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ふたりのフツウ  作者:


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第0話 これまでとそれから 

あれは中学に入学したばかりの頃だった。


当時、俺ーー久我湊(くが みなと)はまだ袖が余る学ランを着て、つまらない授業を「お腹が痛いです」という安直な仮病を使ってサボり、校内を探索していた。


新入生なので、まだ学校のすべてを把握していなかった俺は、好奇心のままに校舎を歩き回っていた。


そうして誰にも見つからないようにこっそりと忍び込んだ古い和室で、俺は一人の先輩と出会った。


まだ桜が舞う季節だった。


風が強く吹くたびに、桜の花びらがまるで吹雪のように宙を舞い、窓の外を薄紅色に染めていく。その幻想的な光景の中で、校舎から少し離れた別棟の和室で見つけた先輩は、まるで時代劇から抜け出してきたかのようで、儚く美しい桜の精霊のような存在だった。


ふわふわとした艶やかな黒髪に黒縁の眼鏡。

ぼんやりと流し目で窓の外を眺めている横顔からは、本当に同じ中学校の生徒なのかと問い質したくなるほど、大人びた色香が滲み出ていた。


年齢を超越したような、どこか浮世離れした雰囲気を纏っている。


思わず見惚れていると、彼のサファイアのように蒼く澄んだ瞳が、こちらの視線に気づいてゆっくりとこちらを向いた。


「…っ?!」


知らなかった。驚きすぎると、本当に声が出ないものなのだ。声どころか、息すらも止まってしまった。心臓だけがやけに大きな音を立てて鼓動している。


「一年生君かな?」


先輩は穏やかな笑みを浮かべながら、優しく声をかけてくれた。こちらを安心させようとしてくれているのを肌で感じる。


警戒心を解こうとする、その配慮ある態度に、俺の緊張は少しずつ和らいでいった。


その人――綿貫和哉(わたぬき かずや)先輩。


和室の隅には制服が綺麗に畳まれて置かれており、先輩は紺色の袴姿を凛と身に纏っていた。その姿はまるで一幅の絵画のようで、俺は完全に目を奪われてしまった。


俺が授業を抜け出してきたことを正直に話すと、先輩は「一緒だね」と薄ピンク色の唇を緩めて微笑み、首を少し傾けながら無自覚なのかどこかあざとく言ってきた。


その仕草があまりにも自然で、計算されていないからこそ、余計に心を掴まれてしまう。


俺が入り口で立ち尽くしていると、自分もサボっているくせに、「サボりはだめだよ〜?」とくすくすと笑いながら和室へと手招きして中に入れてくれた。そして丁寧な所作で、お茶を点ててくれた。


その時飲んだお茶は、正直なところ苦かった。まだまだお子様の中学一年生の舌には刺激が強すぎるほどの、深い苦味。


けれど、不思議と嫌いじゃなかった。

むしろ、この苦さが心地よくさえ感じられた。


先輩は「お茶菓子があればもっといいんだけどね」と少し申し訳なさそうに言っていたけれど、俺にはあの苦い味だけで十分すぎるほどだった。先輩が点ててくれたという、それだけで特別な意味があった。


それから俺と先輩は、先生にもクラスメイトにも秘密で、たまに茶道室でサボり仲間になった。頻繁に会えるわけではなかったが、それがまたいい。数えるくらいしか会えなかったからこそ、その時間が余計に貴重で、輝いて見えた。


あの静けさと、茶の香りが漂う時間。

不思議で、それでいて深く落ち着く空間だった。畳の感触、障子越しに差し込む柔らかな光、遠くから聞こえる部活動の声。


すべてが特別な思い出として、俺の中に刻まれていった。


しかし、出会ってから一年弱後、先輩は卒業してしまった。卒業式の日、俺は遠くからその姿を見送ることしかできなかった。その後も、俺は一人であの和室に居座り続けた。


いつもは静かで落ち着く空間なのに、先輩がいないと、どうしようもなく落ち着かない。


静かすぎる。


むしろ、その静寂が耳に痛い。

胸にぽっかりと穴が空いたような、何かが欠けてしまったような感覚があった。


その時の俺には、『それ』がなんなのか分からなかった。ただ、漠然とした寂しさだけが心を満たしていた。


ある日、クラスの女子たちが恋バナをしているのが聞こえてきた。


「彼とは一緒にいるだけで幸せなのに、もっともっとを求めちゃうんだよね」


「一人の時も彼のことばっかり思い出しちゃって、勉強が手につかないの」


周りの女子たちは「はいはい、惚気るな〜」、「この有頂天女め」、「リア充爆発しろ」などと囃し立てている。


――今の俺と同じだ。


その瞬間、俺は理解した。綿貫先輩へのこの想いは、単なる寂しさなんかじゃない。


もっと深くて、もっと切実な何かなのだと。


――俺は、先輩に恋をしていたのだ。


自分の気持ちを理解して、不思議と安心感があった。同性を好きになったという驚きよりも、納得感のほうが強かった。


むしろ「だからあんなに心が騒いでいたのか」と、パズルのピースがはまったような感覚だった。


だって、先輩はあんなにも魅力的なのだ。

誰だって惚れてしまってもおかしくない。

性別なんて、関係ない。


おかしくなどないのだ。

意味はよく知らないが近年話題になっている『じぇんだーれす』と言うヤツだ。


だからこそ、先輩が高校で知り合った誰かが先輩に心を奪われても、何も不思議ではない。

その可能性を考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。


しかし残念ながら、俺は先輩の連絡先を知らない。卒業前に聞いておけばよかったと、何度後悔したか分からない。会えそうな場所に張り込むことも考えたが、さすがにストーカーじみているのでやめた。そんなことをしたら、先輩に嫌われてしまう。


それから先は、ある意味簡単だった。

俺は『早く先輩の隣を手に入れる』、それだけを糧に勉学に励んだ。目標が明確になると、人間は強くなれるものだ。


先輩が進んだ行雲高校は、県内でトップクラスの名門校。中学一年の大切な期間を、サボりと先輩との時間に費やしていた俺にとっては、かなりハードルの高い挑戦だった。偏差値も相当高く、並大抵の努力では届かないレベルだ。


でも、また先輩に会えるならば、どんなことでも頑張れた。クラスで一番勉強ができそうなやつに、ノートのまとめ方や自主学習の効率のいい方法を教えてもらったり、テスト前には積極的に先生のところへ質問に行ったりした。周囲が驚くほど、俺は変わった。


「お前、急にどうした?」とクラスメイトに不思議がられたが、理由は言えなかった。


「好きな先輩に会うため」なんて、恥ずかしくて口に出せるはずもない。


そして二年後。


努力が実り、俺は先輩と同じ行雲高校(ゆくもこうこう)への入学を果たした。合格発表の日、自分の番号を見つけた時の喜びは、今でも鮮明に覚えている。


入学式を終えた数日後、部活動紹介が体育館で行われた。様々な部活が次々とステージに上がり、新入生獲得のためのパフォーマンスを繰り広げる。


そして、茶道部の順番が来た時。


茶道部部長として、部活動紹介のステージに立つ先輩の姿を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。二年間、ずっと思い続けていた人が、そこにいる。


「やっぱり、綿貫先輩だ」


先輩は相変わらず、凛として美しかった。


いや、以前よりもさらに洗練されて、大人びた雰囲気を纏っている。中学の時よりも、もっと手の届かない存在になったような気がした。


その日から、俺は再び先輩の隣を手に入れるためのアタックを開始する。今度は、ただ黙って見ているだけじゃない。


中学の頃は”サボり仲間”だった。


今は――“好きな人”として、改めて先輩に近づく。


この想いを、今度こそ伝えるために。


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