下京 与平1-4
川の流れは早かった。
深さはそれほどない川だから、流れていく輿は見えている。
それに向かって、あらゆる者が手を伸ばしている。
与平は川に飛び込みはしたものの、なかなか輿に近づけなかった。
胸元まで水があると、思うように身体を動かせない。
同じように水に入った者たちも同様で、そのうち、誰が味方で誰が敵かわからなくなった。
与平はそれでも、本流に入ってしまいそうな輿を必死で追った。
どぶんと輿が深いところで沈んだ。
そこかしこから怒号と悲鳴が上がる。
急流に飲まれた輿は、そのまま下流へと勢いよく流れていく。
「姫様!」
川岸で叫ぶ公家の女衆。
流れていく輿を走って追う者たち。
すでに輿は遠いのに、川は大勢の男たちでもみ合いになっていた。このままでは……
与平が最悪の事態を覚悟したその時。
ピュイ! と甲高い指笛の音がした。
それは野鳥の声のように遠く、だがはっきりと耳に届いた。
忍びの子が真っ先に学ぶ、緊急を知らせる合図だ。
与平は強制的に興奮を抑えた。すっと視界が晴れて、冷静に状況を見渡す。
そろそろ夜が明ける。東の山の際が夕焼けのように染まり、もともと白い石が多い川原がくっきりと筋のように浮かび上がっている。
それと対比するように、川はまだ夜の色をまとった濁流だ。
忍びは夜目が利く。正確には、暗い場所でものを判別する訓練を受けている。
そんな与平の目が、中洲に上がるひょろりと細長い八雲の姿を捕えた。
だが見えたのは一瞬で、すぐに芦原の中に消えてしまった。
一条家の護衛のほとんどがこと切れていた。
真っ青になった公家装束の者たちが、震える女衆をかばうように立っている。
先ほど与平と話をした公家装束の若い男が、二言三言周囲の者に言葉を掛けてから、キッと下流を見据えた。
美しい装いの馬の手綱を取ったところを見るに、馬で輿を追いかけるつもりだろう。
「……そのほう」
すっとその前に立ちふさがった与平を見て、青年は警戒を露にした。
与平はさっと周囲を見回して、まだ敵がこちらを見ていることを確認する。
その動きを見て、青年もまたぐっと唇を引き締めた。
与平は無言のまま、京に戻る道の方向に手を動かした。この先に進み、川沿いを下って探したところで、同じことをしている敵と行き会ってしまうだけだ。
「退けよ」
青年は鋭い口調で言った。
公家の装束ながら、手には刀を握っている。
与平はあえて前に出た。馬の轡を握り、己より少し背が低い青年に手に握ったものを見せる。
桃色の、美しい布の切れ端だ。
はっと息をのむ音がした。
「手の者が、共に中洲に身を潜めております」
青年の目が中洲のほうに向きそうになったので、ぐっと強く轡を引く。馬は嫌がり、青年はとっさに手綱を退いた。
「敵に気づかれてはなりませぬ」
青年の視線が改めて与平を凝視する。
「ほかにお味方は?」
「……伏見に五十。堺に五十」
「少ないやもしれませぬ」
いや確実に少ない。
「それ以上は無理だ。洛中に多くの兵を連れてくることは許されないのだ」
そういえば、一条家は土佐に武士並の勢力を持つ。ならば兵を京に連れてくることも可能なはずなのに、そんな話は聞いたことがない。
上洛するには、限られた数の護衛しか許されないのかもしれない。
百の兵に、先ほどまでいた護衛を合わせたら、襲ってきた敵とも互角に戦えたはずなのに。
青年はひどい顔色のまま、ひび割れた声で尋ねた。すがるような声色だった。
「ご無事なのか? 輿には姫様だけではなく、若君もおられたのだ」
そんな話は聞いていない。
もとより、お姫様の状況を知っているわけではない。仲間に着物の一部を渡されて、大丈夫だと頷かれただけなのだ。
与平のその表情を見て、青年は再び馬のあぶみに足を掛けようとしたので、もう一度ぐっと轡を引く。
「伏見の五十の兵でも足りませぬ」
敵はおそらく、京を離れたところにもっといる。
「京にお戻りになられた方がいい」
少なくとも京では、敵もおいそれと動けないはずだ。
日が昇り切る前に、与平は中洲に向かった。
明るい中で動かないのは正解だ。だがお姫様がずっとあんな場所にいらしていいわけがない。
聞くところによると弟君も一緒のようだが、そちらもご無事とのことだ。
今が気候が良い時期でよかった。真冬だったら川に落ちただけで、生き延びることが難しかっただろう。
お二人の無事を聞いて、険しい顔をしていた青年が急に声をあげて泣き出したので驚いた。
どうしてもと言われて、中州に向かうのに仕方なく青年を連れていく。
もちろん、あの目立つ公家装束ではなく、小袖に袴の軽装でだ。
「……そうか、お勝殿の」
そして与平が改めて素性を告げると、青年は御屋形様の幼名を呟いて、また涙をこぼした。
なんとこのお方は、御屋形様とも知己なのだそうだ。
「できるだけ声を出さず、伏せていてください」
上流から小舟に乗り、八雲が消えた中州に向かう。
鴨川にはいくつかの大きな中洲があって、中には貧しい者たちの住まいが密集している治安が悪いところもある。
八雲が身を潜めたのは、葦と小さな柳の木が生えているだけの中洲だ。おそらくもう少し増水すれば水に沈んでしまうぐらいの。
京の町側からは見えない方向から中州に上陸する。
小舟が浅瀬に乗り上げる音とともに、サワリと葦が揺れた。




