10話 図書委員のお仕事
ここは、神聖な知の宝庫――行雲高校の図書室だ。さすがは県内有数の進学校、貴重な古書から最新の雑誌まで、さまざまな本が所狭しと並べられている。
高い天井まで続く書架には、背表紙が整然と並び、静寂の中にもどこか落ち着いた雰囲気が漂っている。窓から差し込む午後の柔らかな光が、埃の舞う様子を浮かび上がらせていた。
今日も新たな知識を求め、若人がやってくる――はずなのだが。
「ゔぅんーん……」
そんな神聖な場所で汚い呻き声をあげ、カウンターに突っ伏す不届き者がいた。
その手には『デートのすヽめ』という、あからさまなタイトルの本を持っている。しかもなかなかに分厚い。文庫本三冊分くらいはあるだろうか。表紙にはハートマークと、やけに幸せそうなカップルのイラストが描かれている。図書室の落ち着いた雰囲気には、明らかに不釣り合いな一冊だ。
「もう、何が何だかわっかんねぇ……」
湊はゴールデンウィークに和哉と遊びに行く約束を取り付けた。それからというもの、湊は奔走していた。和哉を楽しませる場所はどこかと、ネットで調べまくった。恥を忍んで妹にも聞いた。「お兄ちゃん、デート?」と茶化されて顔を真っ赤にしながら、それでも必死に情報を集めたのだ。
しかし、どこもピンとこない。良いなと思った場所は、とあるサイトによるとデートには不向きらしい。何やらそこに行ったカップルは別れるというジンクスがあったりなかったり……。水族館は定番すぎるし、遊園地は混雑しすぎている。映画館は会話ができない。カフェは二時間も持たない気がする。
ところで湊は必死になっているが、厳密にはこれは『デート』ではない。『ただ遊ぶ約束をしただけ』なのである。なので調べていることはすべてお門違いなのである。だが、湊本人はそんなこと微塵も気にしていない。頭の中は完全に「和哉先輩との初デート」モードだ。
「何を呻いているんだ? 周りの人達に見られてるぞ」
低いが威圧感のない、仕方なさがにじむ声にビクッと反応し、湊は咄嗟に本を膝の下に隠した。慌てた動作で椅子がギシリと軋む。
「お、おお笹木! 本の片付けありがとな」
「ん、そっちこそ。受付どうも」
そう言って湊の隣の椅子に座り、カウンターの向かい側を向く。黒縁のスクエア型メガネをかけた彼――笹木響也は、いつもの落ち着いた様子で腰を下ろした。手には、返却された本が数冊抱えられている。
そう、湊の図書委員の相方は笹木なのだ。これは部活決めの日に遡る。
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先輩がなりそうな委員会は――
和哉先輩は真面目で、几帳面で、礼儀正しい。そして本が好きだと言っていた。
(ここだー!)
確信を持って、湊は勢いよく手を上げた。椅子から腰を浮かせるくらいの勢いだった。周囲の空気が一瞬、凍りついたような気がした。
「はい! 俺、図書委員やります!」
教室中の視線が湊に集中する。「久我が?」「意外だな」「あいつ本読むタイプじゃないだろ」という声も聞こえる。でも構わない。これで先輩と一緒に活動できるかもしれないのだから。
放課後の図書室で、二人きりで本を整理する姿を想像すると、自然と頬が緩んでしまう。静かな空間で、先輩の穏やかな笑顔を独り占めできるかもしれない。そんな妄想が、湊の頭の中で次々と膨らんでいく。
「お、久我。ありがとう」
代議員の森が安堵の表情を浮かべた。肩の力が抜けたように、大きく息を吐いている。
「じゃあ俺も図書委員でいいや」
すぐに、もう一人手が上がった。クラスの隅に座っている、同じ中学出身でいつも本を読んでいる眼鏡の男子だ。休み時間も昼休みも、常に何かしらの本を開いている。本当に本が好きそうな雰囲気を漂わせている。
湊は一瞬、その声の主を振り返った。見覚えのある顔だが、名前が出てこない。ああ、そういえば中学の時も図書委員だった気がする。まあいいか、と湊はすぐに意識を先輩のことへ戻した。
その後、残りの委員会も何とか埋まり、ようやくホームルームが終わった。宇佐美先生は「よし、じゃあ帰っていいぞ」と力なく手を振り、誰よりも早く教室を出て行った。
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「にしても、やっぱり意外だな。久我が図書委員に立候補するなんて」
黒縁のスクエア型メガネのレンズから、翡翠色の瞳がこちらを覗き込んでくる。その視線には、明らかな好奇心が含まれていた。
「まぁ、うん。気まぐれ、かな……」
その視線から逃げるように、湊はそっぽを向いて答える。本当の理由――和哉先輩と一緒にいたかった――なんて、口が裂けても言えない。顔が熱くなるのを感じて、湊は慌てて膝の上の本をパラパラとめくった。
久我湊と笹木響也は、クラスの図書委員になった。
図書委員は週に一回、昼休みか放課後に図書委員の仕事をすることになっている。二人は厳正なくじ引きの結果、毎週金曜日の放課後に担当になった。金曜日といえば、茶道部の活動日ではない日だ。湊にとっては、せめてもの救いだった。
「意外繋がりで言えば、部活もだな。茶道部なんてキャラじゃないだろうに。中学の時は部活無所属だったろ?」
響也が、さりげなく話題を振ってくる。その口調には批判めいたものはなく、純粋な疑問だけが含まれていた。
「ああ、えっと、知り合いがいてな」
「ふーん、そうなんだ」
響也は深く追求しなかった。それがありがたくて、湊は少しホッとした。
「そういう、お前はなんの部活なんだよ」
「写真部。中学の時もやってたから」
「へー、そうなんだ」
「……ほんとに覚えてないんだな」
「あはは〜、すまんすまん」
湊は響也に中学の時、勉強を教えてもらっていた。だが当の湊は、勉強に脳のリソースを割きまくっていたせいか、彼の存在をほとんど覚えていない。テストの点数、偏差値、合格ライン――そういう数字ばかりが記憶に残っていて、人の顔や名前は霞んでいた。
まあ、話したら謎の安定感があるから、結構な頻度で教えを乞うていたのだろう。響也は教え方が上手かった気がする。ぼんやりとだが、そんな記憶の断片はある。
というか、和哉が卒業し恋心を自覚してからの中学生活は、勉強しか記憶になく、体育祭や文化祭、修学旅行などいろいろな行事の記憶がスキップしてしまっている。
修学旅行で京都に行ったことは覚えているが、誰と班だったかすら思い出せない。ただ、和哉先輩が卒業した高校に合格するために必死だったという記憶だけが、鮮明に残っている。
目的を確実に完遂するのは長所と言えなくはないが、これは湊の悪癖の部分が大きい。幼い頃からある程度のことはそつなくこなせるので、あまり努力をするタイプではないのだが、一度火がつくと止まらなくなる。
火がついたら、対象を燃やし尽くすまで消えない。恐ろしい炎だ。
母から聞いた幼い頃の話だと、一度クレーンゲームをさせたら取れるまで頑なに台から離れず大変だったらしい。他の子供たちが順番待ちをしているのに、湊は「もう一回、もう一回」と泣きながら台にしがみついていたという。結局、三時間近く粘り続けたそうだ。
ちなみに景品は、母の財布が空になる直前に優しい店員さんが景品の位置を調整して取らせてくれたらしい。母は「あのときは本気で困った」と、今でも苦笑いしながら話す。
それ以降、久我家は湊をゲームセンターに近づけるべからずという鉄の掟ができた。
「……」
「……」
沈黙が続く。だいたいの生徒は図書室の備え付けの机で自習したり、本を読んだりしているので、あまりわざわざ借りに来ない。カウンター業務は、予想以上に暇だった。湊は時計を見上げる。まだ三十分しか経っていない。
周囲を見渡すと、窓際の席で参考書を広げている三年生らしき女子や、文庫本を読みながら笑いを堪えている男子の姿が見える。静かだが、それぞれが自分の時間を過ごしている。
「……なぁ」
湊はふとあることに気づく。
「ん?」
「お前、身長いくつ」
「178だったはずだけど」
「くっっ!」
「え、なに」
先程から違和感があったのだ。隣同士で座っていて、響也の方が明らかに座高が高い。図書室のカウンターの椅子は、なぜか元々嫌味なくらい高く、湊の足がギリギリ着くくらいだ。
なのに隣の男は平気で足を組んでいる。余裕すら感じさせる姿勢だ。これが持って生まれた物の差なのだろうか。湊は自分の足元を見下ろし、地面にギリギリ着いているつま先を見つめた。
「……切り取ってやろうか」
「本当になに、怖いんですけど」
響也が困惑した表情で湊を見つめる。その視線に、湊は「いや、なんでもない」と慌てて首を振った。
「これ、お願いします」
「はー、いぃ?!」
突然の出来事に、トンチキな返事をしてしまった。湊の目の前には、見慣れた優しい笑顔があった。
「や、湊。やってる?」
まるで居酒屋のような呼びかけをするのは、湊の想い人、綿貫和哉そのひとだ。制服姿の和哉が、カウンターの前に立って微笑んでいる。いつもの穏やかな表情が、午後の光を受けて柔らかく輝いて見えた。
「綿貫先輩!? な、なぜここに」
「いや、本を借りに来たんだろ。ここ図書室だからな?」
あたふたする湊に、響也が速やかにツッコミを入れる。和哉は微笑ましそうに笑っている。その様子を見て、湊の顔がますます赤くなる。
「は、そそうか。えっと学生証と図書カードお願いします」
「はーい」
湊はカードを受け取り、バーコードをピッとする。そして、本の裏にある学校が作ったバーコードもピッとして、カードと合わせて返す。その間、湊の手は微かに震えていた。先輩との距離が近すぎて、心臓の音が聞こえそうだった。
「お返しします」
「ありがと〜、じゃあ頑張ってね」
「は、はい!」
和哉が去っていく背中を見送りながら、湊はニヤリと笑った。隣の響也が怪訝そうな表情でこちらを見ているが、気にしない。
(ふ、ふふ……なるほどわかったぞ。綿貫先輩に楽しんでもらえる所が)
湊が和哉の行きたい場所を推測したのは、つい先程、和哉が借りた本が原因だ。先程、和哉が借りたのは『世界の美術史』というタイトルだ。厚みのある本で、表紙にはルネサンス期の絵画が印刷されていた。
(先輩は美術品が好きなんだな。茶道もやってるし、文学的な人だなぁ)
湊の頭の中で、ゴールデンウィークのプランが急速に固まり始める。美術館だ。県立美術館で、ちょうど特別展をやっているはずだ。静かで落ち着いた空間で、和哉と二人で絵画を鑑賞する――なんて素敵なデートだろう。想像しただけで、湊の頬が緩んでしまう。
「……久我、さっきから顔が緩みっぱなしだぞ」
「う、うるさい!」
響也の冷静なツッコミに、湊は慌てて表情を引き締めた。
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和哉は教室に戻る。三年の教室は最上階にあり、窓からは校庭が一望できる。放課後の穏やかな空気が流れている。
「ただいまー」
「綿貫さん、良いの見つかりました?」
声をかけてきたのは、ポニーテールを赤いリボンで括っている女子生徒――七瀬だ。クラスメイトで、部活も同じいつも真面目に勉強している優等生タイプだ。
「うん、これが借りた『世界の美術史』。やっぱりあんまりいいのがなかったよ」
「当然ですよ、もうそろそろ締切ですしね。私は当然、すぐに終わらせましたけど」
「七瀬さんは真面目だなぁ」
「というか、どうしたら歴史のレポート課題を締切三日前まで忘れるんですか」
「たはは、本当にね」
和哉は苦笑いしながら、自分の席に戻った。机の上には、他の教科のプリントや資料が山積みになっている。受験生の現実だ。
「でも、図書室で可愛い後輩に会えたから、まあ良しとするか」
和哉は小さく呟いて、『世界の美術史』を開いた。その表情は、どこか楽しそうだった。




