下京 与平1-1
視界の片隅に、指文字の合図が過った。
与平は肩に担いでいた材木を台の上に置き、ふうと息を吐いて伸びをした。
素早い速さで地面に落ちた木切れや縄などを拾っていく子供がいる。
そのうちのひとり、そばかす顔の女の子が、大量の戦利品を抱え走っていく。
市井に潜り込むすべに長けた仲間を見分けるのは、人相よりも指文字の合図だ。
視線は合わない。声もかけない。
ただ、仲間が近くにいるという安心感が、わずかに胸を温める。
仕事を終えた深夜。与平は近所の目を気にしながら静かに長屋を出た。
しばらくは普通に歩いて、尾行がない事を確認する。
忍びだとわかるような動きはしない。
誰にも見られていないことを確かめてから、裏路地にある飯屋に入る。
深夜なので、ほとんどの店が閉まっているが、花街やそこに来る客をあてにした店はいくつか開いている。
裏路地にある店は、そんな顔をして暖簾を掛けていた。
与平の夜歩きも、食べ盛りの若い男が、夜中に腹を空かせてさまよっている体だ。
飯屋に入ると、幾人かの先客がいた。
さっと見回したところ、男が三人。
狭い店なので、それで席の半分が埋まっている。
奥から店の大将が酒を持って出てきた。
「八雲が戻ってきている」
与平はもう一度、店内には仲間しかいないことを確かめた。
「三好様に書簡を届ける」
大将の言葉に、それぞれが小さく頷いた。
ここにいる者たちは京に入り込んでいる忍びだ。
草といわれる者たちほど長居はしないが、必要な時に必要な仕事をするために町人に溶け込んでいる。
与平が畿内に来て、もうすぐ一年になる。口入屋から大工の仕事を請け負い、京だけではなくあちこちを回っていた。
「八雲が起きたらすぐに動く。京を出るのは明日の夜、あるいは明け方。折り返しで駿東、あるいは相模まで走る」
八雲の足は速い。本気で走られたら誰も追いつけない。だが、大事な手紙を抱えて一人で走るのは危険なので、同伴者が必要なのだ。
わかったと了承の頷きを返すと、大将は奥に引っ込んだ。
残された者たちは黙って酒を飲み、熱い汁物をすする。
時折小声で交わすのは、この先の仕事の手順だ。
全速力で街道を走るわけにはいかないから、進むのは道なき道だ。山中を突っ切ることになるので、どこで交代するかの打ち合わせをする。
あるいは追手がかかった場合の迂路。邪魔をされた時の対策など、ほとんどの手順は事前に決められているが、己がどの役割を担うかは知っておかなければならない。
与平は大工の仕事があるので、京を出たところから丸一日で往復できる距離までを担当する。
八雲はひとりだが、同伴者は交代制だ。これはもう何度も繰り返してきた手順だった。
与平は立ち上がった。
多くは語らず、仲間たちと別れる。
飯屋の外に出た時、夜間の風がひやりと首元をかすめた。
腹に入れた汁物のぬくもりを無意識のうちに手で確かめていた。
翌日。
昼の休憩中に握り飯を頬張る。濃い目の味噌がうまい。
「よいしょっと」
大工たちに握り飯を売り歩いていた鈴が、土手の際に座っていた与平の隣に腰を下ろした。
「……おい」
「大丈夫。はい」
脇に置いた籠から笹に包まれた握り飯を取り出し、反対側の手を出す。
与平は仕方がないと懐から小銭を取り出して渡した。
「たぶん、まずいよ」
川に石を投げ込みながら、鈴が囁いた。唇を動かさない喋り方だ。
彼女はそれだけを言って、立ち上がった。
傍目には、握り飯を売りつけただけに見えただろう。会話もほとんどなかった。
だが、受け取った笹の包みは二枚重ねになっていて、間に小さく折りたたまれた文が挟まっていた。
与平は、誰が見ていてもわからないようにすっと掌の内側に隠した。
こういうつなぎが来るときは、急ぎだ。
厠に行く振りをして席を外し、人目を避けて文を読む。
目を通して、顔をしかめた。
昼半ばから雨が降り始めた。
こういう日は、仕事は中止になる。
大工仲間が誘い合って飲みに繰り出し、与平も誘われたが断った。
言い訳に、幼馴染が京見物に来るからと言っておいた。
雨足が強まる中、裏路地の飯屋に駆け込んだ。
走っている奴らはたくさんいるので、さほど目立たなかったはずだ。
慌ただしく、つまり忍びらしくない大きな音を立てて引き戸をあけると、仕込みをしていた大将が嫌そうな顔でこちらを見た。
その表情が、さっと緊張する。
「まだいるか?」
与平が問うと、大将の首が小さく上下に振れた。
無言で店の奥に踏み込んだ。足音を潜めないのはわざとだ。
一応は客室になっているその部屋は狭く、ほぼ光が差さず薄暗い。
中央に四人用の卓があって、その隅に八雲がいた。
箸で蕎麦がきをつまんで、半分ほど口に入れている。
ムッとした与平に手のひらを向けて、口の中のものを咀嚼した。
その暢気な仕草にさらに苛々してきたが、大声を上げるわけにいかず、後ろ手に仕切り戸を閉める。
「一条の姫様が明日土佐に下向する」
遠くまで響かない声で囁く。
「宮様との御縁がなくなったそうだ」
「……まことか?」
「鈴が聞き込んできた」
八雲が箸を置いた。
公家は、与平たちにとっては雲の上の存在だが、一条家は御屋形様がずっと気にかけているご一家だ。
京に潜伏している仲間たちはそれとなく情報を集めていた。
もちろん御所内のことを知るすべはほとんどないが、噂というものはあっというまに下々にまで広がる。
火事で御所が焼けた後、ご一家が巻き込まれたという話は聞いた。
誰かが怪我をしたとか、そこまでは調べ切れなかった。
近く婚儀を迎えられるという話も聞いていたのに、土佐に下向するという。
それはつまり、破談になったという噂の信憑性が高いということだ。
「御屋形様が、火事の詳細と一条家の方々がご無事かをお知りになりたいそうだ」
八雲の言葉に、与平は唸った。
京にいる仲間は少ない。公家のほうへの伝手など皆無だ。
一条家の方々の消息はわかるだろう。だが、御所内の火事の状況を調べるのは難しい。
「……鈴が、たぶんまずいと」
「それは、どういう意味でだ?」
「わからん。だが、あの子の直感は昔から捨て置けない」
鈴は、幼い女童だった頃に、御屋形様を命がけで守った。
胆力があり、目端が利く子だ。
誰かから姫様の話を聞いた時に、危ない何かを感じ取ったのだろう。
ずくりと、与平の胸の内が騒めいた。
たぶん、まずい。
簡潔な言葉だが、内包するものは不穏だ。
不意に脳裏に、数年前に再会した御屋形様の顔が浮かぶ。
「土佐に下向なさるということは、まずは堺に向かうな」
呟いた与平を、八雲がまじまじと見た。




