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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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12/22

11話 下準備 前編

 今日は春晴れで、陽射しが心地よい。絶好の下見日和だ。


 ゴールデンウィーク前の週末、湊は私服で電車に乗って隣町に向かっていた。胸の内には期待と緊張が入り混じっている。


 ゴールデンウィークに和哉と二人きりで出かける約束を取り付けたのだ。当日しっかりエスコートできるように、今日は現地をリサーチする。午前中に駅で待ち合わせて映画を見て、昼食のあとは美術館へ。


 そこで有名な絵画の展示を見て、近くのカフェで感想を語り合う――完璧なプランだ。


 想像するだけで顔がほころぶ。


 電車のアナウンスが鳴った。


「あ、ここだ」


 人混みに紛れて改札に向かう。

休日の昼間だというのに、そこそこ人がいる。改札を抜けて、湊は人の流れから外れた。


「えっと、美術館まではどう行くんだっけ」


 スマホで道のりを検索する。映画館は駅直通のショッピングモール内だから今日は行かなくていい。それに何より、映画の予告編すら見ないようにしているのだ。


 当日、先輩と一緒に初見で楽しみたい。


「まず西口から出て…西口は、あっちか」


 スマホの地図を見ながら歩き出す。


「ん? あれ、南口だ。ってことは真逆に…」


 慌てて方向転換した瞬間、肩に衝撃が走った。


「あうっ!」


 悲鳴が聞こえる。


「あ! すみません!」


 振り返ると、小さく縮こまっている女の子がいた。


「だ、大丈夫です! わたしこそ前見てなくて、ごめんなさい!」


 完全にテンパっている。しかし湊はその少女に見覚えがあった。


「水野?」


「へ…久我君!」


 雪がばっと顔を上げた。左右のおさげが揺れる。


 水野雪――湊と同学年で、同じ茶道部に所属している部員だ。クラスは違うが、部活では時々話す仲である。


「水野もお出かけ?」


「う、うん。今日ここに用事があって」


 雪はショルダーバッグからパンフレットを取り出した。


「あ、国立美術館。俺もこれから行くとこなんだ」


「そうなの?!」


 雪から聞いたことのない大きな声が飛び出した。メガネの奥の淡いブラウン色の瞳が見開かれている。


「そんな驚く?」


「ご、ごめんなさい。なんだか意外で…」


 面と向かって言われると、少し傷つく。確かに自分でも美術品鑑賞が趣味には見えないと思うけど。


「久我君の知り合いの人も、絵を描いてるの?」


 雪が首を傾げて聞いてくる。


「いや、知り合いにはいないけど」


「そうなんだ。今日は地域の中高生が描いた絵の展示がメインだから、てっきり…」


「え、そうなの?」


 湊は思わず聞き返した。

ゴールデンウィークの有名絵画展示のことしか調べていなかったのだ。


「ゴールデンウィークは別のイベントなんだ。今日は地元の学生作品展で……そっか…」


 少し拍子抜けした。まあいい、美術館の雰囲気だけでも掴めれば。


「もしかして、水野の絵が展示されてるの?」


「え?」


「だって自己紹介の時、美術部だったって言ってたよな」


「覚えててくれたんだ…」


 雪の声が小さくなる。


「ううん、違うよ。わたしの絵はそんなにすごくない。友達の絵が展示されてるの」


「そっか。ちょっと残念」


「え?」


「水野の絵、見てみたかったな」


 雪の顔が見る見る赤くなった。両手で頬を押さえている。


「あ、そろそろ開館の時間…」


「そ、そうだね。行こっか」


 湊は歩き出しながら考えた。

自然な流れで二人で行くことになったけど、これでいいのか。でもここで「じゃあ別々で」って言うのも変だろうし。


 それに一人で回るより、誰かと一緒の方が当日のイメージも湧きやすいかもしれない。


「あれ、こっち東口じゃん」


「え? あれ、おかしいな」


 結局、湊と雪が駅から脱出できたのは、それから10分後のことだった。


*****


 駅から15分ほど歩くと、閑静な住宅街の向こうに美術館が見えてきた。


 整然と並ぶ家々の屋根を超えて、白い建物がゆっくりと姿を現す。 


「わあ…」


 雪が小さく声を上げる。

その声には驚きと期待が混じっていた。


 国立美術館は白い石造りの重厚な建物だった。正面に立つと、その存在感に圧倒される。古典的な様式で建てられた外壁には、細やかな装飾が施されている。


 柱頭には植物をモチーフにした彫刻が刻まれ、長い年月を経てもなお、その美しさを保っていた。


 三角形の破風を支える列柱が整然と並び、その間から差し込む陽光が石の表面を照らしていた。光の当たり方で、石の表情が刻々と変わっていく。


 エントランスまでは緩やかな石段が続いている。両脇には手入れの行き届いた植栽があり、新緑が眩しい。ツツジの花が咲き始めていて、ピンク色の花弁が風に揺れていた。


「すごいな、ホームページでは見てたけど、実際に見るとすごい迫力だ。想像してたより立派な建物だな」


 湊は見上げながら呟いた。写真で見るのと実際に目の前に立つのとでは、迫力がまるで違う。建物の威厳というか、歴史の重みのようなものが、直接肌で感じられる気がした。


「実際に等身大で見ると印象が変わるよね。それほどでもないだろうと思ってたらすごく大きかったり、すごいと思ってたものが意外とそんなでもなかったり」


湊の驚きに、雪がふふっと笑いながら、実感のこもった様子で同意する。


 石段を上がると、重厚な木製の扉が開け放たれていた。中に入ると、思わず息を呑む。

 エントランスホールは吹き抜けになっていて、天井が驚くほど高い。視線を上げると、遥か上方に装飾が施された天井が広がっている。


 大理石の床が磨き上げられ、靴音が静かに反響する。その音さえも、この空間の一部になっているようだった。


 正面には大きな階段があり、左右に分かれて二階へと続いていた。階段の手すりは真鍮で、長年磨かれてきたのだろう、鈍く美しい光を放っている。手すりの曲線は優雅で、職人の技を感じさせた。


 天井からは大きなシャンデリアが吊り下げられ、柔らかな光が空間全体を包んでいた。ガラスの装飾が光を受けて、床に小さな虹を作っている。壁は淡いクリーム色で、ところどころにレリーフが施されている。ギリシャ神話をモチーフにした彫刻のようだった。


「受付、あっちだね」


 雪に促されて、湊は受付カウンターへ向かった。カウンターは大理石で作られていて、その前に立つと自分が少し緊張しているのがわかった。


 入場料を払い、パンフレットとおまけのキーホルダーを受け取る。筆に手足が生えた不思議なキャラクターだ。ゆるキャラというよりは、少しシュールなデザインで、思わず笑みがこぼれる。


 中を開くと、今日の展示内容が記されていた。一階は中高生の作品展、二階は常設展示となっているらしい。地図も載っていて、展示室の配置が一目でわかるようになっていた。


「一階から見る?」


「うん」


 二人は第一展示室へと足を踏み入れた。


 展示室は天井が高く、白い壁に絵画が整然と並んでいる。照明は絵を照らすように計算されていて、作品一つ一つが浮かび上がって見えた。


 スポットライトが当たった絵は、まるで額縁の中で生きているようだった。


 床はダークブラウンのフローリングで、歩くたびに軋む音が静寂に溶けていく。その音すらも、この空間の静謐さを際立たせているようだった。


「これが友達の絵?」


 湊は最初の作品の前で立ち止まった。それは抽象画で、色とりどりの幾何学模様が描かれている。


「ううん、もっと奥」


 雪に先導されながら、湊は展示されている絵を眺めていった。


 水彩画、油絵、アクリル画。技法も題材も様々だ。風景画もあれば、人物画もある。静物画や抽象画まで、湊と同じ高校生が描いたとは思えないほど完成度の高い作品が並んでいた。


 ある絵の前では年配の男性が立ち止まり、腕を組んでじっと見つめていた。別の絵の前では、若いカップルがひそひそと感想を語り合っている。それぞれが、それぞれの見方で作品と向き合っていた。


 ある作品の前で、湊は思わず足を止めた。

それは海を描いた油絵だった。キャンバスいっぱいに広がる水平線。明るい空と暗い深海の境界が曖昧で、どこまでが空でどこからが海なのか判然としない。なのに不思議と美しいと感じる。


 青にも無数の色があることを、この絵は教えてくれる。深い藍色、透き通るような水色、くすんだ青色。それらが重なり合い、溶け合い、一つの「青」を作り出している。


 よく見ると、緑がかった青もあれば、紫を帯びた青もある。

 波の表現が細やかで、光の反射まで描き込まれていた。波頭の白い泡、波間にきらめく光。見ていると、潮の香りや波の音まで聞こえてきそうだ。遠くにはカモメらしき白い鳥も描かれていて、海の広大さを感じさせた。


「この絵、いいな」


 彼の瞳の色だ。サファイアのように美しいあの人の瞳。和哉の瞳は、まさにこんな深い青色をしている。見つめていると吸い込まれそうになる、あの色。


「うん。すごく綺麗」


 雪も隣で絵を見つめている。

その横顔は真剣で、本当に絵が好きなのだと伝わってきた。


「絵ってこういうものなんだな」


 湊は呟いた。写真とは違う。描き手の解釈が入り、感情が込められている。この海は、描いた人が見た海であり、同時に描いた人の心象風景でもあるのだろう。


 現実の海をそのまま写し取るのではなく、描き手の心のフィルターを通して表現されている。それが絵の面白さなのかもしれない。


「いいな、こういうの」


 もっと色々な絵が見たくなった。そんな気持ちが湧き上がってくる。


「久我君、こっち」


 雪が手招きする。その声には少し弾んだ調子があった。

次の部屋に入ると、さらに多くの作品が展示されていた。人物画のコーナーらしい。老人を描いた絵、子供を描いた絵、家族を描いた絵。それぞれに物語が感じられる。


 一枚の絵の前で、雪が立ち止まった。


「これが友達の絵」


 それは少女を描いた肖像画だった。

背景は抑えた色調で、少女だけが鮮やかに描かれている。白いブラウスに紺のスカート。学生服だろうか。少女は窓辺に座り、外を眺めていた。窓の外には青空が広がっているようだが、少女の視線の先に何があるのかは見えない。


 その横顔に、湊は見入ってしまった。

憂いを帯びた表情。でも悲しんでいるわけではない。何かを想っているような、遠くを見つめるような眼差し。窓から差し込む光が少女の頬を照らし、髪に柔らかな陰影を作っている。その光の表現が、少女の内面の繊細さを際立たせていた。


 筆遣いが繊細で、まつ毛の一本一本まで丁寧に描かれていた。制服のシワや、窓ガラスに映る景色まで、細部にこだわりが感じられる。よく見ると、窓ガラスには外の木々が薄く映り込んでいて、その描写の細やかさに驚かされる。


「すごい…これ、本当に高校生が描いたの?」


「うん。わたしの、友達、美術科に通ってて。小さい頃からずっと絵を描いてるんだ」


 雪の声には誇らしさが滲んでいた。親友の才能を、心から認めているのような…


『雪にはわからないよ』

「…」


「はー、才能ってあるんだな」


 湊は素直にそう思った。自分には絶対に描けない。こんなふうに、人の内面まで表現することなんて。技術だけじゃなく、観察力や感性も必要なのだろう。


「うん、本当にね」


 雪は少し俯いて答える。その表情には、友達への尊敬と、どこか寂しさのようなものが混じっていた。


 二人はしばらくその絵の前に立ち尽くしていた。少女の視線の先には何があるのだろう。そんなことを考えながら、湊は絵を見つめ続けた。


 展示室には他にも数組の来場者がいて、それぞれ思い思いに作品を鑑賞している。ひそひそと感想を語り合う声や、足音だけが静かに響いていた。カメラのシャッター音も時折聞こえる。ここは写真撮影が許可されているらしい。


「一階、見終わったな。二階も見るか?」


「うん、せっかくだし」


 階段を上がって二階へ向かう。階段を上る途中、踊り場の窓から外が見えた。美術館の庭園が広がっていて、彫刻がいくつか設置されている。今度は外も見てみたいと思った。

 常設展示の部屋は一階よりさらに広く、近代から現代までの日本画や洋画が展示されていた。照明も一階とは少し違って、より落ち着いた雰囲気になっている。


 有名な画家の作品もいくつかあり、湊でも見たことのある絵があった。教科書に載っていたような気がする。実物を見ると、やはり印象が違った。色の深みや筆のタッチが、印刷物では伝わりきらないのだろう。 


「こうやって見ると、絵って面白いな」


「そう?」


「うん。同じ風景でも、描く人によって全然違う。その人の見方が反映されるっていうか」


 湊は、展示されている二枚の富士山の絵を見比べながら言った。同じ富士山なのに、片方は力強く、もう片方は幻想的に描かれている。


「久我君、そういうこと考えるんだ」


 雪が少し驚いたように湊を見た。メガネの奥の瞳が、興味深そうに輝いている。


「そりゃ考えるよ。バカにしてる?」


「してないよ! ただ、意外だなって」


「俺、そんなに頭空っぽに見える?」

 少しムムッと聞き返す。


「そうじゃなくて…なんていうか、久我君ってもっと体育会系っていうか、理屈より感覚で動くタイプってイメージだから」


 確かに否定できない。自分でもそう思う。考えるより先に体が動くタイプだと、よく言われる。


 二人は笑い合いながら、展示を見て回った。日本画のコーナーでは、繊細な線で描かれた花鳥画に見入った。洋画のコーナーでは、印象派の絵の色使いに驚いた。現代アートのコーナーでは、よくわからないオブジェに首を傾げたりもした。

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