14話 余韻
時間が経つのは早かった。
気づけば、もう17時を回っている。西日が傾き始め、会場の賑わいも少しずつ落ち着きを見せていた。屋台の照明が徐々に目立ち始め、夕暮れ時の雰囲気が漂い始めている。
「そろそろ映画館に戻ろうか」
和哉が空を見上げながら言った。オレンジ色に染まり始めた空を眺めながら、少し名残惜しそうな表情を浮かべている。
「はい」
二人は会場を後にして、映画館へ向かった。
歩きながら、湊はふと自分の右手を見た。和哉と繋いでいた手は、いつの間にか離れていた。会場を出る時に自然と離れてしまったのだろう。でも、手のひらにはまだ和哉の温もりが残っているような気がした。
ふと、いつのまにか離れていた右手を寂しく思う。
もう一度繋ぎたい――
そんな衝動に駆られたが、さすがにそれは図々しいだろう。湊は自分の右手を左手で握りしめて、我慢した。
映画館に着くと、ロビーには既に多くの人が集まっていた。上映開始まであと10分ほど。
「じゃあ、入ろうか」
チケットを見せて、シアターに入る。席は真ん中あたりの良い位置だった。スクリーンが見やすく、音響も良さそうな場所だ。
和哉が隣に座る。その距離の近さに、湊の心臓はまた高鳴り始めた。暗くなった館内で、和哉の存在がより一層近く感じられる。
上映が始まった。
時々、湊は和哉の横顔を盗み見る。暗闇の中で、スクリーンの光に照らされた横顔が、とても綺麗だった。眼鏡越しに映る瞳は、物語に集中している。少し口を開けて、真剣に画面を見つめる姿が、とても愛おしい。
映画は、妹に勧められた作品だった。今、若い世代を中心に話題になっている作品で、公開から二週間経った今でも、連日満席が続いているという人気作だ。
内容は、とある翼のない天使の話。
主人公のメアは、天使でありながら翼を持たずに生まれた。天界では異端視され、疎外されて育った彼女は、ある日、自分の翼が失われた理由を知るために、人間界へと降り立つ。
そこで出会ったのが、悪魔のルナだった。美しく、冷酷で、自身の美しさに絶対的な自信を持つルナは、実は魔界のスパイとして人間界に潜入していた。最初は敵対していた二人だったが、次第に惹かれ合い、メアの翼の謎に一緒に迫っていく――。
ストーリーは予想以上に複雑で、伏線が巧みに張り巡らされていた。アクションシーンは迫力があり、メアとルナの関係性の変化は繊細に描かれていた。二人の距離が縮まっていく様子に、湊は思わず自分と和哉を重ね合わせてしまう。
クライマックスのシーンでは、メアの翼が失われた真実が明かされる。
それは、彼女を守るために、彼女の母親が犠牲を払った結果だった――。
映画が終わり、エンドロールが流れる。館内には静かな余韻が漂っていた。
二人はシアターを出た。
「面白かったね」
和哉が満足そうに言う。
「はい、想像以上でした」
湊も心から同意した。妹が勧めてくれて良かった。そして何より、和哉と一緒に見られて良かった。
「湊はどのシーンが好きだった?」
和哉が興味深そうに尋ねる。
「えっと……」
湊は少し考えた。印象的なシーンはたくさんあったが、一番心に残ったのは――。
「ラストシーンが良かったです」
「わかる! あの展開は予想外だったよね。僕、あの時のルナの言葉が好きなんだ。『貴女は翼あってもなくても美しいわ』って。最初、自分の美しさを自慢していたルナが言うのがいいよね。メアの内面の美しさに気づいて、変わっていく過程が丁寧に描かれてたから、あのセリフがすごく響いた」
和哉が目を輝かせる。映画の話をする和哉は、とても生き生きとしていた。
「そうですね。ルナの変化が、すごく自然で……。最初は自分のことしか考えてなかったのに、メアと出会って、大切なものが変わっていく様子が良かったです」
「うんうん!それに、メアも最初は自分に自信がなくて、翼がないことをコンプレックスに思ってたけど、ルナと一緒にいることで、自分の価値を見出していくのが良かった」
二人は映画の感想を言い合いながら、駅へ向かった。
話は尽きることなく、あのシーンが良かった、あのセリフが印象的だった、と次々に言葉が溢れてくる。こんな風に和哉と共通の話題で盛り上がれることが、湊には嬉しくて仕方なかった。
*****
駅の改札前で、二人は立ち止まった。
ここで別れなければならない。そう思うと、湊は急に寂しくなった。もっと一緒にいたい。もっと和哉と話していたい。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
和哉が柔らかく微笑む。
「こちらこそ。予定通りにいかなくてすみませんでした」
湊は申し訳なさそうに頭を下げた。今日は失敗ばかりだった。道に迷って、チケットを忘れて、和哉に迷惑をかけてしまった。
「気にしないで。今日は楽しかったよ」
和哉が微笑む。その笑顔は、心から楽しかったと言っているように見えた。
「そうですか?」
「うん。湊と一緒なら、きっと何してても楽しいから」
その言葉に、湊の心臓は跳ねた。
何してても楽しい――和哉がそう言ってくれたことが、湊には何よりも嬉しかった。失敗だらけの一日だったけど、和哉は楽しんでくれていた。それだけで、湊は報われた気がした。
「あ、そうだ」
和哉がバッグから小さな包みを取り出した。薄い包装紙に包まれた、手のひらサイズの箱だった。
「これ」
和哉が湊に差し出す。
「え?」
「誕生日プレゼント。今日、5月5日でしょ?」
湊は驚いた。
和哉が自分の誕生日を知っていたことに。そして、プレゼントを用意してくれていたことに。
「どうして……」
「前、中学の時に生徒手帳見えちゃって。それで、覚えてたんだ」
和哉が照れたように笑う。頬が少し赤くなっているのが、街灯の光でわかった。
湊は包みを開けた。
中には、さっきフリマで和哉が見ていたブレスレットが入っていた。革紐のシンプルなデザインに、オレンジのビーズが付いている。和哉が手に取っていたのとは違う色だった。
「あの時、買ってたんですか?」
「うん。湊に似合うと思って。僕が見てたのは紺色だったけど、湊にはオレンジの方が似合うかなって思って、別のを選んだんだ」
和哉がはにかむように笑う。
「ありがとうございます」
湊は胸が一杯になった。今日は色々あったけど、最高の誕生日だ。こんなに嬉しい誕生日は、生まれて初めてかもしれない。
「気に入ってくれた?」
「はい、すごく……」
湊は言葉に詰まった。嬉しすぎて、上手く言葉にできない。
「良かった。じゃあ、また部活でね」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
湊は深々と頭を下げた。感謝の気持ちを、どう表現したらいいのかわからない。
二人は改札で別れた。
和哉が改札を通って、エスカレーターに向かう。その背中を見送りながら、湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。
帰りの電車の中で、湊はブレスレットを眺めた。
オレンジのビーズが、電車の照明に反射して綺麗に光っている。シンプルだけど、丁寧に作られた温かみのあるデザインだ。
(先輩……)
今日の出来事を思い返す。
失敗ばかりだった。予約を忘れて、リサーチ不足で和哉に迷惑をかけてばかりだった。でも、和哉は優しかった。楽しそうだった。そして、こんな素敵なプレゼントまで用意してくれていた。
(まだまだだな、俺)
自分の未熟さを痛感する。でも、諦めない。もっと成長して、いつか和哉の隣に立てるように。和哉が困った時に、ちゃんと支えられる存在になれるように。
湊は決意を新たに、ブレスレットを手首につけた。
革紐が手首に馴染む。少しきつめに締めると、和哉の温もりがまだそこにあるような気がした。
外の景色が流れていく。電車は自宅の方向へと進んでいく。でも、湊の心は、まだ和哉のそばにあった。
(また、一緒に出かけたいな)
次回の部活が、今から待ち遠しい。
湊は窓に映る自分の顔を見た。そこには、幸せそうに微笑む少年の姿があった。
ブレスレットを撫でながら、湊は小さく呟いた。
「ありがとう、先輩……」
その言葉は、誰にも聞こえることなく、電車の音に消えていった。




