでいた。
「ご存じの通り、中間テストまであと1週間だぁ。いいかぁ、古文はどうでもいいから化学のテストは赤点回避しろぉ。お前達に私の昼飯がかかっている」
教室内に一瞬の沈黙が落ちる。生徒たちは互いに顔を見合わせ、今聞こえた言葉が本当に担任の口から出たものなのか確認し合うように視線を交わし合った。
「今なんつった?この教師」
「生徒を賭けの対象にしてんじゃないわよ、このダメ教師」
クラスメイトが口々に宇佐美へ手厳しいツッコミを入れる。教室の空気が一気に活気づき、ここかしこで笑い声や呆れた溜息が漏れる。
入学当初は皆、彼女の奔放さに戸惑ったものだが、2ヶ月弱も過ごせば案外慣れるものだ。むしろこの緩さが1-1の雰囲気を作っているといっても過言ではない。真面目一辺倒の堅苦しい担任だったら、きっとこんなに気楽なクラスにはなっていなかっただろう。
「まぁまぁ、落ち着けお前達」
宇佐美は片手をひらひらと振りながら、まるで騒がしい子犬たちをなだめるような仕草を見せる。
「ちゃんと策はある。お前達のためにまとめプリントを作った。それをしっかり暗記すれば70点は硬い」
そう言って宇佐美は得意げに胸を張るが、その言葉には教育者としての自覚が微塵も感じられない。むしろ堂々と裏口入学のような手段を推奨しているようにさえ聞こえる。
「そうゆうことじゃねぇ」
「八百長だな、ありがてぇ」
「ありがたがんな、これってバレたらこっちもまずいだろ」
心配どころがおかしい宇佐美と、勉強が苦手な野球部の渡部を、同じく野球部の磯貝が言葉の張り手でしばく。教室内は朝から妙な熱気に包まれ、まるで放課後の部活動のような賑やかさだった。
「まぁ、そんなことは置いておいて。もう一つ報告がある」
宇佐美は何事もなかったかのように話題を切り替える。その態度は実に潔いというか、無責任というか、とにかく教師らしからぬものだった。
「置くなよ、捨てろ」
誰かの鋭いツッコミが飛ぶ。
「テスト明けから6月に開催の体育祭の準備に入る。6月に入るまでに出場競技を決めないといけない。後ろの黒板に競技と必要人数を書いた紙を貼っている。各自確認し、体育祭委員に報告するように。以上」
そう言って宇佐美は早々に教室を出た。その足取りには明らかに逃げの姿勢が見て取れる。白衣の裾が扉の向こうに消える瞬間、廊下から「うっし、仕事終わった」という小さな呟きが聞こえた気がした。
「逃げたな」
後ろの席から響也が呆れたように呟く。その声には諦めと、ある種の感心すら混じっていた。湊は振り返り、眼鏡越しに覗く響也の細い目と視線が合った。光の加減で、響也の眼鏡のレンズがキラリと光る。
「なんであの人教師になったんだ?」
湊は素朴な疑問を口にする。本当に不思議でならない。教師という職業には、少なくとも教育への情熱や生徒への責任感が必要だと思うのだが、宇佐美からはそれが全く感じられない。
「さぁな。でも嫌いじゃないけどな、ああいうの」
響也は肩をすくめて答える。その表情は柔らかく、むしろ好意的ですらあった。確かに宇佐美は教師らしくないが、妙に人間臭くて親しみやすい。生徒との距離感が近く、変に威圧的でもない。それが1-1のクラスの空気を作っているのだろう。堅苦しい規則や建前ばかりの大人よりも、ずっと付き合いやすい存在だ。
「まあ、確かにな」
湊も小さく頷く。否定する気にはなれなかった。
*****
「それで久我は何にするんだ?」
響也と湊は早速、教室後方の黒板に貼られている競技表を確認しに来た。二人の他にも数人が既に集まっており、黒板の前は団子状態になっている。
紙を覗き込む生徒たちの背中が壁のように立ちはだかり、後ろからではほとんど内容が見えない。人混みを避けて席に戻り、機会を伺っている者もちらほらいた。
湊はググッと背伸びをして何とか紙の上部を確認しようとするが、前にいる背の高い男子生徒の肩越しにわずかに文字が見える程度だった。
「うーん、別にどれでも」
湊は無造作に髪を掻き上げながら表を眺める。ようやく人が少し減り、紙の全体が見えるようになった。競技表に書かれている主な競技は二人三脚、玉入れ、大玉転がし、借り物競走、綱引き、○×クイズとメジャーなものばかりだ。
クラス全員参加競技としてリレーもある。どれも小学校の運動会から馴染みのあるものばかりで、新鮮味はない。むしろ懐かしさすら感じる内容だ。
「お?椅子取りゲームがある。体育祭でってのは珍しいな」
響也は表の下の方を指差す。その細い指先が白い紙の上を滑るように動き、該当箇所を示した。確かに椅子取りゲームは、体育祭という屋外イベントではあまり見かけない競技だ。
「ああ、片付けが面倒そうだなこれ」
湊は想像する。グラウンドに椅子を並べて、終わったら全部片付ける。考えただけで面倒臭い。きっと係になった人は大変だろう。
「俺、余ったやつでいいや」
湊は特にこだわりがない。別に運動は苦手ではない。むしろ得意な方だ。小学生の時は母にサッカーやスイミング、そろばんなど色々な習い事に通わされたこともあり、案外多才である。ただ当人がその才を開花させる前に別のことに興味を持つので、結局どれも中途半端なまま辞めてしまった。宝の持ち腐れではあるが、基礎体力や運動神経は確実に身についている。
現在も和哉の理想的な彼氏になるよう身体を鍛えている。腕立て伏せ、腹筋、ランニング。毎日欠かさず続けているトレーニングのおかげで、高校生にしては引き締まった体つきをしている。高校の体育祭程度であればそこそこの成果を出せるだろう。
むしろ和哉が応援に来てくれるなら、どんな競技でも全力を尽くす自信がある。彼の前でかっこいい姿を見せたい。その一心だけで、湊はどんな努力も惜しまない覚悟ができていた。
「ん?なぁ、これ紙の下の方に書いてる応援団ってのも決めないといけないんじゃないか?」
響也の声音が微かに変わる。いつもの穏やかなトーンから、少し緊張を含んだものに。湊はその変化を敏感に察知した。響也は何か良くないものを見つけたのかもしれない。
「本当だ…ちょっと待て、なんか色々書いてあるぞ…」
湊は紙の下部に目を凝らす。そこには細かい字でびっしりと文字が書かれていた。おそらくフォントサイズは8か9といったところだろう。老眼の人なら確実に見逃すであろうサイズである。いや、若い自分たちでもうっかり見落としそうなほど小さい文字だ。
『○応援団長1名、副団長1名を選出しパフォーマンス内容、人員、図を作成し提出すること。○クラスパネルの作成、リーダー1名、副リーダー1名を選出、下書きデザインを作成し期日までに提出すること』
「「…」」
湊と響也は顔を見合わせる。二人の表情には明確な困惑が浮かんでいた。響也の眉間には小さな皺が寄り、湊は思わず口をへの字に曲げる。
あの教師が早々に教室を出た理由がようやく理解できた。競技はともかく、応援団とパネルの代表を選出するのが面倒だったのだろう。いや、面倒だっただけでなく、確実に揉めることを予想して逃げたのだ。あまりにもホウレンソウ(報告・連絡・相談)ができていなさすぎて、逆にあっぱれと言うものだ。ある意味で清々しいほどの職務放棄である。教師としての責任感はどこへ行ったのか。
「なぁ、これ見なかったことに…」
湊は小声で提案する。正直、関わりたくない。応援団長やパネルリーダーなんて、面倒な役職の筆頭だ。
「して、誰も気づかなかったらもっと面倒だぞ」
響也の言う通りだ。このまま放置して誰も気づかなければ、締め切り直前になって慌てることになる。それこそクラス全体が大騒ぎになり、宇佐美以上の混乱を招くだろう。最悪の場合、クラス全員で責任を取らされることになるかもしれない。
「…とりあえず体育祭委員の渡部と磯貝には伝えとくか」
湊は小さくため息をつく。仕方ない。これも一種の正義感か、それともただの面倒見の良さか。自分でもよくわからないが、放っておくわけにはいかない。
その後、事実を知った渡部と磯貝の戦慄した表情はとても哀れだった。二人は頭を抱え、「マジかよ…」「宇佐美先生、仕事しろよ…」と呻いていた。渡部は机に突っ伏し、磯貝は天を仰いで深い溜息をついている。
とりあえずクラスLINEで呼びかけていたが、果たしてメンバーは集まるのだろうか。湊は何となく嫌な予感がした。応援団長やパネルリーダーなど、誰もやりたがらない役職である。目立つし、責任も重い。準備も大変だ。押し付け合いや、最悪の場合くじ引きという展開も十分あり得る。いや、むしろそうなる可能性の方が高いだろう。
しかし湊の頭の中には、体育祭のことよりも、もっと重要なことが占めていた。
和哉先輩は体育祭を見に来てくれるだろうか。もし来てくれるなら、何か目立つ競技に出てかっこいいところを見せたい。そんなことばかり考えている自分に、湊は少し呆れながらも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。
*****
「ああ、やっぱり宇佐ちゃんと高ちゃん掛けてたか〜、授業にいつもより熱が入っててなーんかあるなと思ったんだよね」
「もう、綾ちゃん、宇佐美先生と高梨先生だよ」
放課後の部室。畳の上に正座した湊の向かいに、綾香と雪が並んで座っている。
朝のホームルームでの話を湊から聞いた綾香は、何処か納得した様子で頷きながら、すぐさま雪に注意される。
「そういや、古文の高梨って二人のクラスの担任だっけ?」
湊は記憶を辿りながら尋ねる。古文の高梨伊織、今年赴任してきた20代くらいの男性だ。毎日きちんとしたスーツで決めており、髪もきっちりとワックスでセットされている。
the大人の男性といった風格で、怠け癖のある宇佐美とは正反対のタイプだ。真面目で几帳面、おそらく時間にも厳しいだろう。そんな彼と宇佐美が賭けをするなんて、想像するだけでミスマッチだ。
「そだよ〜、高ちゃんは私達1-2の担任!」
綾香は両腕を腰に当て、何処か誇らしげに語る。その姿はまるで自分のクラスの担任が一番優秀だと主張しているかのようだった。胸を張った綾香の表情は自信に満ち溢れている。
「あの堅物の高梨が担任か、息苦しそうだな」
湊は正直な感想を口にする。真面目過ぎる担任というのも、それはそれで大変そうだ。規則に厳しく、提出物の期限にもうるさそう。遅刻でもしようものなら、長々と説教されるに違いない。
「そうでもないよ、意外と高ちゃん弄りやすいんだよねー、反応が可愛い」
にひひっと犬歯を見せて笑う綾香。その表情はまるでいたずらっ子のようだ。しかし少し意外だ。高梨を茶化そうものなら、冷たい眼光で氷漬けにされそうなのに。
まぁだから宇佐美に遊ばれるのだろうが。真面目な人ほど、からかい甲斐があるというのは真理かもしれない。
「へー、あの高梨がね」
湊は少し興味を持った。授業中の高梨は常に冷静で、感情をあまり表に出さない印象だったが、意外な一面があるらしい。
「もう!二人ともわざとでしょ」
両手を胸の前で握りしめ、大きな声で雪が注意する。前のめりになったことで左右のお下げが大きく揺れ、まるで怒った小動物のようだ。小柄で気の弱い彼女なりの威嚇である。頬は少し赤く染まり、眉は困ったように八の字に下がっている。
「「ごめんごめん」」
綾香と湊は揃って雪に謝る。その声には反省よりも、むしろ雪の可愛らしい反応を楽しんでいるような響きがあった。
雪とは以前の博物館のこともあり、部活でも話しやすくなった。必然的に雪と元々仲の良い綾香とも喋る機会が増え、今のような気楽な空気感がデフォになりつつある。
「おーおー、一年ちゃん達は元気いっぱいだねぇー」
後ろから襖の開く音と、何処か気落ちしたようなうなだれ声が聞こえる。その声には明らかに生気が感じられない。
三人が振り向くと、二年の村内尚弥がまるで水でショボショボになったリアルな某ネズミモンスターのような顔で、肩を落としながら立っていた。いつもの元気な姿はどこへやら、その表情には深い絶望が刻まれている。
「村内先輩、どうしたんですか?元気ないですね?」
湊は心配そうに尋ねる。いつもなら明るく騒がしい村内が、こんなにも落ち込んでいるのは珍しい。
「本当です。まるでピカ…」
「綾ちゃんストップ!」
雪は慌てて綾香の口を両手で押さえる。危険な橋はできるだけ渡らないに限るのだ。某大企業の法務部は容赦がないという噂を聞いたことがある。綾香は「むぐぐ」と抵抗するが、雪は必死に口を塞ぎ続けた。
「お前たちは何故そんな元気があるのだ、もう少しでアレがあると言うのに…」
村内は重々しい口調で呟く。その声には絶望と諦めが混じっていた。
「「アレ?」」
湊と綾香は首を傾げる。雪はまだ綾香の口を押さえたままだ。
「中間テストだよ。…ああ、口にするだけで胃が痛い」
村内は両手で腹を押さえ、苦しそうな表情を浮かべる。その様子は本当に胃が痛いのか、それとも精神的なダメージが身体症状として現れているのか、判別がつかないほどだ。
「中間テストですか!アタシは雪がいるので問題ないですね!」
綾香は自信満々に胸を張る。ようやく雪の手から解放され、晴れ晴れとした表情で宣言した。
「なにが大丈夫なの綾ちゃん」
雪は呆れたように溜息をつく。その表情には「またか」という諦めと、でも嫌いじゃないという優しさが混じっていた。
「雪は勉強を教えるのが得意なんです。なんせ中学二年までずっと赤点だらけだったアタシを、この高校に受からせたんですからね!」
綾香はそう誇らしげに言うと、雪を自身の胸に抱き寄せて頭をわしゃわしゃと撫で始めた。その手つきは愛おしい子犬を撫でるかのようだ。
「わわ!」
雪は体勢を崩して完全に綾香にもたれかかる。抵抗する素振りも見せず、むしろ嬉しそうに抱擁を受け入れた。小さな体が綾香の腕の中にすっぽりと収まっている。
「ははは、いいな。勉強ができる友達がいるのは」
村内は羨ましそうに二人を見つめる。その目には純粋な羨望が宿っていた。
「先輩、友達居ないんですか?」
綾香は無邪気に、しかし致命的な質問を投げかける。その声には悪意は全くなく、ただの素朴な疑問だった。
「ガフゥ」
村内は心臓を撃ち抜かれたかのように胸を押さえ、その場に崩れ落ちそうになる。顔は青ざめ、口からは呻き声が漏れた。
「綾ちゃん!言い方!」
雪は慌てて綾香を注意する。いくら悪気がなくても、言っていいことと悪いことがある。
「佐野…お前、いろいろすごいな」
湊は感心したように呟きながらも、慌てて村内に駆け寄り介抱する。背中をさすりながら「大丈夫ですか」と声をかけた。村内は「大丈夫…じゃない…」と弱々しく答える。
「と、ダチは居るさ、だがな…」
村内は何とか立ち直り、搾り出すように声を発する。そして次の瞬間、両手を広げて叫んだ。
「“勉強”ができるダチが居るかは別だ!!」
「「ああ…」」
その叫びは魂の咆哮に湊と雪は何とも言えない表情で顔を見合わせる。綾香だけが「え、そういうこと?」とキョトンとしていた。
村内の嘆きは部室に響き渡り、しばらくの間、重い沈黙が場を支配した。窓の外からは運動部の掛け声が聞こえ、平和な放課後の風景が広がっている。しかし茶道部の部室の中だけは、中間テストという名の暗雲が立ち込めていた。
「まぁ、先輩も頑張ってください」
湊はそう言って村内の肩を優しく叩く。その手には励ましの気持ちが込められていた。本心から村内を応援する気持ちと、この重い空気を何とかしたいという思いが混ざっている。
「ありがとう…久我は優しいな…」
村内は涙目で湊を見上げる。その瞳には感動の涙が浮かんでおり、まるで砂漠で水を見つけた旅人のようだった。そして次の瞬間――
「うぉ!」
村内は感動のあまり、湊の体にがばっと抱きついてきた。その勢いに湊は思わず後ろによろめき、何とか体勢を保つ。村内の体重がずしりと肩にかかり、耳元で「久我ぁ…」という呻くような声が聞こえる。
「ああ、また赤点になってもお前なら慰めてくれるよなぁ…久我ぁ…」
その両腕は湊の背中にしっかりと回され、まるで救命胴衣にしがみつく溺れかけの人のようだ。村内の顔は湊の目の前まで迫っており、その距離は明らかに近すぎる。
「あ、はい。その、苦しいのでそろそろ…」
湊は困惑しながらも、先輩を突き放すわけにもいかず、曖昧に笑みを浮かべながら少しずつ体を引こうとする。しかし村内はまるで子犬のようにしがみついて離れる気配がない。
「…後輩に面倒な絡みをするのはやめなさい、村内君」
凛とした声が部屋に響く。襖の向こうから、赤い髪留めでまとめられた黒髪を揺らしながら七瀬涼香が姿を現した。その表情は穏やかだが、目には確かな叱責の色が宿っている。
「七瀬先輩!」
湊は救世主を見つけたかのように声を上げる。その声には明らかな安堵が滲んでいた。
「またですか、テスト前はいつもこうですね」
七瀬は呆れたように溜息をつく。その仕草はまるで幼い弟の世話をする姉のようだった。
「だってぇ…」
村内は不満そうに唇を尖らせるが、七瀬の視線には逆らえず、渋々と湊から離れる。その表情は完全に駄々をこねる子供そのものだ。
「七瀬先輩…っ!ということは!」
綾香が何かに気づいたように声を上げ、襖の方を見つめる。その視線の先には――
「男子同士と女子同士でハグし合ってたの?仲良しだね」
穏やかな声と共に、綿貫和哉が襖の影から姿を現した。いつもの柔らかな笑みを浮かべ、天然パーマの黒髪を揺らしながら部屋に入ってくる。その言葉には悪意など微塵もなく、本当に微笑ましい光景を見たとでも言いたげだ。
……ただ口元は笑っているのに目が笑っていないように感じるのは気のせいだろうか?
「綿貫先輩!!」
湊の声が裏返る。頬が一気に熱くなり、心臓が激しく跳ね上がった。体中の血液が一斉に頭に上っていくような感覚だ。
まさか、まさかこのタイミングで和哉先輩が来るなんて。しかも、村内先輩に抱きつかれている場面を見られてしまった。
これは、これは完全に誤解される状況だ。
湊の頭の中は真っ白になり、ただ一つ「やばい、やばい、やばい」という言葉だけがリピートされていた。
「グハァ!」
湊は反射的に村内を力いっぱい突き放した。その勢いは自分でも予想以上で、村内の体が宙を舞う。村内は「うわっ!」と短い悲鳴を上げながら、畳の上を数メートル転がっていった。
ゴロゴロという音と共に、村内の体が壁際で止まる。部室に鈍い音が響き、雪が「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。綾香は「おおっ」と感心したような声を上げている。
「綿貫先輩!これは違います!向こうから抱きついて来て…」
湊は慌てて和哉に向き直り、両手を振りながら必死に弁解する。顔は真っ赤で、額には冷や汗が浮かんでいた。声は上ずり、普段の落ち着いた口調はどこへやら、完全に動揺している様子が丸わかりだ。
視線は和哉に釘付けで、他の誰の顔も見ていない。今この瞬間、湊の世界には和哉しか存在していなかった。和哉にだけは誤解されたくない。その一心で、必死に言葉を紡ぐ。
「うわー、久我がなんか浮気したクズの言い訳みたいなことしてる」
綾香が面白そうに茶々を入れる。その声には明らかに楽しんでいる響きがあり、湊の動揺ぶりを観察するような目つきだった。まるで面白いテレビドラマでも見ているかのような表情で、湊と和哉を交互に見ている。その様子は完全に第三者として楽しんでいる観客のそれだ。
「浮気じゃ、ない!」




