11-1 相模 小田原湊
孫九郎は今川館への帰還を決めた。
兵の大半は残したままに、渋沢率いる先鋭五十と、承菊のみが連れだ。
最も早いのは船での移動だ。
船酔いをするとわかっていたが、今度ばかりは避けようとは思わなかった。
「勘助、後のことは頼む」
「はい」
見送る大勢を前に、勘助がしっかりと頭を下げる。
この男にしては珍しい態度だ。
やがて上げられたその表情は険しく、深刻なものだった。
関東の騒ぎはしばらく静観だ。
急に動く必要があるとしても、連れてきた兵の大半は残して行くのでなんとかなるだろう。
ちなみに、渋沢隊の残りと庵原軍は、陸路で帰還する予定だ。それでも、残存する相模衆がまるごと離反したとしても凌げる兵数なので、あとは勘助と左馬之助殿が大きな失態を犯さない限り問題はないと思う。
「ま、孫九郎殿」
正室の静殿にわき腹を肘で突かれ、左馬之助殿が前に出た。
孫九郎はその頬の赤い手の跡を見ないようにしながら、弱り切った表情の男に頷き返した。
「いずれ相模の国は、左馬之助殿に任せることになるだろう」
ざわり、と見送りに来ていた者たちの空気が揺れた。
わざと周囲に聞かせるように言った理由を、静殿は正しく理解したようだった。
拍子抜けした表情の左馬之助殿と違って、深く頭を下げて答える。
同時に、左馬之助殿の側近たちもそれにならった。
「静殿も……わざわざの見送り、痛み入る」
「いいえ」
ゆっくりと頭を上げた静殿は、控えめな表情でほほ笑んだ。
身分のある女性が公式に外に出てくるのは珍しい。
だが彼女は、孫九郎がこの地を離れると聞いて見送りに来た。
まだ左馬之助殿を支える気持ちがあるとみて……いいよな?
「左馬之助殿に愛想が尽きたら、伊豆に戻るのも良いが、いちど今川館へ参れ。歓迎しよう」
「まあ」
孫九郎のその言葉に、静殿は朗らかに笑った。
うん、いい奥さんじゃないか。よそに手を伸ばす意味がまったくわからん。
焦って何かを言おうとした左馬之助殿の足を、静殿がさりげなく踏む。小指だ。あれは痛い。
黙って苦痛の悲鳴を堪えた夫に目も向けず、静殿はおしとやかに一礼した。
「御屋形様!」
乗り込む船は直接湊に横付けされているわけではなく、沖合にある。
出迎えの小舟から下りてきたのは、清水九兵衛だった。
あいかわらず、孫九郎を見る目がキラキラしている。
「忙しい時にすまないな」
「いいえ! 砦のほうも順調です」
九兵衛はひときわ大きな声でそう言ってから、周囲の視線に初めて気づいた様子で口ごもった。
「風向きはどうだ?」
「は、はい。すごくいい風です。はは、は、早ければ一日、おお遅くとも二日で清水まで行けます」
一日? いくらなんでもそれは盛っているだろう。
孫九郎はそう思ったところで、己が戦国時代の陸路移動に慣れすぎていることに思い至った。
そうか。船だとそんなに早いのか。
もちろん風向きと荷の量によるのだろう。下手をすると陸路より時間がかかる時もあるはずだ。だがタイミングが嚙み合った時の速さは、この時代だとチート級だ。
これでもっと大型の船、西洋の喫水が深い外洋船があれば……
そこまで考えたところで首を振る。今はそんな場合ではない。
「できるだけ急げ」
「はい。お任せください」
普段は少し頼りない男の、自信ありげな断言にいくらか安堵した。
二日で戻ることができる。
今川館から小田原に出された書簡がたどった日数、いや京から運ばれてきた書簡のことを思えば、一刻も早い帰還は願ってもない。
小田原湊に横付けされた船は安宅船ではなく商船だ。前に駿河湾で目にした船とは違い、遠くまで早く荷を運ぶことを目的に造られている。
すでに相模から伊豆、駿河にかけての海は今川家が制しているので、大きな危険はないだろうという予想のもとでの選択だった。
太平洋は波が荒いので、安宅船では重すぎて転覆する恐れがあるそうだ。喫水が浅いのに上が大きいので、バランスが悪いのだと思う。
いざ小舟に乗り込もうと足を踏み出し、桟橋から身体が離れた瞬間。
ぐらりと足元が揺れた。当たり前だ。船だからな。
だがそのことで、孫九郎の貧弱な三半規管はたちまちエラーを訴え始めた。
一歩踏み込んだだけでこれだ。
あっというまに胃がむかむかし始め、商船に乗り込む前にもう吐きそうだった。
久々に桶と友情を確かめ合った。
抱きしめて顔を突っ込み、吐くものが何もなくなっても胃液だけがせり上がってくる。
こうなるとわかっていたから、今朝は何も食べていない。正解だった。
見通しの甘い小姓たちが船べりから吐いている。
その音と臭いに、こちらもまた嘔吐感が込み上げてくる。
たった一日、長くとも二日だ。
何日も、場合によっては十日もかけて歩いて戻るよりはと、選んだのは自分だ。
だがこういう時の時間の進みは遅い。
「吐き気止めは……ないか」
桶に顔を突っ込んだまま、背中をさする弥太郎に聞いてみる。もちろん答えはわかっている。薬を飲んだところで吐くだけだ。情けないが、耐えるしかない。
弥太郎はすぐに答えず、首を傾けた。
くそう、平気そうな顔をしやがって。酔わない奴らは全員化け物だ。
苦しむ孫九郎を見て、オロオロしている九兵衛を含めて。
「……眠るというのは?」
孫九郎は思わず桶から顔を上げた。見上げた弥太郎の顔は真顔だった。
この時代の商船のイメージとして、江戸時代には弁財船と呼ばれる系統を想像しています。
船員は三十人ほど。今回は荷物(乗客)として乗り、積み荷は最低限です。
一隻当たり三十人ほどの客を想定していますが、もう少し少ないのが正解かもしれません。
数隻編隊です




