第1話ー 黒霧の祭壇と理想国へのチケット
暗雲に覆われた祭壇、黒霧の中で響く雷鳴。骸骨のような死霊術師が現れ、魂を差し出す者に「理想国への車票」を渡す――そんな場面から物語は始まります。
少し不気味で、でもどこか滑稽で、人間らしい欲望と哀愁が交錯する冒険譚です。どうか肩の力を抜いて、祭壇の光景を思い浮かべながら読み進めてください。
あなたの心に、ほんの少しでも温かい笑いが灯れば、それが作者にとって何よりの喜びです。
(●__●)
雷鳴が轟き、狂風が唸りを上げ、樹々は折れんばかりに激しく揺れていた。
稲光が天を裂き、周囲の闇を一瞬だけ照らし出す。その光に浮かび上がったのは、荒涼とした大地である。
俺はただ一人、この死寂の地に立ち尽くしていた。空気には湿り気と腐敗の匂いが満ち、呼吸するたびに土の味が混じるように感じられる。
目の前の光景にわずかな不安を覚えたその時、大地は光を呑み込み始めた。稲光の閃きすら、その深い闇を振り払うことはできない。
空気は濃く、霧へと凝り固まろうとしているかのようで、吸い込むたびに古の呪詛を取り込んでいるようだった。
俺はその場に立ち尽くし、言葉にできぬ予感を覚える――ここは単なる儀式の場ではない。むしろ、何かの存在へと通じる入口なのだ。
遠方から低く響く震鳴が伝わってきた。それはまるで古代の力が目覚めようとしているかのようであった。大地は微かに震え、骸骨を積み上げて造られた祭壇がゆるやかに姿を現す。まるで地の底から呼び出されたかのように。風は突如として止み、稲光すら息を潜め、世界は異様な静けさに沈んだ。
黒き霧の帳より、死霊術士がゆるやかに姿を現した。痩せ細った体は枯骨のようで、紫紺の長衣が風にかすかに揺れている。彼の歩みには音がなく、歩いているのではなく、何かに押し出されるように滑るように近づいてきた。
やがて彼は俺の耳元に顔を寄せ、骨が硝子を擦るような声で低く囁いた。
「チチチ──ヒヒヒ……死の門へ入るには、前世のすべてを捨てねばならぬ。たとえ最も大切な記憶であってもだ。そうして初めて、魂は完全なる再生を得るのだ。」
俺はしばし沈黙し、骸骨の祭壇を見つめた。遠方では雷鳴が低く響き、まるで俺の決断を急かしているかのようだった。
「それらを捨て、徹底して未練を残さなければいいのだろう?」
彼の言葉を聞き終え、俺は問いかけた。
死霊術士は深淵のように空虚な眼差しでうなずき、一言も付け加えなかった。
俺はひとつ息を吐いた。
未練?何を惜しむ必要があるのだ。
いつからだろう……俺の背後に注がれる視線は、畏敬から始まり、やがて媚びへつらいへと変わり、最後には数え切れぬほどの貪欲で無情な眼差しへと変わっていった。
そうだ、彼らは俺が早く死ぬことを望んでいる。
時折、どこかの片隅に足を運ぶたび耳にする声──
「いつになったらあの老いぼれは死ぬんだ! 俺の青春はまだ待っているんだ!」
「じいさんが近づくだけで吐き気がする匂い……遺産のためでなければ……」
「会長、どうしてまだ死なないんだ!」
その言葉は毎日のように俺の神経を圧迫し、まるで脳内で同じ文字を叩き続けるかのようだ──
死死死死死死死死死死死死死死死!
いつ死ぬのかは分からない。だが、どうせなら美しく、意味のある死を迎えたい。
彼らに手間をかけさせる必要はない……。
彼らが俺の死を望むなら、俺もこんな惨めに生き続けたいとは思わない。
実のところ、俺自身も人生をひどく退屈だと感じている。だから……
未練など、何ひとつもない。
なぜか?
この段階に至れば、君も同じ思いを抱くはずだ……。
そうだ、俺はすでに百五十歳だ。すべてを手に入れた。巨大な事業帝国を築き、数え切れぬほどの女と子供を持った。だが、俺にとって人生はとうに新鮮さを失い、残されたのは終わりなき反復と空虚だけだ。
医者は朝から晩まで、最も高価な栄養剤を使って俺の命を延ばそうとする。もちろん、それは俺から金を搾り取るためだ。息子や娘たちは皆、作り笑いを浮かべながら相続権を奪い合い、女たちは金を無駄遣いして整形に走り、もともとの自然な素顔の美しさを台無しにしている。
奇怪なものに変わり果ててしまった……まあ、もう語るまでもない。
歯もすでに新しい義歯を入れることはできず、皮膚は湯葉のように皺だらけ、両脚にも力はなく、補助具と杖に頼らなければ歩けない。この身体に、もはや未練などない。
何人かの妻は、背後で俺の皮膚の臭いを密かに嘲っている……。
百五十歳にもなって若い匂いをプンプン保てる人間などいるはずがないだろう!
だから……
もし理想国に辿り着けるなら、俺は新しい肉体と青春を手に入れられる!
そして今度こそ、真の愛――
すなわち理想の愛を見つけるのだ。
たとえ俺がどんな姿であろうと、彼女は完全に受け入れ、愛してくれる!
それは、なんと美しい……
なんと理想的なことだろう。
老人の妄想のように聞こえるかもしれないが、俺はむしろそれを真実だと信じたい。
自分をまるでジャガイモのように整形し、醜く、貪欲な女たちとは違って。
ふん!
とにかく、俺はこの退屈な世界から抜け出し、あの夢の国へ行きたいのだ。
最初の召喚が成功するまでを思い返せば――
およそ十九億を費やして様々な文献や古書を研究し、いくつもの別荘を焼き払い、ついに地下の秘密実験室で死霊術士を召喚することに成功したのだ、あああああ!
あの時の光景は、なんと衝撃的だったことか!
二七八九回の失敗の末……俺は二七九〇回目の召喚に臨もうとしていた。
すると黒い霧が地面から沸き立ち、潮のようにゆっくりと広がり、周囲の光を呑み込んでいった。
「まさか!?」
霧の中から一つの影が浮かび上がる――痩せた高い体躯、暗い紫の長衣が地に垂れ、顔には半ば裂けた白骨の仮面。
その一歩一歩はまるで地の底から踏み出すかのようで、声は低く、井戸の底から響くような反響を帯びていた。
「我を呼び出したのは……何のためだ?」
俺は一瞬の迷いもなく跪き、両手に厚い契約書の束、儀式図、魂の抵当証明、そして自ら描いた理想国の青写真を捧げた。
紙片は黒霧の中で震え、今にも呑み込まれそうに揺れていた。
「理想国への切符を一枚欲しい。」
彼は半ば裂けた白骨の口元をふっと歪め、まるで俺を審査するかのように、あるいは嘲笑するかのように笑った。
「ギギ――ヒヒ、何を差し出すつもりだ?」
「俺はすべてを捧げる。」
「肉体、記憶、過去、未来をも含めて?」
「俺のすべてだ。」
死霊術師は手を差し伸べ、その掌に幽光を放つ黒い符文のカードが浮かび上がった。
『理想国へのチケット 一枚』
俺はそのカードを受け取り、指が触れた瞬間、何かに刺されたような感覚が走り、魂の奥底が震えた。
「よし、準備はできている。」
彼は静かに頷き、地面に不思議な符文の円を描いた。
その中央から、ねじれた黒い幹がゆっくりと地底よりせり上がり、枝は脈動するかのように震え、淡い光を放っていた。
「これは転送の木だ。お前を儀式の地へと送り届ける。」
俺は深く息を吸い込み、木影の中へと踏み入った。
次の瞬間、空気が裂けるように引き裂かれ、嵐のような力が俺の全身を呑み込んだ。
目を開けると――
風が、骨を刺すように頬を切り裂く。
地面は濡れて滑り、泥濘には砕けた骨と枯葉が混じっていた。
遠方から低い轟音が響き渡り、まるで天空が咆哮しているかのようだった。
だからこそ、俺は今、全裸で風雨の中に立ち、
杖を握りしめて震えながら必死に支えている……。
「次は……」
言葉を発した直後、死霊術師はゆっくりと振り返り、その低く冷気を滲ませる声で語り出した。
まるで古代の亡霊の囁きのように、不吉な呪詛の気配を帯びていた。
彼は前方の骸骨で覆われた祭壇を指差し、袍の中から黒紅の符文に染まった小刀を取り出し、俺の手に差し出した。
「この刃で掌を裂き、血を骸骨に滴らせろ。血は魂の橋となり、汝を死の世界へと繋ぎ、転生の第一歩を踏ませるのだ。」
雷鳴が轟き渡り、まるで儀式の召喚に応えるかのようだった。
世界は息を呑むような静謐に沈み、万物が呼吸を止め、ただ俺と彼だけが運命の境界に立っていた。
「俺は行き先を選べるのだろう?」
死霊術師は瞳孔がほとんど見えないほど窪んだ眼で不気味に俺を見据え、口元をわずかに歪めた。笑っているようで、笑っていないようでもあった。
「ギギギ――ヒヒヒ――そうだ、旦那。」
彼の笑みはさらに深く、さらに不気味に沈み込んでいった……。
「光を見たら、その光に従って走って行けばいい。」
「思ったより簡単だな!はははーーハクション!」
安心したように笑い声を響かせた。心の中の疑問は解けた。俺は寒風に耐えながら杖を支え、ゆっくりと祭壇へと上った。足取りは骸骨の山の間で震えながら進む。風は止み、雷鳴は低く響き、空気は凍りついたようだった。
俺は小刀を掌に当て、深く息を吸い込み、皮膚を切った。血がゆっくりと滴り、骸骨の頭に広がり、まるで眠っていた存在を呼び覚ますかのようだった。
雷鳴は低く響き、風は止み、世界全体が息を止めたようだった。
と、思わず俺は振り返った。
「えっ?!えええええっーーーー!!!」
死霊術師がいなくなっていた!
本来なら俺の傍らに立ち、暗い紫のローブをまとい、呪いの気配を漂わせているはずの者が、まるでタイムカードだけ押して帰ったみたいに消えていた。衣の端すら残さず、「幸運を祈る」一言さえもなく。
俺は全裸のままその場に呆然と立ち尽くし、杖を支え、血を滴らせながら、儀式の場に取り残された孤児のようだった。
「……@$%^&――くそっ!あいつ、魂を受け取ったら逃げやがった!」
寒風の陰鬱な場所に立ち、思わず罵声を吐いた。
「おい!理想国へ連れて行くって言っただろう?どういうことだ、セルフ転生かよ?!」
周囲には誰もいない。骸骨の頭が血の跡の中に静かに横たわり、まるで俺を嘲笑っているかのようだった。
(幸い誰もいない……もしこんな姿を荒野で見られたら、寒風の中で裸の老人が血を滴らせて立っているなんて、完全にサイコだと思われるだろう。)
ちょうどその時――
祭壇が微かに震えた。
数条の霧状の黒い影が骸骨の頭から突然飛び出し、血に呼び覚まされた悪霊のように幾重にも俺を包囲した。
それらの黒影は生き物のように俺の周囲を旋回し、冷気が肌を伝って骨髄にまで染み込み、身を切るような寒さをもたらした。視界は次第にぼやけ、周囲の雷鳴や風音は吸い取られたかのように消え、胸腔の中で鳴り響く心臓の鼓動だけが残った。
霧状の黒影はゆっくりと迫り、まるで魂を侵そうとしているかのようだった。
「それは……」
その時、目の前に微かな光が突然閃いた。死寂の闇に灯る唯一の火種のように、小さくとも眩しく輝いていた。
「これこそ理想国への光……俺の導きだ。」
俺はすぐに死霊術師の言葉を思い出し、先ほどの不満はこの光の出現によってほとんど消え去った!
その光を見つめ、すでに枯れ果てた涙腺がこの時まさかの働きを示した――
(こんな美しい光は見たことがない……)
(めちゃくちゃ感動した!これこそ俺が追い求めてきたものだあああああ!)
一秒もためらうことなくその光を掴もうと手を伸ばした――
「えっ……これは?」
それはなんと、もう一つの光へと分裂した。
どういうわけか、突然背中に寒気が走り……不吉な予感がした。
(二つになった……)
俺は心の中で驚いたが、分裂する前の光を掴もうと思い、再び手を伸ばした。ところが、その光はさらに二つに分裂した!
この状況に対して呆然とし、完全に困惑し、どの光を掴めばいいのか全く分からなかった。
仕方なく、死霊術師から渡された《死のルートガイド》を取り出し、第一ページを開くと、そこにはこう書かれていた――
「迷う時、光は無限に分裂する。」
…………
「な、なんだとぉーー!」
俺は怒りに震え、慌てて後ろのページをめくったが、後ろのページはすべて空白だった!
あの忌々しい死霊術士は、転生の時にしか読んではならないと、わざわざ念を押していたのだ。
怒りが込み上げ、俺は杖を地面に叩きつけ、その忌まわしい導きの書を引き裂いて粉々にした。
「この死霊術士、光が分裂するなんて、一言も言ってなかっただろう!」
「死霊術士めーーーー!」
俺は怒りを込めて叫び、その声は空虚な闇に反響し、まるで宇宙全体に訴えているかのようだった。
打つ手がなく、俺はもう一度試すことに決めた。深く息を吸い込み、その光の一本に手を伸ばした。
しかし今度は、光がまるで指先の泡のように倍々に分裂し、瞬く間に目の前は無数の煌めく光線で埋め尽くされた。
それらは俺の周囲を旋回し、目を惑わされ、ほとんど選びようがなかった。
「……」
「%#@$%&FVW@!@#*~死霊術士は光が分裂するなんて一言も言ってなかった……ああああああああああああああああああーーーーーー!」
俺は地に跪き、狂ったように吼えた。声は荒野そのものを引き裂こうとするかのように響き渡る。
目の前の光は狂気じみて分裂を繰り返し、まるで俺の痛みを理解したかのように、いや、わざと挑発しているかのように乱舞していた。
その時――
砕け散った《死のルートガイド》の一頁が微かに輝き、そこに一文が浮かび上がった。
「選べぬ時、光がお前を選ぶ。」
反応する間もなく、一筋の光が矢のように胸へと突き刺さった。
「あああーーーーあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーー......あ……」
ひとすじの抗えぬ力が指先から全身へと駆け抜けた。まるで高圧電流……いや、これは雷撃だ!魂はその力に引き寄せられ、抗うこともできず、次第にこの暗黒の束縛から解き放たれていく。
やがて、支配から少しずつ抜け出したその瞬間、一筋の光がひときわ眩しく輝いた。黄金に煌めき、五彩に染まり、まるで夢に見た理想国を宿すかのような美しさだった。
「これこそ、俺が求めていたものだ!」
胸に信念が満ち溢れ、ためらうことなくその光へと手を伸ばし、強く掴み取った。
五彩に輝く光を握りしめた瞬間、再びひとすじの抗えぬ力が指先から全身へと伝わり、魂はその導きに従って暗黒の束縛を離れていく。周囲の影たちは俺の決意を悟ったかのように、悔しげに蠢き、引き戻そうと迫る。しかし、その光が放つ圧倒的な力が彼らを退けた。
俺は微笑み、黒影を見下ろしながら、誇らしげに光の源へと歩みを進めた。
光が次第に強まり、視界は眩しく刺すように輝いた……。
思わず目を閉じる。全身が光に呑み込まれていくようで、重さも音もなく、ただ剥ぎ取られるような感覚だけが残った。
再び目を開けた時、周囲はすでにまったく別の姿をしていた。
そこは静謐で穏やかな景色。瑞々しい緑の草原には奇妙な花々が咲き乱れ、空気には清らかで魅惑的な香りが漂っている。空は淡い紫と柔らかな青が溶け合い、画家が最も優しい筆致で染め上げたかのようだった。
雲は水晶のように浮かび、微光を瞬かせながら陽光の下で七色の輝きを放っている。
俺はこの理想国の縁に立ち、裸のまま震え、傷だらけでありながら、かつてないほどの静けさを感じていた。
(これが……魂を捧げた代償なのか?)
「ああああ……!これだ、これこそが……理想国なのか……!」
込み上げる悔しさと、慰めにも似た歓喜に震えながら、涙が頬を伝う。すべての悩みも疲れも、まるで一掃されたかのように消え去っていた。
ゆっくりと一歩を踏み出すと、草原は雲のように柔らかく、花々はそよ風に揺れながらまるで俺を歓迎しているかのようだった。
遠くからは柔らかな音楽が響いてくる。風が琴を奏でているようでもあり、誰かが低く詠っているようにも聞こえる。
思わず笑みがこぼれる。生まれたばかりの赤子のように、無防備な笑いだった。
だがその時――。
極めて小さな「ぱた」という音が耳に届いた。
紙が地面に落ちるような音。
視線を落とすと、一輪の花がゆっくりと花弁を閉じていく。まるで……目を閉じるかのように。
俺は身をかがめ、もっとよく見ようとした。
すると、その花が突然口を開き、かすかな声で囁いた。
「あなたは、間違った場所に来てしまった。」
俺は凍りつき、呼吸が止まった。
花弁は微かに震え、まるで俺の返答を待っているかのようだった。
遠方の雲がふいに瞬き、色彩が拭い去られるように一層褪せていく。
声を発しようと口を開いたが、出てきた音は……どこか奇妙だった。
(よかった、あの死霊術師は嘘を――えっ?……視界が、妙に歪んでいる……)
違和感が静かに忍び寄り、景色がより鮮明になるにつれて、冷たい感覚が背骨を駆け上がり後頭部へと突き抜けた。
周囲の花々は突如として途方もなく巨大に見え、草葉はまるで巨木のようにそびえ立ち、翠緑の草叢の間には石柱のように太い茎が縦横に交差していた。
……
俺は呆然と辺りを見回し、この状況が一体何なのか理解しようとした。だが視線を自分の手へと落とした瞬間――。
それは……小さく、脆弱な手だった。指先は鼻毛ほどに細く、かつての自分の掌とはまるで違っていた。
…………
「ど、ど、どうして……こんなことに……」
全身を震わせながら必死に自分の体を探ると、驚愕すべき事実に気づいた――俺は卵ほどの小さな身体へと縮んでしまい、皮膚は乾いた樹皮のようにざらつき、触れるたびに寒気が走る。腕は短く、関節は硬直し、呼吸すら困難で、肺が豆粒に圧縮されたかのようだった。
「シッ……ササ──」
突然、草むらからざわめきが響き渡る。巨大な昆虫が山のように押し寄せてきたのだ。金属のように輝くその躯体、六本の脚は柱状の機械のようで、一歩ごとに大地を震わせる。俺は平衡を失い、全身が気流に巻き上げられ、紙片のように翻弄された。慌てて身をかわし、湿った苔へと転がり込むことで、辛うじてその圧壊から逃れた。
湿った苔に伏せながら、全身は震え、心臓は爆ぜるように脈打つ。苔の繊毛が顔を擦り、粗い縄のように皮膚を締め付ける。
顔を上げると、あの昆虫の姿はすでに遠方へ消えていた。しかし、その残響はなお地の底で震動し続けていた。
「これ……これが、俺の望んだ理想国じゃない、だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──!!!
ああああああああああああああ──!!!」
その絶叫は悲嘆と狂気をないまぜにし、空を震わせながら幻境を引き裂いていった。周囲の色彩は急速に褪せ、花々は一斉に花弁を閉じ、雲は砕け散るように消え去る。大地の震動は次第に強まり、理想国の姿は崩壊の音を立てながら瓦解していった。
――残されたのは、絶望の声だけが反響する、冷たく暗い虚空だった。
俺は無力に声を漏らした。あまりにも弱々しく、自分の耳にすら届かないほどで、ただ風が通り過ぎる囁きのようだった。
どうにか元の姿に戻る手立てを探そうと辺りを見回していたその時、空がふいに暗く翳った。見上げると、そこには巨大な鳥が旋回していた。翼をひと振りするたびに烈風が巻き起こり、草葉はなぎ倒されていく。その双眸は燃える紅玉のように赤く光り、鋭い視線で地上の俺を射抜いていた――まるで獲物を見定めるかのように。
「だ、だめだ!」
俺は反射的に背を向けて走り出した。しかし、この草むらは迷宮のようで、逃げ場などほとんどなかった。鳥の影は波のように押し寄せ、冷や汗が全身を伝う。次の瞬間には巨大な嘴に呑み込まれるのではないかと思えるほどだった。
「来るなぁぁぁ──いやぁぁぁ──!」
必死に逃げる途中、細い蔓に足を取られ、俺は無様に小さな水たまりへと倒れ込んだ。必死に顔を上げると、水面に波紋が広がり、やがて静まった時――そこに映った「顔」がはっきりと見えた。
「^$#@xx@……ヒャあああああああ!これは何だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ──────────────!!」
まるで初めてホラー映画を観た女のように、俺は恐怖に突き動かされて絶叫した。その声は周囲に反響し続けた。
絶対に言える!こんな甲高い叫び声、自分でも知らなかった。
目に飛び込んできたのは、丸々としたジャガイモだった。皮はざらざらと黄土色で、額には垂れ下がった八の字眉が二本。どこか無念そうで哀れな表情をしている。さらに視線を下げると、目はただの小さな点が二つ、そして分厚いソーセージのような唇――まるで不満を訴えているかのようだった。
「う、うそだろ……!」
「これ、整形に失敗した女みたいじゃないかぁぁぁ!」
信じられずに『目』をこすったが、指先に伝わるのは土のようなざらつきだけ。短い芽を伸ばし、自分の滑稽な『顔』に触れてみた。だが何度確かめても、その哀れなジャガイモ顔は水面に映り続け、変わることはなかった。
「これが理想国での俺の姿なのか……?」
屈辱と無力感に満ちた心で、自分の倒影を見つめる。哀れな八の字眉とソーセージ口は、まるで悲劇の役者のようで、かつての威厳も気迫も消え失せていた。
俺は商界帝国の大ボスだぞ、女も権力も金も山ほど持っている!なのに……スーパーの特売ジャガイモにまで落ちぶれたのか……これは夢か……ううううう……。
ぽたり、と涙がひとしずく落ちた。
俺の前世では一滴の涙すら流したことがなかった。だが過去の記憶との対比の中で、まさか自分自身のためにこの一滴を流すことになるとは思わなかった。
夢に見た女、理想国の黄金……
それらは今やすべて泡となり、残されたのはこの滑稽なジャガイモの身体だけ。水面に映るその姿は、目覚めることのできない笑い話を語っていた。
「ザ──ザ──」
その時、水たまりの傍らから摩擦のような音が響いた。俺は驚いて顔を上げると、巨大な笑みを浮かべた虫がゆっくりと近づいてくるのが見えた。複眼には奇妙な興味が宿り、まるで美味しい小さな点心を見つけたかのようだった。
「や、やめろ……く、来るなぁ!」
慌てて後ずさったが、この哀れなジャガイモの身体はあまりにも不器用で遅い。影はじわじわと迫り、触角が草葉を撫でるたびに危険な光がその目に宿る。
「くそっ、死霊術師め!俺を元に戻せえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」
俺の無力な叫びは空へと吸い込まれていった。
この荒唐無稽な出来事のすべては、まるで運命から与えられた罰のように俺を押し潰す。
広大な理想国の中で、俺はただ一つの哀れなジャガイモの身を持ち、次々と迫り来る生存をかけた試練に立ち向かうしかなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。シリアスな物語とは違い、肩の力を抜いて書いているので、作者自身も楽しみながら進めています。もし少しでも笑っていただけたなら、それが何よりの励みになります。次回も荒唐無稽な理想国大冒険をお届けしますので、どうぞお付き合いください。




