9話 お誘い
湊は今、重大な問題に直面していた。
綿貫先輩は三年生だ。
大学受験を控えた受験生なのだ。
つまり――先輩と一緒に過ごせる時間は、思っているよりもずっと少ないということだった。
「夏休み以降は、三年生の皆さんは受験勉強に専念していただきます」
四月も半ばを過ぎた頃、部活終わりのミーティングで顧問の吉野先生がそう切り出した。いつもの穏やかな口調だったが、その言葉には有無を言わさぬ重みがあった。
「部活動への参加は任意とし、無理のない範囲で構いません。ご自身の進路を最優先になさってください」
その言葉を聞いた瞬間、湊の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚。まるで目の前に見えない壁が現れたかのように、呼吸が浅くなる。
周りを見れば、七瀬は静かに頷いていて、綿貫も真面目な顔で「はい」と答えている。村内は少し寂しそうな表情を浮かべながら、でも理解しているという風に小さく息を吐いていた。
つまり――三年の先輩と一緒に部活ができるのは、あと三ヶ月程度しかないということだ。
夏休み前まで。たったの三ヶ月。
三年間も想い続けて、やっと同じ場所に立てたのに。中学一年生の春、初めて綿貫先輩を見かけた時から数えて、丸三年。ずっと恋焦がれていた背中を追いかけて、この高校に入学して、念願の茶道部に入部して。
毎日先輩と同じ空間で過ごせる幸せを噛みしめながら、少しずつ距離を縮めていこうと思っていたのに。
それなのに、もう時間がない。
いや、諦めるわけにはいかない。今まで頑張ってきたんだ。ここで何もせずに終わるなんて、絶対にありえない。
まずは先輩との距離を縮めなければ。仲良くなって、先輩のことをもっと知りたい。好きなもの、考えていること、普段どんな風に過ごしているのか。
そして先輩にも、俺のことを知ってほしい。ただの後輩としてじゃなく、一人の人間として。名前を呼ばれた時に、少しでも特別な感情を持ってもらえるように。
ただでさえ、湊と和哉の間には二年間という空白のブランクがある。
そのブランクを埋めるような、何か特別なイベントが必要だ。部活の中だけでは、どうしても先輩と後輩という関係性から抜け出せない。もっと個人的な、プライベートな繋がりが欲しい。
そう考えた俺は、一つの計画を立てた。
ゴールデンウィーク。もうすぐやってくる大型連休に、先輩を遊びに誘うんだ。
映画でもいい、カフェでもいい。どこか遊園地に行くのもいいだろう。美術館や博物館だって、先輩なら興味を持ってくれるはずだ。茶道をやっているくらいだから、きっと日本文化や芸術に関心がある。
それとも、もっとカジュアルに街をぶらぶら歩くのもいい。新緑の季節だから、公園を散歩するのも悪くない。
とにかく、部活以外の場所で先輩と二人きりで過ごす時間を作る。
よし、決めた。次に部活で会った時、絶対に声をかけよう。
そう心に誓った瞬間、不思議と力が湧いてくるような気がした。まだ何も始まっていないのに、すでに胸が高鳴っている。
*****
「先輩、あの……」
言葉が、喉の奥で引っかかって出てこない。
部活が終わり、皆が後片付けをしている茶室。夕暮れの光が障子を通して柔らかく差し込んでいる。オレンジ色の光が畳の目を照らし、埃が光の中でゆっくりと舞っている。和哉先輩は床の間の掛け軸を丁寧に巻いていた。細い指先が、慎重に、大切そうに軸を扱っている。
その横顔を見つめながら、三歩近づいて、二歩下がることを繰り返していた。まるで不審者だ。自分でもわかっている。でも足が勝手に動いてしまう。近づきたいのに、近づけない。声をかけたいのに、言葉が出ない。
駄目だ。頭の中では完璧にシミュレーションできていたのに。
『先輩、ゴールデンウィーク、もしよかったら遊びに行きませんか?』
家で鏡の前で何度も練習したフレーズだ。表情も、声のトーンも、何度も確認した。でも、いざ先輩を目の前にすると、心臓がうるさくて自分の声が聞こえなくなる。手のひらにじっとりと汗が滲んで、口の中が乾いて、舌がうまく回らない気がする。
「綿貫先輩、棚の茶器、拭き終わりました」
雪の声が聞こえる。いつもの控えめで丁寧な、鈴の音のような声だ。
「ありがとう、水野さん。そこに置いといて」
先輩の優しい声。ああ、あの声で俺の名前を呼んでほしい。「湊」って、笑顔で呼んでほしい。「湊、一緒に行こう」って言ってほしい。ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
「久我〜、お前ぼーっとしてないで、水屋の雑巾洗ってこーい」
村内先輩の呆れたような声で我に返る。気づけば、湊はただ突っ立っているだけ。手には何も持っていない。掛け軸を巻き終わった和哉先輩が、不思議そうにこちらを見ている。視線が合って、一瞬心臓が止まりそうになる。
「あ、はい! すぐやります!」
慌てて水屋に向かう。顔が熱い。絶対に赤くなってる。耳まで熱を持っている気がする。情けない。せっかく近づいたのに、結局何も言えなかった。
それからも、何度も綿貫先輩に話しかけようとした。
部活の合間、先輩が一人で茶筅を確認している時。細い竹の穂先を一本一本丁寧に見ている姿を見て、声をかけようとして、やっぱり躊躇した。あまりに真剣な表情だったから、邪魔をしてはいけない気がして。
廊下ですれ違った時。「あの、先輩」と声をかけようとしたら、教師に呼び止められて、そのまま職員室に向かっていった。俺はただ、その背中が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった。
下駄箱で靴を履き替えている時。タイミングを見計らっていたら、七瀬先輩が現れて「綿貫さん、ちょっといいですか?」と連れて行ってしまった。
結局話しかけられないまま日が過ぎていく。カレンダーの日付だけが、容赦なく進んでいく。赤い数字で示されたゴールデンウィークの予定が、どんどん近づいてくる。
「綿貫先輩は最近忙しそうだな」
ある日の部活後、村内先輩がぼそっと呟いた。その声には、少し寂しさが滲んでいた。村内先輩も、和哉先輩のことを慕っているんだろう。
「ええ。中間試験も近いし、進路のことで先生と面談も多いみたいですよ」
七瀬先輩が答える。彼女もまた三年生だ。同じように受験を控えている。でも、七瀬先輩は元々しっかりしているからか、あまり忙しそうには見えない。いつも余裕のある笑みを浮かべている。
そうだ。先輩は忙しいんだ。進路のこと、受験のこと、たくさん考えなきゃいけないことがある。将来のこと、大学のこと、きっと俺には想像もつかないようなプレッシャーと戦っているんだ。こんな俺の個人的な用事で、貴重な時間を奪っていいんだろうか。
でも、このままじゃゴールデンウィークが終わってしまう。
気づけば四月も終わりに近づいていた。桜はとっくに散り、新緑の季節が始まっている。窓の外の木々は、日に日に緑を濃くしていく。焦りだけが、日に日に募っていく。胸の中で、時限爆弾が秒読みを始めているような感覚。時間だけが、無情に過ぎていく。
*****
「湊、ちょっとこっちおいで?」
突然、先輩が振り返って湊っと名前を呼んだ。
心臓が止まるかと思った。
部活が終わり、他のメンバーは既に帰宅している。静まり返った茶室に、湊と和哉先輩だけ。夕闇が忍び寄り始めた空間の中で、その声だけがやけに鮮明に聞こえた。
今日こそはと意を決して先輩に近づこうとしていたところだった。勇気を振り絞って、一歩、また一歩と。
その前に、先輩の方から声をかけてくれた。
「湊、僕に話したいことある?」
先輩は少し首を傾げて、優しく微笑んでいる。眼鏡の奥の瞳が、穏やかに俺を見つめていた。その視線には、心配と優しさが混ざっている。まるで、心の中を見透かされているような気がして、ドキドキする。
「え、あ、その……」
しどろもどろになる後輩に、先輩は柔らかく微笑んだ。困ったような、でもどこか心配そうな表情。眉が少しだけ下がって、口元には優しい笑みが浮かんでいる。
「最近、何か僕に声かけようとしてるみたいだったから。気づいてたよ」
先輩は俺の様子を見ていてくれたんだ。その事実だけで、喉の奥が熱くなる。嬉しさと恥ずかしさが入り混じって、顔がどんどん熱くなっていく。
「もしかして、部活のことで困ってる? それとも学校生活のこと? 一年生だと、まだ慣れないことも多いだろうし」
和哉先輩は、いつも通り穏やかで優しい。でも、そこには確かな気遣いがあった。
「もしよかったら、連絡先交換しない? LINEとかで相談してくれてもいいし。先輩として、力になれることがあれば教えてほしいな」
先輩が自分からスマホを取り出して、QRコードを表示してくれた。画面の明かりが、薄暗くなった茶室の中で白く光っている。その光が、先輩の指先を照らしている。
「はい、僕のアカウント」
「は、はい……!」
慌ててスマホを取り出して、カメラを起動する。手が震えて、なかなかうまくQRコードを読み取れない。何度か試して、ようやく読み込みに成功した。画面に表示された「綿貫和哉」の文字を見て、じわじわと現実感が湧いてくる。
本当だ。先輩の連絡先だ。先輩のLINE。いつでも連絡が取れる。この小さな画面の向こうに、先輩がいる。
「登録できた?」
「あ、はい! できました!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。和哉先輩が少し目を丸くして、それからくすっと笑う。
「よかった。じゃあ、何かあったらいつでも連絡してね」
和哉は相変わらず、湊が何か悩んでいると思っているようだった。
「クラスのことでも部活のことでも、なんでも相談に乗るよ。一年生の時って、色々と大変だろうし。僕も一年生の時は、先輩に随分助けてもらったから」
その優しさが、胸に染みる。でも同時に、もどかしさも感じる。先輩は俺のことを、ただの困っている後輩だと思っている。そうじゃない。俺が先輩に求めているのは、そういう関係じゃないんだ。
「あの、えっと……」
違うんです。俺が先輩に相談したいのは、部活のことでもクラスのことでもなくて……。
でも、今日はもう限界だった。これ以上この場にいたら、緊張で倒れてしまいそうだ。頭がくらくらする。呼吸も浅くなっている。視界の端がぼやけている気さえする。
「あ、ありがとうございます! それじゃあ、失礼します!」
俺は深々と頭を下げると、足早に茶室を後にした。背中に先輩の「気をつけて帰ってね」という声が聞こえた気がする。その優しい声が、耳に残っている。
*****
家に帰り着いた時には、既に日が暮れかけていた。西の空がオレンジ色に染まっている。雲の隙間から、最後の光が漏れている。
「ただいま」
玄関で声をかけるが、返事はない。母は買い物に出ているんだろう。
湊は和哉にLINEに送る前に体を清めることにした。
急いでリビングを通り過ぎ、自室に入る。制服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。お湯を浴びながらも、頭の中は先輩のことでいっぱいだった。
先輩の連絡先を手に入れた。
でも、肝心の誘いはまだできていない。あと一歩。あと一歩なのに。せっかくこんなに良い機会をもらったのに、結局何も言えなかった。情けない。
このまま何も言わないで、ゴールデンウィークを迎えるわけにはいかない。せっかく連絡先を交換したんだ。ここで動かなかったら、意味がない。先輩は「いつでも連絡して」と言ってくれた。その言葉に甘えてもいいはずだ。
シャワーから上がり、バスタオルで頭を拭いて、俺はベッドに倒れ込んだ。濡れた髪から水滴が落ちるのも気にせず、天井を見つめる。白い天井が、ぼんやりと視界に広がっている。
今日の先輩の笑顔が脳裏に浮かぶ。
『湊、僕に話したいことある?』
あの優しい声。心配してくれる眼差し。少し首を傾げる仕草。眼鏡の奥の、穏やかな瞳。
もう、ためらっている場合じゃない。ゴールデンウィークまで、あと数日しかない。カレンダーを見れば、もう四月の終わり。時間は待ってくれない。
ベッドに寝転がったまま、スマホを取り出した。LINEを開き、トーク画面を表示する。まだ何もメッセージのない、真っ白な画面。
アイコンは、猫が塀の上を歩いている写真だった。黒と白のぶち模様の猫。夕暮れの中、塀の上を悠々と歩いている姿。先輩らしいな、と思う。
指が震える。何度も文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。
『綿貫先輩、こんばんは。久我です』――いや、堅苦しいか。
『先輩、今日はありがとうございました』――これだと続きが変か。
『あの、よかったら遊びに』――軽すぎる?
でも、もう決めたんだ。ここで躊躇していたら、また何日も時間を無駄にしてしまう。
深呼吸を三回して、俺は一気に文字を打ち込んだ。
『綿貫先輩、今日はありがとうございました。久我です。あの、相談というわけじゃないんですが、もしよろしければ、ゴールデンウィーク、遊びに行きませんか?』
送信ボタンを押す前に、何度も読み返す。変な文章じゃないか。失礼じゃないか。キモくないか。「遊びに行く」って言い方、子供っぽくないか。でも、他に言い方が思いつかない。
考えれば考えるほど、不安が募る。心臓の鼓動が、どんどん早くなっていく。
でも、これ以上考えていたら、また何も言えなくなる。明日になったら、また勇気が出なくなるかもしれない。今、送るんだ。今しかない。
えいっ、と送信ボタンを押した。
メッセージが送信される。トーク画面に、自分のメッセージが表示された。青い吹き出しの中に、自分の言葉が並んでいる。既読はまだつかない。
心臓の音が、部屋中に響いているような気がする。時計を見ると、午後九時を回っていた。秒針が、カチカチと音を立てている。
遅かっただろうか。夕食の時間かもしれない。それとも、もうお風呂に入っている頃か。勉強中かもしれない。
でも、先輩は「いつでも連絡して」と言ってくれた。その言葉を信じよう。先輩は優しい人だ。きっと、迷惑だなんて思わない。
スマホを握りしめたまま、天井を見つめる。一分が一時間に感じられる。秒針の音が、やけに大きく聞こえる。カチ、カチ、カチ。その音に合わせて、心臓も鼓動している。
そして――
ピロン、と通知音が鳴った。
慌ててスマホを見る。既読がついている。そして、その下に、新しいメッセージが表示されている。画面が光って、文字が浮かび上がる。
『いいよ。どこ行こうか』
シンプルな返信。たった九文字。でも、その九文字が、世界を一気に明るく照らした。
「よっしゃああああぁぁぁっ!!」
思わず叫んでしまった。ベッドの上で飛び跳ね、ガッツポーズを取り、枕を抱きしめる。やった、やった、やったぞ! 先輩が、俺の誘いを受けてくれた!
「いいよ」って言ってくれた! 夢じゃない、現実だ!
「湊! うるさいわよ!! 何やってんの!」
いつの間にか帰ってきていた母の怒声が廊下の向こうから響く。ドアを叩く音も聞こえる。ドン、ドン、という激しい音。
「お兄ちゃん、マジうるさい! 勉強してるんだけど!」
妹の部屋からも抗議の声が飛んでくる。壁を叩く音。
「ご、ごめん……!」
慌てて声を潜める。でも、抑えきれない喜びが、胸の奥から溢れてくる。笑いが止まらない。顔の筋肉が痛いくらい、笑ってしまう。頬が引きつるくらい、ずっと笑っている。
スマホの画面を見つめる。『いいよ。どこ行こうか』の文字が、何度見ても消えない。現実だ。夢じゃない。指で画面をなぞる。温かい。
先輩と、ゴールデンウィークに遊びに行ける。
二人きりで。
部活じゃない場所で。制服じゃない服を着て。茶道の話だけじゃない、色んな話ができる。好きなもの、嫌いなもの、趣味、興味のあること。全部知りたい。先輩の笑顔を、もっと近くで見たい。
『じゃあ、どこがいいですか? 映画とか、遊園地とか……』
すぐに返信を打とうとして、やめた。焦りすぎだ。少し落ち着こう。後日、ゆっくり考えて返信しよう。先輩の好きそうな場所を、ちゃんとリサーチしてから提案しよう。
せっかくの機会なんだから、最高の一日にしたい。楽しんでもらいたい。そして、俺のことを少しでも意識してもらえるように。
枕に顔を埋めて、誰にも聞こえないように、小さく「やった」と呟いた。何度も何度も。声に出すたびに、実感が湧いてくる。
窓の外を見れば、星が瞬いている。いつもより明るく見えるのは、気のせいじゃないはずだ。夜空の星々が、まるで祝福してくれているみたいに輝いている。
春の夜は、いつもより少しだけ暖かく感じられた。胸の中に、小さな炎が灯ったような、そんな感覚。これから始まる何かへの期待に、心が震えている。
ベッドに仰向けになって、もう一度スマホの画面を見る。『いいよ。どこ行こうか』。この言葉を、何度読み返しただろう。
明日から、先輩とのデートプランを考えよう。最高の一日にするんだ。
そう決意して、俺はようやくスマホを置いた。でも、目は冴えて眠れそうになかった。胸の高鳴りが、まだ収まらない。
長い、長い夜が始まろうとしていた。でも、それは幸せな夜だった。




